6 悪意の輪

 は、薬草学の授業の時だった。

 授業の終わりを告げる鐘がなり、教材を片付けようとしたミアは、隣にあったはずのかばんがなくなっていることに気がついた。

 空を切った手に鳥肌が立った。落としたのかと思って、床に張り付いて探したけれど、教室のどこにもかばんは落ちていない。


(ない、ない――、どうして!?)


 昼食のためにカフェテリアに向かうクラスメイトが不審そうな目でミアを見る。だが気にする余裕もなく、ミアはゴミ箱を漁る。古いから捨てられたのかもと思ったのだ。

 そして隣の教室、その隣の教室までもを覗き、薬科の校舎をくまなく探したが、ミアのかばんはとうとう出てこなかった。


 放課後、絶望感に溺れそうになりながらミアは法科の談話室向かった。日当たりの良い部屋の中は、さすが法科だと言うべきだろうか。クロスのかけられたテーブルには高級菓子が山となっており、芳醇なバターの香りが紅茶の香りに混じって漂っていた。フェリックスが嬉しそうに近づいてくる。


「どうした? 法科に何か用?」

「かばんがないのよ。見てない? ものすごく古いかばん。移動の時に置き忘れたのかもって思って」


 不安を打ち明けられる相手にようやく出会えて、ミアは思わず縋るように言った。科が違うからさすがにくまなく探すことは不可能なのだ。探すのを手伝って欲しい――そう願いかけたけれど、ミアはすぐに口をつぐんだ。

 フェリックスの隣にアンジェリカが現れたのだ。緑色の大きな瞳が不審そうにミアを見ている。


「薬科の人は談話室には寄らないでしょう? なにか勘違いしているのではなくて?」


 アンジェリカがニコリと笑って指摘する。笑顔だが、拒絶がにじみ出ている。出て行け。そう言われているのを察したミアは顔をひきつらせる。


「そうだね。ごめんなさい、多分、寮に忘れたんだよね」


 まだ探していない場所はある。引き下がったミアは、しょんぼりと肩を落として薬科の校舎へと戻ろうとする。

 だけど、肩を掴まれ、ミアは驚いて後ろを振り向いた。


「法科の校舎は、俺が探しておくから。安心して」


 フェリックスが心配そうにミアを見ていた。

 泣きそうになりながらミアは俯く。


「ありがとう」


 単純に嬉しかった。だけど、後ろにいるアンジェリカの目つきがあからさまに厳しくなったのを察して、ミアにはわかってしまった。かばんは出てこないかもしれないということが。そして、もしそうなったとしたら、その原因は、おそらく彼にあるということが。



 ◇



 悪意の輪というのは、本人が気が付かないうちに広がってしまうものらしい。まるで伝染病だとミアは思う。

 大事なかばんは結局フェリックスが持ってきてくれた。彼が言うには落し物として、職員室に届けられていたとのことだ。だけどそれを真に受けるほど、ミアはおめでたくない。

 何となくよそよそしいなと思っていたクラスメイトが、その次の日には口を利いてくれなくなっていたし、今日、薬科の授業でミアが着席すると、隣にいた生徒がそわそわと席を立ち、別の席に移動するまでになっていたのだ。そして他の席がすべて埋まってしまっても、ミアの隣は空席のままだった。

 それは専門の授業だけではなく、教養の授業でも行われていた。むしろ、教養の授業で始まった無視が薬科にまで伝染ったような気がする。


(やっぱり、かばんの件、勘違いじゃなかったんだ……)


 あれが嫌がらせだったとすると、今度はミアを孤立させようとしているのだろうか。


(だとしたら、そう仕向けている人間は――やっぱり)


 ミアは法科の談話室で会った時のアンジェリカを思い浮かべる。拒絶の笑顔の中にあった、虫けらをみるかのような侮蔑の眼差し。

 貴族でないミアには格差がありすぎてピンと来ないけれど、彼女は法科の中でも特に格が高い家の令嬢らしい。法科の人間は、フェリックスを除いて全て彼女の味方となったようだった。そして学院の双翼――学院正面から見た校舎の外観から、魔術科を左翼、法科を右翼と呼ぶらしい――と言われる法科を牛耳れるほどの存在ならば、学年全体を掌握することなど容易い。学院の勢力図は、この国の身分社会を縮図にしたようなものなのだ。上に逆らうのは愚者のやることだと、皆楽な方へと流れていく。救いは、あくまで縮図というところだ。学院では――たとえ建前だとしても――生徒は皆平等だと謳っているのだ。それがなければ、最下層にいるミアは絶望してここを飛び出していると思った。


(あーあ……しょうもないな)


 ミアは小さくため息を吐く。昔から心ない嫌がらせにも、一人にも慣れていたし、人付き合いに寄る煩わしいことも消えるのだから気楽と思えばいい――そう思い込もうとしたけれど、やはり一日中誰とも話さない日があったりするとぐったりと疲れた。夢と希望に満ち溢れていたはずの学院生活が徐々に色を失っていくのが、どうしてももの悲しかった。たまの教養の授業でフェリックスが話しかけてくれることもあるけれど、その会話が温かければ温かいほど、一人になった時の寂しさが倍増する。そもそもフェリックスはこの状況の元凶だ。鋭い視線が増強する気がして、悪いとは思いつつも、やがてミアの方から彼を避けるようになってしまった。

 寂しさに耐えかねて、自分からヘンリックに話しかけたりもしていたけれど、彼は相変わらず誰が相手でもそっけなく、自分の世界にこもりがち。集中するために耳栓をしていることもあり、そんな時は壁に話をしているのと同じだった。

 そして、ミアが彼のそばにいると彼に誰も話しかけない。もしも彼が嫌がらせされたらと思うと怖くなって、ヘンリックに話しかけるのもやめた。秋が終わろうとする頃には、ミアは薬科の中どころか、学年の中でも孤立してしまっていた。


 ◇


 学院の中央校舎の南に広がる前庭は、一月後の冬至祭に向けて美しく装い始めていた。葉を落とした木々は生徒の手に寄って金銀のモールで飾り付けがされている。賑わいを見せる生徒たちの中でミアはぽつんと一人ぼっちだ。賑やかな前庭を通るのが嫌で、中央校舎の北側に広がる裏庭を通り抜ける。そこにある丸裸の寒そうな木々を見ては、まるで自分のようだと思う。

 それでも授業に集中していれば、嫌なことは忘れられたし、むしろ勉学が捗った。施療院での実務経験や薬の知識のおかげもあって、ミアの成績は薬科で一番にまで駆け上がる。教授たちに一目置かれる存在にもなった。

 だが、いつまでもなんとかなると自分をごまかしているわけにもいかないことにミアは気がついた。

 授業では何かとチームを組むのだ。実験であったり、課題レポートであったり。それらは一人でもなんとかなっていたけれど、どうにもならないものがあった。

 それはミアの最大の目的である、卒業研究の計画書グランドデザイン作成だった。



「どうしても一人じゃ駄目なんですか」


 ミアはリューガー教授に向かって訴えていた。

 計画書作成では、各チームごとに代表者を決めるのだが、その代表者が属する科の主任が計画書の担当となる。ミア一人のチームだから、当然提出先は薬科の教授だ。そして薬科の教授の中で、よりによって一番厳しいと言われるリューガー教授がミアの担当教官となっていた。

 教授の部屋は北側の薬科校舎の一階にある。すぐ南に魔術科の校舎がそびえ立っているため、日差しもさほど入り込まず薄暗い。そして寒い。その上、壁の前面が本棚になっていて高い天井まで本が積み上がっている。まるで本が上から降ってくるのではないかと錯覚するくらいで、圧迫感がすさまじい。

 もうこうしてこの教授室に来るのも何度目かわからないが、ミアはいつまでも慣れずに居た。

 そして部屋の主も部屋と同じく迫力満点だ。いかつい眉を怒らせて、丸眼鏡の奥の灰色の目をギラリと光らせる。ミアの持ち込んだレポート用紙をちらと一瞥しただけで、ぽいっとゴミ箱に投げ捨てた。


「あああっ! ひどい! やめて下さい! せめて中身を見てからにして下さい!」

「一人でなど論外だから見る必要もない」

「どうして一人じゃダメなんですか!」

「規則だからな」


 取り付く島がないとはこういうことだろう。一人で計画書を作成したいと申し出たのだが、何度プロトタイプを持ち込んでも見てもくれない。駄目の一点張りなのだ。


「どうしてですか。チームでなくてもテーマは作れます。研究だって出来る。それを見ていただければわかると思うんです!」


 ゴミ箱のレポート用紙を拾い上げて突き出す。だがミアの訴えにも、リューガー教授は鼻で笑う。


「確かに君は優秀だ。薬草学などの伝統薬学の成績は文句無しに良い。精製実験の手際もいいし、テストも、他の基礎科学レポートの出来も悪くなかった。――だが、君は何のためにここに入ったんだ?」


 逆に聞かれてミアは答える。突きつけた計画書にもしっかり書かれている。


「薬を作りたいからに決まっています」

「薬は一人で作れるのか?」


 ミアは詰まった。ミアが今まで経験してきたのは、予め効能のわかっている薬草を摘んで、精製して、処方することだ。薬を一から作ることはまるで違う。

 計画書のプロトタイプを作る際、薬の生成過程を調べた。数ある自然物から有効な成分を探り当てて、精製し、動物実験、臨床実験を繰り返し、薬効があるかどうかを確かめる。同時に毒性の有無など副作用についても調べなければならない。無事に認可される薬ができるまでには、途方も無い時間とお金と労力がいるのは簡単に予想できた。

 しかもミアが治したい病は、今まで誰も治せなかった病。原因も治療法も全くわからない病なのだ。


「薬を作りたければ作りたいほど、余計に仲間がいなければどうにもならない。チームを組めないような人間はその時点で落第だ」


 再びレポート用紙を突き返され、落第という言葉がまるで人間失格と言われたようにも聞こえる。

 ミアは教授の部屋を飛び出した。

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