7 悪魔の爪という病

『いいかい、ミア。わしが死んだら、おまえに残してやれるのはこのかばんくらいだ。あとは自分の力を信じて上を向き続けるんだよ。おまえが諦めなければ、いつか、壁の向こうの母さんに会える日が来る。きっと来る』


 廊下を駆けるミアの頭のなかではレッツ先生の声が鳴り響いていた。

 いつも厳しい先生がそんな風に優しい言葉をくれるのは初めての事だった。そう言った数日後に先生はぽっくりと病で死んでしまったのだけれど、今思えば、死ぬことを予感していたからあのように言ったのかもしれない。

 父は物心ついた頃には居なかった。母とも壁一枚を隔てて生き別れたミアは、施療院のレッツ先生に引き取られた。助手という名目で、住み込みで働かせてもらったのだ。六歳の何もできない娘をだ。今思うと、王都から離れた田舎で人目がなかったからできたことだと思う。先生と過ごした十年は母と過ごした月日より長く、本当の親のように思っていた。

 その育ての親が亡くなり、ミアは後から来た新しい医師に施療院を追い出された。

 先生は自分が死ねばミアが路頭に迷うことをわかっていたのだろう。だからあの古かばんを託してくれた。その中には彼の遺言と、彼が内緒で貯めておいてくれた十年分の給金が入っていた。ミアは住み込みで働かせてくれるだけでいいとそう言ったのに、彼は未熟な見習いのミアに個人的に給金を出してくれていたのだ。

 遺言には『王立学院へ行け。そして自分の目で真実を確かめろ。そうすれば、おまえはきっと壁の向こうの母さんに会える』とだけ書かれていた。その言葉を支えに、ミアは半年の間、死ぬ気で受験勉強をしたのだ。


(ここで諦めたら、お母さんには会えない。だから――わたしは、負ける訳にはいかないの)



 涙をこらえて歯を食いしばり、ミアは中央校舎の教室に向かった。

 本鈴が鳴る。次は医科と薬科の合同授業『創薬の歴史』だ。既に助手のアインツ先生が授業の準備を行っていた。


「あら、ミア。遅刻なんて珍しいわね。早く席について」


 入学式で親身になってくれた彼女は薬科の先生だった。キラリと先生の眼鏡が青く光る。奥の瞳は相変わらず綺麗な紫色だった。手渡された資料には《ブリュッケシュタット抗争と天使の涙の発症》と書かれていた。

《ブリュッケシュタット抗争》と言うのは、百年前にようやく終わった隣国――太陽の国と称されたラディウスとの戦争のこと。大きな橋で繋がれた二国は国境線の位置で争いを繰り返していた。強大な魔術師軍を送り込んだ諍いを最後に、ラディウスはイゼアの支配下になった。大河で区切られた肥沃な大地を飲み込んで、イゼアは大国の仲間入りをした。そして、その最終戦争の際に、難病――《天使の涙》は発症したという――

 どうやら前回の続きらしいが、偏った内容にムクムクと湧き上がる不快感があった。


(難病? もう薬が作られている病を難病っていうの?)


 幼い頃からされされていた理不尽さ。いつもは無理矢理に押し込めている熱の塊が腹の底から湧き上がり、内臓を焼くようだった。ミアはそれを押し殺しながら腹に力を入れると、席に向かわずに、教壇の真ん中に立った。


「みんな」


 ミアの声に教室中の視線が集まった。届きますようにと、願いながら頭を下げる。


「お願いがあるの。わたしと一緒に計画書の作成を一緒にやってほしいの」

「…………」


 返事はない。それどころか、一瞬の間を挟んでまるでなかったことのようにわざとらしく雑談が始まった。


「お願い!」


 誰も聞いてくれない。それでもミアは頭を下げ続ける。


「お願いします! 名前を貸してくれるだけでもいい、あとは全部わたしがやってもいい!」


 雑談の声が一段と大きくなり、絶望して思わず涙が滲んだその時、アインツ先生が「静かに」と教室に静寂を呼び戻した。


「ミア、計画書とだけ言っても、じゃあ一緒にとは言えないでしょう。テーマを言わないと、誰も聞いてくれないわ」


 入学式の時と同じ、ささやかな手助け。手を差し伸べられてわかった。どれだけ辛かったか。どれだけこの手を望んでいたか。ミアは思わずこぼれ落ちた涙を慌てて拭う。少しだけ冷静さが戻ってくる。


「あの――」


 だが、ミアは胸の底に沈んでいた記憶に遮られて、発言をためらった。ミアが口にしようとしているのは、このイゼアでは忌み嫌われる言葉の代表格となった言葉。呪われる、と大人は、名を出すことさえも厭うため、恐れを知らない子供しか口にしない。口にしたとしても、それは罵声として使われるのだ。


『あいつの母ちゃん、――――なんだぜ!』

『うわあ、近寄んな! 伝染る!』


 心ない子供たちの声がミアを突き刺していく。傷ついて泣いていたミアを慰め、励ましてくれたのは、レッツ先生だ。


『きちんと説明すれば、わかってくれる。根気よく、短気を起こさず。特に君が目指すものには根気がとても大事だからね』


 強面の中の優しい目を思い出し、ミアは自分に言い聞かせる。


(大丈夫。ここにいる人たちは、もう子供じゃない。そしてとても頭が良いんだから)


 ためらいを吹っ切るとミアは大きく深呼吸をした。


「わたし、――《悪魔の爪》の薬を作りたいの」


 だがミアがテーマを口にしたとたん、教室全体に壮絶な嫌悪感が走るのがわかった。

《悪魔の爪》――それは殲滅されたラディウス王族の呪いだと囁かれる、《天使の涙》と同じくらいの難病だ。身体の免疫力が極端に少なくなり、最終的には些細な感染症で命を落とすという病で、しかも悪いことに接触感染して、感染性が高い。治療法がないため、一度罹患が発覚すると隔離施設サナトリウムに連行・隔離され、一生をその中で終えることになる。《天使の涙》と違い、魔術師だけでなく普通の人間が罹るため、イゼアで猛烈に恐れられている病だった。


「あくまの、つめ?」


 アインツ先生でさえも、その奇病の名に少なからず嫌悪感があったのか、口に手を当てて眉をひそめている。


「どうして、そんな忌まわしい病を――」


 先生の怯えに少しひるんだけれど、ミアは師匠の言葉を支えに恐怖を振りきった。きっとわかってくれる。ミアの信念を、ミアの情熱を知ってもらって、手伝って欲しかった。


「母が、罹患してるんです。だから、わたし、母を助けたくてこの学院に来たんです」


 刹那、教室中に走ったのは、先ほどとは比べ物にならないほどの憎悪に似た拒絶だった。


「出てけ! 今すぐ、ここから!」


 誰かが発狂するほどの勢いで叫ぶと、他の人間も「出てけ!」と続いた。ミアは衝撃を受けて目を見開く。

 それは昔ミアが受けた拒絶と全く同じ種類のものだったからだ。


(まさか、まさか。だって、この人達、薬科と医科で――)


 最低限の医療知識を持ってここに入っているはずであった。しかも、全校集会で《天使の涙》の少年の話が出たとき、病を憎んでも、患者を憎んではいけない。そう教えられたではないか。皆、頷いていたではないか。


「出てけ! だれがおまえと組むかよ! 伝染ったらどうしてくれる!?」


 恐怖はどんどん伝染し、皆がパニック状態に陥った。


「わたしは、わたしは、罹ってない!」

「わかるもんか。アインツ先生! この女、危険です。今すぐ隔離して下さい!」

「先生――先生なら、違うってわかりますよね!?」


 ミアは縋る。しかし、アインツ先生は明らかに怯んだ。それが教室の炎に火を付けてしまう。


「出てけ、出てけよ!」


 耳が聞こえなくなるほどの罵倒。いつしか騒ぎを聞きつけた他の科の生徒までもが遠巻きにミアを取り囲んでいた。ミアは味方を探して、ヘンリックを見つけた。縋るように目を向ける。賢い彼ならきっとわかってくれる――そう願ったが、彼は騒ぎなど気にすること無く、いつもどおり自分の世界の中だ。教室の隅で教科書に目を落としている。


(もう、だめだ)


 ここでは何も成し遂げることは出来ないと思った。ミアの夢は潰えて、そして、母はいずれ死んでしまう。

 ミアの膝が絶望で崩れ落ちた――と、その時だった。



「馬鹿じゃないの、おまえら」



 ミアの二の腕を掴んで支えて引き上げてくれたのは、いつの間にか現れていたフェリックスだった。


「フェリックスさま、近づいてはいけません!」


 後ろで悲鳴が上がる。声の主、アンジェリカはやめさせようと飛び出すべきか迷った末、結局その場にとどまっていた。


「親族が《悪魔の爪》にかかっていると言っていました! その女もきっと――」

「だから――馬鹿じゃないの?」


 フェリックスはその眼に蔑みを浮かべていた。


「罹患してたら、そもそも入学できないだろうが。法定検査もあるし、入学の前だって念入りに健康診断しなかったか? しただろ? っていうか、ここにいるの、ほぼ医科と薬科のやつだよね? 無知をさらけ出して恥ずかしくないの」


 フェリックスは怒りを抑える気は無いようだった。普段のにこやかな彼がこれほどに怒るとは誰も思わないのだろう。皆口をつぐんで気まずそうにうつむいてしまっている。

 フェリックスの援護にミアの心は僅かに浮かび上がる。だが、途中で心はすぐにまた沈み込んでいった。


『出てけ!』


 確かに《悪魔の爪》は伝染病だ。だけど、接触感染だから、きちんと対処をすれば、伝染ることはないと言われているし、それは日々患者と接していてもぴんぴんしていたレッツ先生を見れば明白だった。風邪に似た症状で穏やかに進む病だが、血液の検査をすればすぐに分かるのだから、これ以上広まることもないはずなのだ。

 彼らは村の子供と同じだった。いや、むしろ偏見はさらにひどかった。迂闊だったと思うけれど、後の祭りだ。

 恐れるべきは病なのに。だれも罹りたくて罹ったわけではないのに。病に罹った人間が、こんなふうに尊厳を傷つけられることには耐えられない。


「母は、サナトリウムにいて、もう十年会ってない、の。だから、――罹るわけ無い、の」


 母のことを思い出すとぐっと胸が詰まった。母とは六歳の時から離れ離れ。壁の向うに隔離された母には、伝染るからと、いくら頼んでも決して会わせてもらえなかった。ミアは十年間、音のない、温度のない、手紙でしか母を感じることができなかった。そして、その手紙も今はレッツ先生という伝を失ってもう二度と届かない。


(お母さん、お母さん――)


 ぽろぽろと涙が溢れる。それが悔しくて恥ずかしい。ミアがハンカチを探してポケットを探ると、その前にフェリックスが「そんな顔するな」とハンカチでぐいぐいとミアの顔を拭った。


「ありが、と――」


 うございます、と続けようとしたら、フェリックスはハンカチ越しに指で唇に触れ、言葉を奪った。彼はミアをじっと覗き込み、ふわりと笑った。


「お礼は要らないよ、だって今のこの状況は、元を辿れば俺のせいだから。ごめん。俺が口出したら悪化するって言われてたけど、さすがに我慢できなくて。――あぁ、あいつに怒られるかも」


 あいつって? と不思議に思いながら、ミアは彼も謝る必要が無いと思った。だって、彼は最初から最後までミアに話しかけようとしてくれていた。ミアが勝手にそれを打ち切ったのだから。

 わたしこそごめんと言おうとしたとき、それにかぶさるように低い声が響いた。


「ごめん、気づくのが遅かった」


 それは、いつここまでやってきたのか、気まずそうにしたヘンリックだった。あまりに小さな声で聞き間違いかと思う。すると彼はすぐに目をそらして、そっぽを向いて


「今年の計画書作成、僕といっしょにやらないか」


 と囁くように言った。隣でフェリックスが目を剥いて言葉を失っている。


「え、いいの!?」


 願ってもない申し出に、ミアは顔を輝かせた。だが、科が違ってもチームを組めるのだろうか。ミアは助けを求めるようにアインツ先生を見る。すると、彼女ははっとした様子で首を横に振り、「出来ません」と言った。

 だが、それを遮るようにして声が響く。


「いや、出来るな」


 リューガー教授だった。どうやら騒ぎの間に教室にやってきていたらしい。彼は口ひげの奥の口をにやりと緩ませる。


「前例はないが、医科と薬科は――というより、法科、魔術科をまたいでも全く問題はない。そのほうが内容の深いものが見込めるからな」

「え、そうなの!?」


 フェリックスが素っ頓狂な声を上げると、ヘンリックとミアの間に割りこむようにして言った。


「じゃあ俺も一緒にするから! あ、じゃあどうせならマティアスもいい? ほら、おまえ、『テーマ決まらねえ』って嘆いてただろう」


 呼びかけに応じ、どこにその山のような身体を隠していたのか、ぬっと魔術科の大男が現れる。ミアは怯んだ。


「え、えええぇえ……!?」


 医科と薬科の合同の研究はまだわかる。臨床実験などで協力しあうことは出来るだろうけれど、法科と魔術科が加わるととたんにカオスになると思うのだが。気持ちだけはとても嬉しいけれど。


「………正直、足手まといなんだけどなあ。法科の世間知らずのぼっちゃんで、しかも留年生の劣等生。あと図体だけは立派だけど、宝の持ち腐れっぽい魔術師なんて」


 ヘンリックが辛辣な言葉を吐いて、ミアはぎくりとする。この男の子はどうにもはっきりと物を言いすぎる。どう取り繕うかとミアは一人で慌てる。


「これ以上、いいところ持って行かれたら困るんで! 横槍っていうんだよこういうの!」


 だがフェリックスは譲らない。へこたれない彼に、ヘンリックは「君、ほんと、趣味悪いね」と呟いた。ちらと視線を流されて自分のことを言われていると気がついたが、ミアは否定する気にならない。そのとおりだと思ったのだ。あの程度のことでここまで懐かれるとは思いもしない。

 一気に疲れたミアの肩に「言い出したら聞かない。諦めたほうが賢明かもしれんな」と大きな手が載せられる。見上げると、それは魔術科の彼。


「俺は、マティアス=ヴァイス、魔術科だ。まだテーマも決まってないし、ご一緒させてもらう。一年間よろしく」


 なぜか彼はフェリックスの提案に従うらしい。無茶振りもいいところだと思うし、第一、どういう関係なのだろうか。腑に落ちないというのが顔に出たのか、マティアスは付け加えた。


「《悪魔の爪》が気になったんだよ。この学院では《天使の涙》の研究が主流だから」


 大男が傍に立つと、割と体格が良いはずのフェリックスが小さく華奢に見える。中肉中背のヘンリックは更に小さく見えた。


「うん、っていうか、卒研は《天使の涙》じゃないと認めない風潮があるよね。研究費もおりないし。まあ、医科と薬科の成り立ちを考えると当たり前だけど、そのせいでもうやりつくされてる感があるから、こっちのテーマは未開ですごく面白そうだ」


 ヘンリックが僅かに口元をゆるめて笑った。初めて見る笑顔にミアは目を丸くする。根っからの研究者気質なのだろう。怜悧な印象の若葉色の目が、興味でキラキラとしている。心強い味方を得たことに、ミアは大きな安心感を得た。

 ふと見るとフェリックスの顔が曇っている。握りしめた手がかすかに震えている。どうしたのだろうか、と思ってじっと見ていると彼はミアの視線に気づいて、いつもどおりの華やかな笑顔を見せた。


(気のせい?)


 なんだか最初に会ったとき――発作を起こしたときのことを思いおこさせる憂いのある顔だった。

 悩みなど一つもないような、天真爛漫なフェリックス。闇の底を覗きこむような陰鬱な影を見せるフェリックス。どちらが本物の彼だろう、そう思っているところにリューガー教授の声が響く。


「授業が随分中断してしまったな。残りは宿題にしよう。『創薬の歴史』についてレポートを各自提出するように」


 うええええという地鳴りのような声が響き、ミアは、おまえのせいだとでも言わんばかりのじっとりした視線を感じた。だが――ミアは思わずにやけてしまいそうなのを堪える。

 だって無視よりもずっといい。全然いい。

 粛々と「ごめんなさい」と謝ると、「埋め合わせろよ」と男子生徒が照れくさそうなふくれっ面でふっかけてくる。彼は確かミアに出て行けと最初に言った男の子だった。やっぱり、出て行けより全然いい。「うん」とミアは泣きたくなりながら頷く。

 それを皮切りに次々に薬科の生徒がミアに文句を言う。文句が謝罪に聞こえて、ミアは神妙に謝りつつも、心のなかで嬉し泣きをしていた。

 そしてきっかけをくれた――のかどうかはわからないけれど、仲間を作れと突き放してくれたリューガー教授、そしてミアに発言の機会を与えてくれたアインツ先生、それから――

 ミアはフェリックスを見る。彼はなんだか複雑そうに、だけどホッとしたように微笑んでいた。


『馬鹿じゃないの?』


 闇の中にぱっと光が差したかのようだった。あれだけの罵声の中、臆せずミアをかばってくれたフェリックスにミアは心からの感謝を送る。そして、頼もしかった背中を心に焼き付け、密かに彼の印象を書き換えたのだった。

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