20 取引をしましょう
はらり、はらりと枯れ葉が舞い落ちてくる。ほとんど裸になった樹木に必死にしがみついている枯れ葉。それを冷たい北風が容赦なく嬲っていく。
だが軽い興奮のせいか、不思議と寒さは感じない。
アンジェリカは寮への道で待ち伏せをしていた。
男子寮と女子寮への分かれ道には小さな木立がある。木陰でひたすらに待つ。
あの体調では授業には戻らないと踏んだ。おそらく寮の自室に戻るだろうと。
そしてその予測は当たった。
かつ、かつという靴音が響き、アンジェリカはそっと道に足を踏み出した。通せんぼをするように。
行手を阻まれたフェリックスは目を見開いた。
「アンジェリカ?」
そう問いかけた顔はまだ青白い。発作は見ているだけで苦しくなるようなものだった。近くで見ると体が弱くて留年したというのも納得できた。
だが、やはり留年には別の理由があったと今は確信している。
『叔父』
ミアを呼ばれたくなかったからなのか。それとも体調不良のせいで頭が働かなかったのかはわからないが、思わず漏れたといった様子だった。
学内の血縁関係について考えを巡らせたら、すぐに分かってしまった。
アンジェリカは学院関係者の血縁関係については貴族名鑑によって掌握している。だが把握できていないのは一人だけだ。それは理事長のランドルフ=マイヤー=ローエンシュタインの甥、エミル=フェリックス=レオナルト=ローエンシュタインだ。
ならばもう二兎を追う必要はなかった。
ふと脳裏をジーンの顔が掠める。
彼と過ごす時間は楽しかった。だが無理やりにそれを消去する。彼を落としても、父に褒めてもらえないから。
「大丈夫ですか?」
聖女の顔ができているだろうか。精一杯の労りを顔に浮かべる。
「あぁ。もう平気。死ぬようなものじゃないし」
「……病気は治ってはいないのですね」
「まぁ持病みたいなものだし、気長に付き合って行くよ。ところで授業はいいのか? おれと違って君は優等生だろう? サボらない方がいいと思う」
そう言うと彼は微かに煩わしそうな表情を浮かべ、アンジェリカの隣をすり抜けようとする。
アンジェリカは遮るように問いかけた。
「どうしてあの子――ミア=バウマンに介抱を頼まなかったのです?」
その名を口にすると、彼の体はわかりやすく強張った。
「呼び止めるほどじゃなかっただけ」
だが彼は振り返って笑う。だがどこか苦しげで泣きそうな顔。見ているとなぜかずきり、と胸が痛んだ。
その表情はあまりにも雄弁だった。
やはり彼はミアを忘れていない。そしてアンジェリカに近づいたのも、きっとミアのため。
そう思ったとたん腹の底がカッと熱くなる。どうして、と思う。
(どうしてミアばっかり? あんな子のどこがいいの)
それは怒りだった。
幼い頃から高貴な人間の伴侶になるべく育てられてきた。家のために――父のために好きなことを諦め、耐え難きにも耐えてきた。
そうしないとアンジェリカの存在には価値がないからだ。
だというのに、好きなことばかりをしているミアにどうして全て奪われるのだろう。
母が病気だから同情している? それを言うなら、アンジェリカにも母はいない。二度と会えない自分の方が、哀れなのではないか?
アンジェリカにはわからなかった。
「フェリックス様。私ではだめですか。お力になれませんか」
真剣な眼差しで見つめる。そしてアンジェリカはフェリックスに抱きついた。そして真剣な顔で嘘を吐く。
「お慕いしています、エミル殿下」
「な――!?」
焦ったのかフェリックスは名を否定する前に周囲を見回した。授業中を狙ったのだ。人はいない、はず。
(ん? 人の気配……? でも誰もいないわよね?)
もう一度念入りに確認した後、アンジェリカはフェリックスを誘うように見つめた。
「ですから殿下。まどろっこしいことはやめて取引をしませんか」
「……!? とり、ひき?」
フェリックスは目を見開き、怯む。
「あなたの欲しいものをあげます。だからあなたも私の欲しいものをください」
フェリックスはしばし考え込んだあと、小さな声で問いかけた。
「……君の欲しいものはなんだ?」
そのとき近く足音が聞こえてくる。アンジェリカは離れようとするフェリックスの腕を掴む。
フェリックスはぎょっとしてアンジェリカを振り払おうとする。だがそれを拒んでアンジェリカは囁いた。
「私は――」
それはずっと欲しかったもの。彼女が必ず手に入れなければならないもの。
フェリックスは「少し考えさせてくれ」と言った。その表情は痛みに歪んでいた。葛藤が彼を蝕んでいるのが見てとれた。
「良いお返事をお待ちしておりますわ」
アンジェリカは微笑むと手を離して踵を返す。
*
フェリックスは呆然と立ちすくんだ。
負け犬のようだ、そう思う。
だが、アンジェリカにせまられたおかげで目が覚めた。自分がやろうとしていることを先にされてしまって、彼女と比べて自分のあまりの覚悟のなさと愚かさにめまいがした。
まず、フェリックスは、どうしてもミアじゃないとだめだった。
その要素が致命的なくらいに作戦に向いていなかった。
アンジェリカはものすごく綺麗な娘だし、大抵の男ならぐらつくだろう。だが、それでもフェリックスはどうしてもミアじゃないとだめだった。
つまり、色仕掛けなどどう考えても無理だった。
(だめだ、やっぱり向いてなかったああああ!!!! おれの馬鹿!!!!)
散々苦労したくせに墓穴だけを掘ってしまった。しかも結構深い穴を。
うわあああああと叫んで地面に踞ると、「おい、大丈夫か!?」と腕を掴まれた。フェリックスは腕が抜けるかと思う。
だが、その力強さには覚えがあった。
「なっ――!?」
見上げると、マティアスが慌てた顔で立っていた。
「また発作か!? ……じゃあ、ないみたいだな」
フェリックスの顔色を確認するとマティアスは心底ほっとしたような顔をしたあと、
「このバカ! 大馬鹿野郎が!!」
と怒鳴った。
「バカとか、おまえに言われたくない!」
反射的に答えながらも、フェリックスは遠慮のない言葉に驚いた。今までのマティアスの言動には、どこかエミル王子への遠慮があった。だが今それが見当たらない気がしたのだ。
「今回だけは言える! 何血迷ってんだ!!」
見ていたのだろうか。ありうる。気配を消すくらい彼の魔法があれば簡単なことだった。
だとすると、最後のあれも聞かれただろうか。
そっと表情を窺うが、聞こえていないように思えた。もし聞いていたらもっと怒っていると思ったのだ。
「血迷ったわけじゃない」
「いいや、血迷ってる! 敵うわけないだろあんたがあんな魔女に!」
「魔女」
そうか魔女だったのか。思わず納得してしまう。
フェリックスが恋のためになんでもしてしまうのと同じく、アンジェリカは権力のためならなんでもやってのける。似たもの同士なのだけれど、決定的にベクトルが違う。
思い出すと身震いした。同時にとても正直な言葉が溢れてきた。
「怖かった……喰われるかと思った」
「だろうが! おれでも怖い! あんなのに引っかかってしまったら骨までしゃぶられる!」
「……だよなあ……」
しみじみ言うと、突如マティアスがぶはっと噴き出した。そしてヒイヒイと腹を押さえて笑い始める。
「あ、あんたが、色仕掛けとか! 百年早い!!」
つられてフェリックスも噴き出した。なんだか、急に心が軽くなる。さっきまで絶望の淵にいたような気分だったのが嘘のようだ。
しばし笑い合ったあと、マティアスが急に顔色を変える。
「やばい!」
「ど、どうした!?」
「探し物してる途中だった!」
改めてマティアスを見ると、何かが物足りない。その存在に思い当たったフェリックスは先程ミアやマティアスが教室をのぞいた時のことを思い出した。
「ウサギか?」
マティアスはうなずいてがっくりと肩を落とした。
「そうなんだ。実はおまえがいない間に、ミアとヘンリックが治療薬の候補を挙げた。《悪魔の爪》の治療薬の!」
「え!? じゃあ、薬ができるってこと、か? 治るってことか!?」
だとするとフェリックスの努力は全くの水の泡なのだが、そんなことはもうどうでもいい。
マティアスは嬉しそうにうなずく。だが直後顔をぎゅっとしかめる。
「だけど動物実験に必要なサンプルが必要とかで……ヘンリックが――あの野郎、ルナちゃんを実験に使うとか言い出しやがって、怯えて逃げたんだよ! みんなで探してる最中だったのにあんたのせいで!」
ルナちゃんってなんだ。いつの間にか名前をつけていたらしい。
突っ込もうと思ったがマティアスがあまりに真剣なので口に出せない。逆鱗に触れそうだ。いやすでに八つ当たりされている気もするが。
「落ち着け。おれも一緒に探すから」
「当たり前だ! 散々心配かけたんだからな!?」
「心配……してくれたのか?」
マティアスは真っ赤になって「……だからな」とごにょごにょ言い訳する。
「友達?」
目を見開く。拾った言葉を繰り返すと、マティアスは爆ぜた。
「悪いか!?」
その様子がなんというか、熊のような外見にあまりにも似合わない。じんわりと湧き上がる熱い感情と混じり合って、くすぐったくて噴き出しそうになる。だがぐっと我慢する。
それに気づいたのか、彼は怒ったように言った。
「ミアに謝っとけよ。あとヘンリックにも。あいつはあいつで堪えてるはずだから」
「そうかな」
思い返してみると、あれはフェリックスの内心を知っていての挑発だった気がする。
彼は、あの若草色の目で「本当に、それでいいの?」と問いかけていた。
だがマティアスが「おれの担当は校舎と校庭だ!」と言って飛び出していったので、フェリックスはそれ以上の会話を諦めてウサギを追う。
『良い返事をお待ちしておりますわ』
ふとアンジェリカの提案が頭の中に浮かんできた。
薬ができたなら、もうあの提案については考える必要がないのに。
なぜか消してしまえない。それが妙に気持ち悪かった。
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