19 ウサギは逃げる
『どういうつもりだ?』
『別に。言葉通りの意味しかない』
法科の教室ミアが逃げるように去ったあと。ヘンリックがすれ違いざまに尋ねると、フェリックスは言った。笑顔だと言うのに、その目には隠しようのない荒みがあった。だからヘンリックはフェリックスの真の意図を探るために言った。
『そう。まぁ僕としては願ったり叶ったりだけどね。遠慮はしないよ?』
だが、フェリックスは挑発に乗らなかった。
『御自由に、どうぞ』
返ってきたのは荒みの消えた綺麗な笑顔だった。全ての感情を押し隠す――そんな芸当ができるとは思わなかったので意外だった。いつも感情のダダ漏れていた彼には似合わない。
何も掴ませないという覚悟を見て、ヘンリックはヒヤリとする。彼との勝負に勝てないかもしれない、初めてそんな予感がした。
「ヘンリック? どうかした?」
ミアの呼びかけにはっと我に返った。
「ここの書類の書き方なんだけど。名前は連名でいいと思う?」
ミアの顔には笑顔が貼り付けられている。あからさまな空元気というやつで今にも剥がれそうだと思う。
そんなミアを見ていると、フェリックスの抜けた穴はヘンリックには埋められないような気がしてくる。予感がどんどん確信に変わっていく。
(そうだ、今の答えだって……それから、対処療法のことだって、あいつならミアの望む答えを出せるんじゃないのか?)
自分と誰かを比べたことなどいままでに一度もなかった。
自分が無力だと思ったこともほとんどない。
初めて味わう挫折感は苦かった。知らずため息を吐くと、ミアの目もマティアスの目も曇った。
気を紛らわせようと書類に目を落とす。
(そうだ。動物も手に入れないといけないのか……)
相手は正論博士ブラル。そう簡単に審査が通るとは思えなかった。関係ないの一言で却下されそうだ。
(学外に出て捕まえてくるか? 僕はそういうのは苦手だし……適任は今いないし)
そんなことを考えながらふとヘンリックが目線を下すと、赤い目のウサギと目があった。
「あ。ちょうどいいのがいた」
ヘンリックが何気なく言った時だった。何か感じ取ったのか、ウサギは窓から庭へと飛び降りた。
*
エミル王子を落としてこい、それが学院に入る際にアンジェリカが父から受け取った命令だった。
アンジェリカは素直にうなずいた。父の仕事のために必要なことと言われれば、断ることは不可能だった。
貴族の家に生まれた娘には選択肢はない。残された選択が幸運に繋がっていることを祈るだけだった。
だから、アンジェリカは夢を見た。獲物が理想の相手であれば良いと。だから一年の時は目が曇ってしまったのだ。この人だと――この人であればいいと願ってしまったのだ。
一目惚れに近い感覚だった。それほどに彼は美しかったから。
だが、去年のサナトリウム侵入事件でアンジェリカはフェリックスを見切った。あのレベルの馬鹿は王子ではあり得ないと。そもそも留年生が王子のわけもなかったのだ。
ならばもうあの男に用はない。それが去年の末にアンジェリカが出した結論だった。
今のアンジェリカにはジーンというターゲットがいる。アプローチはのらりくらりと躱されているが、それがまた噂の信憑性を高めていた。
だから、なぜか接近してきたフェリックスを嫌がらせのためだけに利用した。
まんまとあの女に一泡吹かせることができたのだ。あの女――ミア=バウマン。卑しい生まれのくせに男を侍らせて調子に乗っている女だ。
彼とミアの間にあるのが友情か恋かは知らないが、罅を入れたら用済みだった。
すぐに追いかけると思った。
だが彼は予想に反してミアを諦めたと言い、振るタイミングを逃したアンジェリカのそばにいる。
(諦めたというのは本当なの?)
それとも何か企みがあるのだろうか。近づいたタイミングを考えるに、アンジェリカの父の地位――魔軍大臣に惹かれたのだろうかとは思う。男爵家の三男坊だとしたら妥当な望みだと思う。爵位を継げない彼らは自分たちで地位を手に入れる必要があるからだ。
男という生き物は権力に惹かれる生き物だ。アンジェリカの伴侶となれば、父の力で地位が得られる。そういう男が寄ってくることは多々あった。
……だけれど……彼に限ってはなんだからしくないと思った。
親しくはしていなかったから、なにが、どうとは言えないのだけれど。
彼のミアへの態度は犬が主人に忠誠を誓うようだった。だからこそ、あんな風にあっさり忘れるというのが、どうしても不自然に思えて仕方がない。
(いや、あっさりではないのかも)
彼は笑顔という仮面の下で泣いているような気がして仕方がない。だとするとそれはなんのためだろう。
(この方、私のなにが欲しいのかしら……? お父様の権力? それとも財力? いえ、資産家のはずだから、財力ではないかしら……)
今更ながら彼の素性が気になった。疑いは晴れたはずなのに。地中からむくむくと芽が飛び出す。
「殿下」
そっとささやく。そして確かめる。フェリックスは振り向かない。自分のことだとは思わないような仕草。アンジェリカが見つめると、彼は振り向いた。
「どうかした?」
聞こえなかったかのような顔。自分が呼ばれたのではないと思い込んでいる顔。
所作は自然だった。だが、自然すぎる。
(この人は、嘘を吐いている)
それは自分に嘘を吐き続けているアンジェリカにははっきりとわかった。
ジーンをちらりと見ると彼は困ったように微笑んだ。アンジェリカの心の揺れに気付いているのかもしれない。
(どちらなのか確かめないと)
不実だと烙印を押されてはまずい。だからなんとかしてすぐにでも見極めないと。
(どうすれば、わかる?)
ふと窓の方が騒がしくなる。
『おねがい、開けて!』
どうしたのだろうと思って視線を泳がせると、ミア=バウマンの顔が見えた。彼女は窓を叩く。
「あのっ」
クラスメイトが窓を開けると、ミアは窓枠に手をかけ、乗り上げるように体を持ち上げる。そして叫んだ。
「う、ウサギを見なかった!?」
フェリックスをじっと見つめてすがるように言う。
懲りない女だとアンジェリカはフェリックスを見やった。
彼の表情は変わらない。綺麗な笑顔のまま。
「見なかったよ」
ミアは目を翳らせたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「……ありがとう」
彼女が窓から消えるなり、フェリックスが苦しげに胸を押さえる。どうしたのだろう、眉をひそめた時には彼の調子は急変していた。
ひゅうひゅうという苦しげな呼吸音が教室に響く。ここ一年、元気な姿しか見たことがなかったので、彼が病気で留年していたということを忘れていた。
(ど、どうすれば)
ふと思い出した。入学式の時、同じ症状で苦しんだ彼を助けたのは。
「あ、あの子。あの子なら――ミアを連れてきて!」
そう言って自分も窓に駆け寄ろうとしたが、それをフェリックスが阻んだ。必死の形相でアンジェリカの手首を掴む。
「だ、いじょ、うぶ、だ。彼女、は関係ない。叔父を呼んでくれ」
今にも死んでしまいそうな様子なのにきっぱりと拒んだ。
(……叔父?)
引っかかりつつも壮絶な顔にアンジェリカは固まった。どうすればいいかわからなくて途方に暮れる。とそのとき、
「ここにウサギは――」
低い声が響き、大きな人影が教室に現れた。
「あなた」
血のような赤い目。確か魔術科の、彼の友人だ。彼は息を荒げるフェリックスを見たとたん、教室が震えるほどの大声で叫んだ。
「フェリックス!!」
「ま、てぃあ、す……?」
マティアス=ヴァイスはフェリックスを軽々と肩に担ぎ上げる。その熊のような体格と筋肉は飾りではないようだった。
彼はアンジェリカを一瞥すると「保健室に連れて行く」とフェリックスを拐って行った。
*
「どうしてなんだ」
症状が落ち着いた頃、マティアスは尋ねる。
ミアを呼ぼうとしたが、フェリックスは頑なに拒んだ。そのせいで発作はずいぶんと長引いた。薬など、ミア以外にないのだ。
フェリックスは天井を睨んで黙ったままだった。
「あんたが発作を起こすってことは、相当無理してるってことだが……ミアとのことが原因だろ?」
マティアスは、フェリックスがアンジェリカを選んだ時のことを何度も思い返した。いくら考えても、どうしても納得いかなかったのだ。
最初はふざけるなと頭に血が上ったが、時間をかけてよくよく考えるとあのフェリックスだ。振られて疲れるわけがない。あのしつこい男があのくらいのことで諦めるわけがない。
ならば、すべてはきっとミアのため。彼女に誤解をさせてまでやり遂げたいことがあるのでは、と思った方がずいぶんとしっくりきた。
そしてこの発作で仮定が正しいと確信した。
だがフェリックスはやはり沈黙を保つ。頑固者め、思わずそう毒づいた。
「おれにも話せないことか」
幼なじみのおれにも。怒りが湧いてくるが、それは頼られない自分への不甲斐なさからだった。
呻きに似たため息が漏れると、
「もうすこしだけ、待ってくれ」
フェリックスは天井を見つめたままそう言った。顔からは幼さが抜けている。
それを見てマティアスは思い出した。
前に彼がサナトリウムに侵入する前、こんな思い詰めた顔をしていなかったか、と。
「無茶はするな。ミアが悲しむ」
にわかに焦ったとき、無茶という言葉でなにかが心に引っかかる。前に、フェリックスは何か無茶なことを言っていなかったか?
記憶を探るが出てこない。余計に焦っていると、フェリックスがベッドから起き上がった。
「大丈夫だ」
発作など嘘だったかのように、フェリックスは颯爽とベッドから抜け出すと笑った。そして保健室から立ち去ろうとする。
「待て。――おれは、おまえのなんなんだ!? そんなに頼りにならないのか!?」
思わず漏れた、心の奥に仕舞い込んでいた問いかけだった。
主人で。幼なじみで、そして保護者で。だけどここ一年でそれだけじゃない、別の関係だと勝手に思い始めていた。
もしかしたら、クリスがいなくなる前の関係に戻れたのではないかという淡い期待もした。だがそれも錯覚だったのかもしれない。
フェリックスは立ち止まる。
「もし無茶をする時は……力を貸りるつもりだから。その時は、頼む」
背中を向けたままぽつりと言うと、彼は保健室を立ち去る。
マティアスの求めていた答えではなかった。だが、無茶をするときに頼るのは、友人という関係ではないだろうか。
「なんなんだよ、一体」
立ち尽くしたマティアスは震えそうになる声を隠すように口を手で覆った。
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