18 テーブルの空席
慌ただしかった冬休みは終わり、ミアたちには日常が戻ってきた。
グランツでは大きな成果があった。だけど、気分が沈んでいる。それは目指していた根本治療という目標に調査が行きつかなかったこともあったが、……フェリックスがチームから抜けたことが大きかった。
図書館の談話室にいつも陣取っていたテーブルには今、空席がある。四人がけのテーブルにフェリックスはもういない。
彼は彼が言った通り、チームから離れ、アンジェリカたちと行動するようになったのだ。
マティアスは血迷っているだけだと言ったし、ミアも何か事情があるのだろうと思った――思いたかった。
だからそのうちフェリックスが戻ってきてくれると期待していたけれど、新学期が始まって五日経っても、彼はミアたちの元に顔を見せなかった。
だからミアは意を決して、皆で法科の教室まで彼に会いに行ったのだが……。
三人の呼び出しにもフェリックスは教室から出てこなかった。仕方なしに自分から教室に入り、アンジェリカをはじめ、法科の生徒が取り囲む中でどうしてと問うと、フェリックスは申し訳なさそうに言った。
「いきなりでごめんね? おれ、やっぱりチームには必要ないなって思って」
今更そんな理由で離脱など考えられない。嘘だと思った。
「そんなことない。フェリックスがいないと、私たちみんな困るよ」
反論する。だが、フェリックスは小さく首を横に振った。そしてちらりとヘンリックを見た。
「君にはヘンリックがいるから大丈夫だ」
含みを持たせた言葉にミアは眉を寄せた。
(もしかして……)
そういえばあのカエル祭りのあと、ミアは返事を書かなかった。その上でミアがヘンリックとばかり行動したから、ミアがヘンリックを選んだと思っているのだろうか?
「――私、誰も選んでない!」
真っ赤になったミアは誤解を解こうと慌てて否定する。だけどフェリックスの答えは変わらなかった。
「うん。だから……おれ、単に疲れたんだ。君たちの目標は高すぎて、落ちこぼれには荷が重かったし」
彼は笑った。らしくない、作り物のような笑顔だった。
そしてこれで話は終わりだと言わんばかりに、アンジェリカにその微笑みを向けたのだった。
アンジェリカは勝ち誇った笑みを浮かべ、フェリックスの腕に抱きつき、ミアは逃げるように法科の教室を出た。
あの衝撃の日から数日経ち、多少は冷静さを取り戻したものの……思い出すとため息が止まらない。
今でもどうしても信じられない。
だけど彼の選択をとがめる権利などミアにはない。
『――疲れたんだ』
どんな理由があれ、彼の気持ちを受け取らなかったミアには、彼の心変わりを責める権利などどこにもないのだ。
そんな彼がミアの母より大事なことができたのなら、友人として解放するべきだったし……フェリックスとアンジェリカは客観的に見て、とにかくお似合いだった。
(だって、彼は王子様だし。王子様の隣にはやっぱりお姫様がいるべきだし)
グランツでの二人を思い出す。イヴニングコートを着こなしたフェリックスに寄り添っていた、ドレス姿のアンジェリカは正真正銘のお姫様だった。
アンジェリカはきっとフェリックスにふさわしい。ミアなんかより、ずっと。
わかっていたけれど。わかっているけれど……。
(寂しい……な)
去年の冬、ミアの隣を常に温めてくれていたフェリックスがいないのがこんなに辛いとは思わなかった。
「ミア、ちゃんと聞いてる?」
「え、あ、ごめん」
ヘンリックがため息をついた。だが文句は言わない。憂鬱そうな顔を見るに、彼も彼なりにフェリックスの不在に心を痛めているようだった。
そしてマティアスもいつもの無口さに拍車がかかっている。今も例のウサギを撫でながらぼうっと窓の外を眺めている。冬休みが終わっても、まだ飼い主は見つからない。ウサギは前からマティアスが飼っていたと言ってもおかしくないくらいに彼になついていた。
「個別実験の申請書も必要だけど、動物実験だから倫理委員会の承認が必要なんだ。書類を作らないといけないけど……倫理委員長がよりによってブラルなんだ」
ヘンリックの言葉に憂鬱な気持ちがさらに膨らんだ。
ミアたちは冬休みの残りの日を薬の調合に費やした。ルドルフやメアリーに手助けをしてもらっていくつかの薬の候補を作ったのだけれど、作った薬の安全性と効果を確かめる必要がある。
イゼアでは臨床実験の前には動物実験をすることが法律で定められている。
そのための書類を作る必要があるのだが、どうしても踏ん切りがつかなかった。
「最後は絶対に人で実験をしないといけないんだ。そのときに万が一のことを起こすわけにはいかないだろ? 必要だ」
安全性の確認。だが毒性の有無についてはルドルフの個別調査もあり、ある程度は調べがついていた。
薬で死ぬようなことはおそらく起こらないだろう。だからミアが悩んでいる原因は毒性ではなかった。
「わかってる。だけど……薬が効くかどうかを確かめるためには……その動物を《悪魔の爪》に罹患させる必要があるでしょ。《悪魔の爪》に罹患させるってことは、毒を盛るのと変わらないなって思って……」
だからどうしても気が乗らないのだ。母のために、他の命を奪う。考えると怖くなる。それは正しい行為なのか、と。
「……一番難しいのは、どうやって罹患させるのかってことだけどな」
ヘンリックが難しい顔をしている。たしかにその問題が先に横たわる。だけどミアがまず超えなければならないのは倫理だった。そこを超えないと、次の話には向かえない。向かっても、そこで結局止まってしまうからだ。
なにか他の方法はないのだろうか。高い壁を超えずにすむ回り道は。
「ヘンリックは……動物実験についてはどう思ってるの」
「それを考えだすと食事もできなくなるよ」
彼はまっすぐにミアを見た。
「人間は他の命を搾取して自分が生き残る。そういう利己的な生き物だ」
揺るぎない目をした彼は言う。
彼は彼なりに考えて、その上で割り切っているのだと思った。だがミアは割り切れない。薬を扱う上で避けて通れないのはわかっている。だから甘いのだろうなと思うけれど。
(避けて通れない。誰かが絶対にやらないといけない)
それはミアを除いていないだろう。ミアは求めるものに対して責任と覚悟を持つべきだった。
だけど怖い。
フェリックスならどう思うだろうか。
そんなことを考えてなんだか息が苦しくなった。彼はもうここにはいない。彼もまた、己のためだけに生きていく。
それでいいのだ。たぶん。
「うん、……そうね。わかった。書いておく」
割り切れなさを飲み込むと舌に苦いものが広がった。
堪えて微笑んだ後、ため息が漏れそうになる。すると代わりのようにマティアスがため息を吐いた。
憂鬱そうな彼を見てミアはふと思った。フェリックスの保護者と言っていた彼はここにいていいのだろうか。
(保護者って言うけど、王子の護衛だよね? それって傍にいないと意味がないよね? 職務放棄したら大変なことになるんじゃ……)
「マティアスは……」
だがミアはためらった。彼まで手放すことを考えたら怖くなった。
「おれは、ここにいる。あんなやつどうなろうと知らねえ」
自暴自棄な態度を見て、フェリックスの離脱でいちばん傷ついているのは彼なのではないだろうかと思った。
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