23 フェリックスの贈り物

 春の訪れと同時に、四人は《悪魔の爪》の症状を抑える薬の開発を始めた。

 ヘンリックの父がくれたヒントを元に、薬の候補を絞り込み、生成し、少しずつ《悪魔の爪》のウサギに与えていった。

 ちなみに、トラウト助教はその後学院から姿を消した。そして教授会の話し合いで、退職となることが決まった。

 トラウトの部屋を調べた結果、どうやら軍部から実験と引き換えに多大な報酬を得ていたらしいことがわかったのだ。

 去年のアインツに引き続き軍部関係者を一掃する方針が固まっているため、退職を逃れることはできなかった。

 だがミアは釈然としないものを感じていた。耳に残ったトラウトの言葉からは、報酬などよりももっと大きな野望が滲み出ていたような気がしてしょうがない。


(力って一体何なの。それから、空に手が届くって――)


 悩みつつも、残された廃屋の実験室と《天使の涙》のウサギは薬科と医科で貴重な検体として引き受けることとなった。そして、偶然、まるで奇跡のように手に入った《悪魔の爪》のウサギは、ブラル教授の指導のもとミアたちが厳重に保護することとなったのだ。

 そしてこの偶然は、ミアたちの抱えていた大きな問題を一つ解決することになりそうだった。

《悪魔の爪》が感染しない、そのことを証明し、ブラルを説得する大きな材料になったのだ。




 そして半年ほど地道な実験が続いたある日、そのときはやってきた。

 例の実験室で保護していた《悪魔の爪》のウサギが跳ねた。そして自分から餌をねだる仕草をしたのだ。

 息をするのも億劫といった様子でぐったりと弱り切っていた頃を思うと、回復はあきらかだった。

 体重や体温の上昇など、データでは良くなっていると知っていたが、目に見えると喜びは違った。


「効いた?」

「効いたね!!!!」


 ミアが飛び上がり、フェリックスはミッショコンプリート! と、思わず彼女を抱きしめそうになったが、「ま、まだ完成してないからね!?」と、すんでのところでするりと逃げられた。

 心で泣いていると、ヘンリックがニヤニヤと笑う。


「まだまだ完成には程遠いな。これでデータが取れたらついに臨床試験に入る。そしてそれがうまくいけば治験だ。ここからが本番だ。フェリックス、ここからがやっと君の出番なんだけど、もちろん法律を勉強してたよね? まさか赤点とか取らないよね?」


 学期末の試験のことを思い出して青くなりかけたが、フェリックスは言った。


「で、でも、それが全部うまくいけばミアのお母さん出てこれるんだろ!?」

「……うん!」


 ミアは元気よくうなずいたが、フェリックスは見逃せなかった。

 ミアの笑顔に影が走っていた。


「……どうした?」


 これで臨床実験に向かえるというのに、浮かない顔をしている。思えば、この動物実験が始まってからずっと、ミアはどことなく元気がなかった。


「なんでもないよ?」


 ミアは俯いて顔を隠すと、「さっそく報告書書かないと!」と張り切ってノートに向かった。


「…………?」


 納得いかずにちらりとライバルを見ると、ヘンリックもどこかもどかしそうな顔をしてミアを見つめていた。


「小腹が空いたな」


 そう言うとヘンリックはフェリックスに目配せをして、実験室の外に出て行った。フェリックスはついていく。




 食堂とはまるで反対側、人気のない寮の前までやってくるとヘンリックはようやく口を開いた。


「ミアはどうしたんだ? せっかく効果が見られたんだろ? あれでお母さん、治るんだよな?」


 確かな効果を得られたのだ。大きな一歩だった。もっと手放しで喜んでいいはずのことだと思った。だが、


「根本治療をしたいんだ、ミアは」


 吐き捨てるようにヘンリックは言った。


「根本治療……」


 頭の奥が鈍い痛みに覆われる。フェリックスは、その痛みと同じものがミアを苛んでいるのだとわかった。

《悪魔の爪》の原因は魔力不足。それを解決せずに、全快とは言えない。ミアはそう思っているのだと気づいた。

 ヘンリックは悔しそうに地面を蹴りつける。


「だけど、これ以上何をどうすればいいっていうんだ? たしかに魔力の抽出と注入の方法がわかれば一番いいのかもしれないけど、トラウトの行方はわからないし、軍部に立ち向かう力もない。それに《天使の涙》でさえ、今はもう対処療法に向かっているんだ。薬はずっと飲まなければならないかもしれないけど、症状を抑えられたらそれで十分じゃないのか? それは健康とどう違う?」


 こんなふうに激するヘンリックも珍しい。フェリックスは意外に思う。やはり彼は見た目ほどクールではないのかもしれない。

 ミアの笑顔が見られない。そのことで自分に苛立っているのがありありとわかった。

 大人になりたい。力がほしい。

 フェリックスも同じ気持ちだからだ。

 どうすれば彼女の心からの笑顔を見ることができるのだろう。自分を救ってくれた彼女をどうやったら救うことができるのだろう。

 ずっとそればかりを考えている。

 フェリックスは拳を握りしめる。彼女にプレゼントをしようと思って準備を進めていたけれど、これでは喜んでもらえないかもしれなかった。


(根本治療、か)


 トラウトがやっていた実験と燃えたノートの内容が気になった。ミアはあれを欲しがっていたが、おそらく軍部に乗り込まないと手に入らない。

 フェリックスの頭になぜか一人の女生徒の顔が浮かび上がる。

 どうしてと思ったが、彼はすぐに気がついた。


(あぁ、そうか)


 解決方法を彼女が持っている。だから、その顔が浮かんだのだと。



 *



「ミア」


 実験室に残ったミアが報告書を書いていると、マティアスが声をかけた。てっきりヘンリックたちと一緒に行ったかと思っていたので驚く。大きな体なのに、気配がまるでなかった。

 彼は一度深呼吸をすると、低い声で問いかけた。


「あいつらのこと、どう思ってる?」


 質問に真っ赤になる。あいつらというのは間違いなくフェリックスとヘンリックのこと。一番近くで見ていたマティアスがミアの心の揺れに気が付かないわけはなかった。


「ど、どうって」


 適当にごまかそうとしたけれど真剣な顔で見つめられ、ミアは一旦口を閉じる。

 マティアスは追及した。


「まだ友達?」


 彼にしては珍しい強引さにぎくりとする。答えることができずに、黙り込んでいると、マティアスはため息をついた。


「おれとしてはヘンリックをお薦めする」


 意外な助言に思わず顔をあげる。マティアスはなんとなく、フェリックスの肩を持つ、そんな気がしていた。

 意図を問いたくて見つめ返すと、


「じゃないと、絶対に苦労するだろうから。ミアもだけど……あいつも」


 マティアスは眉間に深いしわを寄せ、苦いものを噛み潰したような顔をしていた。



 *



 季節は移り変わり、夏至の日がやってきた。一年で一番高いところにある太陽が、麦畑を方眼用紙のように切り分ける道を焼いている。その中を一台の馬車がのんびりと走っていく。

 小さな石造りの建物がぽつりぽつりとまばらに現れるが、ほとんどが水車小屋だ。古い水車が小川の水で緩やかに回っている。近代的な王都と比べるとまるで異世界だ。


 ここはミアの故郷だ。

 学期末の休みを利用して、ミアは母に報告をしに戻ってきた。(ちなみに学期末の試験では、ヘンリックが二年連続の堂々たる学年一位。そしてミアは学科主席をなんとか保った。そして……フェリックスとマティアスはあいも変わらず落第ギリギリの成績で留年を免れた)


 少しだけれど進歩があったことを伝えて、母を元気付けたいと思ったのだ。

 本音としてはすぐにでも治験に移りたい気分だったのだけれど、それこそ慎重にしなければ何もかもが無駄になってしまう。


「いいところだ。癒やされる」


 フェリックスがのどかな風景を眺めて言う。

 青々とした麦畑が風で波打っている。鳥が上空をくるくると舞っている。サナトリウムがあるような場所は大体同じような風景だ。民家は少なく、交通の便はすこぶる悪い。

 だというのにフェリックスとヘンリックとマティアスはミアについてきてくれた。王国の南端にある、田舎の町まで。


「もうすぐだな。おれ、ミアのお母さんに会えるの楽しみだけど……緊張する!」

「娘さんを下さいとか間違っても言うなよ。一気に危険人物扱いだぞ」


 大袈裟なフェリックスにマティアスが冷静に突っ込み、ミアは苦く笑う。そしてひっそりと


(変なの)


 とも思った。なぜなら、サナトリウムに行こうとも、母に会うことは不可能だからだ。きっと手紙を渡すのが精一杯。体調によっては、それさえも禁じられるかもしれない。

 病原菌ひとつで命が危ぶまれるのだから、仕方がない。

 でもそれでもいい。母に治療薬のことが伝われば十分だ。そう思っていたのだった。

 だが、フェリックスはやはりどこかソワソワとしたままだった。

 その理由はサナトリウムにつくとすぐにわかった。

 付属の施療院に入ると、今までなかったものがあったのだ。

 暗いだけの廊下になぜか光が注いでいた。電球でも付いたのだろうか? そう思って注意深く観察したミアは、光の差し込む先を見つけて固まった。


「うそ、どうして」


 だが、こんなことができる人間など限られている。

 思わずフェリックスを振り返る。すると彼はうなずいて微笑んだ。


「行っておいで」


 近づくに連れ、ミアは徐々に目を見開いた。


「うそ!!!!」


 足が勝手に動き始める。気がつけばミアはそこが病院だということを忘れて駆け出していた。

 サナトリウムの壁には大きなガラス窓が付けられていたのだ。

 そして窓の向こう側には一人の女性が立っていた。

 白いワンピースを着たその女性は、ミアと同じく赤い髪をしている。


「おかあ、さん」


 穏やかな細い眉に、細い鼻。ミアと同じ榛色の瞳。

 痩せてしまっていたけれど、何年経とうと忘れるわけがない顔だった。

 母は微笑んでガラスに触れる。ミアはその手に自分の手を重ねた。

 分厚いガラスだ。体温など感じるわけがないのに、どこか温かい。

 懐かしい、心に染みるような温かさだった。


(お母さん、お母さん、お母さん!)


 声にならない想いを込めて母を見上げると、母はただただ涙を流してミアを見つめてきた。


『ミア、会いたかった。大きくなったわね。元気にしている? 学院に入ったって先生に聞いたわ。頑張ったのね、一人で偉かったわね――』


 母の口が動く。聞こえないはずなのに、声が聞こえたような気がした。優しく穏やかな、ミアの大好きな声が。


「お母さん、私、頑張ったの」


 ミアは聞こえないと分かっていても必死で訴えた。

 この一年のこと。薬を作ろうと必死で勉強して、病気の原因を突き止めたこと。

 そして今も、薬を作るために頑張っていること。

 母はうんうん、とガラスの向こうでうなずいている。『大変だったわね』とまるで聞こえているかのように。


「私たちね、――あ、みんなを紹介するね、後ろにいるのがフェリックスとヘンリックとマティアス。みんなが、私のこと手伝ってくれた。だから、大変だったけど、全然辛くなかった!」


 ミアはいつしか泣きながらも必死で口を動かす。別れた日からの、十年分の想いが溢れて止まらない。

 ガラス越しに母の手をさすりながら、心の中で後ろにいる彼のことを想った。ミアが一番欲しいものをくれる、彼のことを。


(フェリックス、ありがとう)


 いつもの何倍もの大きさの感謝。

 それよりももっと大きな感情が胸を支配した。

 ミアが心にしっかりとかけていた鍵が音を立てて壊れる。とたん、またたく間にその気持ちは胸に根付いた。さらに熱を帯び、大きく膨らんでいく。


(ああ。フェリックス――私、あなたが、だいすき)



 *



 フェリックスは感動の再会を果たす親子を目にして、大きくため息を吐いた。

 二人の間にあるガラスは防菌と防寒のため、ずいぶんと厚い。だから本当は声が聞こえないのだろうけれど、心で通じ合っているように見えた。

 ミアはあのね、あのね、と顔を輝かせ、幼子のように止めどなく報告を続けていた。なにしろ十年分の報告だ。いくら時間があっても足りないのかもしれない。

 彼女が母と別れた六歳の時に時間が巻き戻ったかのようで微笑ましく、胸が熱くなる。


(よかった)


 あの笑顔は本物の笑顔だった。父との交渉でいろいろと背負うものは増えたけれど、お釣りが来ると思う。


「おかあさん。薬がもうすぐできるの。すぐに治してあげるからね。何にも怯えないで生きていけるように、わたし、今まで以上に頑張るから……!」


 涙を拭いたミアが、ガラスの向こうの母親に向かって言って笑っている。その表情は力強く、新たな目標が彼女の中に生まれているのが見て取れた。

 フェリックスはヘンリックとマティアスを見た。二人はどこか神妙な顔でうなずいた。


『何にも怯えないで』


 その言葉にミアの本音が滲んでいるのに気づいたからだろう。



 *



 王都に戻るとすぐにフェリックスは一人の女生徒のところへ向かった。

 休み中だけれど、彼女の居場所は有名なので知っていた。まだ議会が会期中なので、王都のタウンハウスに滞在しているはず。

 鉄柵に囲まれた大きな屋敷は、その存在感で他の貴族の邸宅を圧倒していた。

 重厚な扉から現れた執事に名を告げると、恐縮した様子の彼は慌ててフェリックスを応接間へと案内した。

 そして現れたアンジェリカ=ハイドフェルトは、フェリックスがやって来ることを知っていたかのようだった。

 彼女は婉然と微笑むと言った。


「お待ちしておりました。――取り引きをされますか? エミル殿下」



【第2学年 了】

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ミアと禁断の創薬レポート 山本 風碧 @greenapple

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