22 三つめの保険

 次の日、いつもどおりに教室に向かったミアは自分たちを取り巻く空気が明らかに変わってしまったことに気がついた。

 以前の無視など可愛いものだ。クラスメイトはミアが入ってくるなり教室から逃げ出して、ミアは薬科の授業を一人で受けるのかとぐったりとした。だが、薬科の先生も理由をつけて欠勤。学院が平常運転に戻るまでには時間がかかりそうだった。

 サナトリウムに乱入したフェリックスが《悪魔の爪》に感染したという噂は学院中に充満してしまい、当の本人は勝手にサナトリウムに侵入した罪で警察に連れて行かれて取調中。出てきたとしても騒ぎが収まるまでは自宅に帰って謹慎と教授会で決定された。だけれども、患者と接触していないミアやヘンリック、マティアスは学校を休む理由は一応ない。

 しかし、フェリックスと一緒に居たという噂話も凄まじい勢いで広がってしまったので、この病原菌扱いなのだ。でも仕方がない。《悪魔の爪》の非感染性の証明はまだまだこれから時間をかけて行うことであって、今理解されることは決してないだろう。

 それでも、


「一件落着、なのかな」


 ミアは呟いた。そもそもフェリックスが罹患したと騒いだのは、医師が仕組んだお芝居だったらしい。実際は病原菌から守るために、患者からフェリックスを隔離したため、もし病が接触感染したとしても彼は感染できなかったのだ。

 フェリックスが罹患していないことはおそらくすぐに証明される。そうすれば噂もすぐに収まるだろう。ただ、サナトリウム内部に侵入した者が感染しなかったことに対してどのように対処するのかは気になるところだった。


(多分、軍がもみ消すんだろうな)


 小さくため息を吐くと、上から声が降ってきた。


「のんきだな。何が一件落着だよ。全然決着ついてないだろう」


 ヘンリックとマティアスだった。どうやら同じく病原菌扱いをされて逃げてきたのだろう。もともと一人が好きなヘンリックの表情は変わらなかった。が、慣れなかったのだろうか。マティアスがぐったりしている。


「あー……あなた達も仲間はずれ?」


 二人は頷く。「仲間はずれってレベルじゃねえ」マティアスの疲れ方が尋常じゃないのに苦笑いが出る。この人は、やはり屈強な見た目より随分と繊細だ。


「で、一件落着じゃないって、どういう意味?」

「僕は、アインツ先生が休んだのは偶然じゃないと思うし、前に君が凍らせられたのとも絶対関係があると思ってる」


 鋭い目で、凍るような声で、ヘンリックは言う。


「今更犯人探しをするっていうの?」

「これから軍部と戦うことになるのに、あちこち相手なんかしてられないだろう。何のために僕達を妨害をしたのか突き止めて、やめさせる」

「相手は魔術も使えるしな。放っておくには危ない」


 マティアスが難しい顔で付け加える。


「魔術が使えるって言うと、絞られると思うんだ」


 ヘンリックが険しい顔のまま言い、マティアスもうなずいた。


「学院にはうじょうじょいるけどな。上級生になれば、水属性であれば凍らせるくらいはできると思う」

「属性? ごめん、僕、そっち方面詳しくないんだけど」

「元々持っている魔力の性質だ。火、水、土、風の四大属性な。ちなみに俺は風らしいけど」


 マティアスの言葉にヘンリックが考えこむ。


「……法科のアンジェリカの取り巻きに魔術科の人が居たと思うけど」


 言いながら、ミアはノートを燃やされたことを思い出して憂鬱になる。もしミアを凍らせるのを命じたのがアンジェリカだとすると、あの法科の女の子が実行犯だということになる。


「あの子なのかな……逆らえなかっただけかもしれないけど……」


 力関係は傍から見ていても明らかだった。やれと言われればやるしかない。そんな迫力が、フェリックスへの執着が、アンジェリカにはあった。


「なんにせよ悪質すぎる。フェリックスの恋人の座を狙ったんだろうが、あんな馬鹿のどこがいいんだろうな」


 ヘンリックが嫉妬めいた事を言うのが珍しくて、ミアは思わず笑う。


「ヘンリックとマティアスの事も狙ってるふうだったよ? わたしが、法科と医科と魔術科のエリートに囲まれて楽しそうだって」


 言いながら二人を観察する。ヘンリックは少し小柄だけれど、中性的な顔立ちとつり上がった目は理知的で素敵だし、マティアスの顔立ちは他二人ほど華やかではないけれど、均整の取れた体には同年代の男の子にはない迫力があった。あまり気にしていなかったけれど、二人とも個性的でかつ整った容姿の持ち主だ。その上、ヘンリックは学年で成績がトップ。マティアスの成績はよく知らないけれど、この赤い目を見る限り魔力の強さは折り紙つきだ。


(まあ、それぞれしっかり欠点もあるけど)


 妬まれてもしょうがないかなと思いながら、「三人共もてるんだね。可愛い女の子ばっかりだったよ?」と冷やかすと、ヘンリックはあからさまに嫌な顔をした。

「ああいう陰湿なのが、僕は一番嫌いだし、結婚を終点に見据えてる女は反吐が出る。僕はちゃんと自分の意志のある女にしか興味が無いし、たとえば――」

 そこまで勢いで言ったあと、ヘンリックははっとしたように口をつぐんだ。


「例えば?」


 このメンバーでの恋話など期待していなかっただけに、ミアはなんだかウキウキした。女子の友達がいないせいで、そういうキラキラした話題に飢えているのだ。ミアは続きを促すが、彼は「なんで君に言わなきゃならない」とそれ以降口は開かなかった。


「つまんないの」


 がっかりしながらマティアスを見ると、彼はため息を吐いて「こっちの方も、由々しき問題だ、めんどくせえ」と呟いた。

 そのとき、


「あぁ、君たち」


 と教室の扉が開き、リューガー教授が顔を見せる。


「先生、フェリックスは!?」


 跳ねるようにミアが問うと、彼は小さく笑う。


「一応法で禁じられている犯罪だからね。少し時間がかかったけれど、家の人が保釈金を払って解放された。まあ謹慎処分はまだ続くけど……問題は来年も留年になりかねないことで」

「え、留年って出席日数が足りないとかですか!?」


 ミアが知るかぎりではフェリックスは真面目に通学していた気がするし、レポートなどもまめに取り組んでいた。


「いや、計画書の製作は去年彼が取れなかった必須単位なんだが、このままだと今年も落としかねない。形だけでも出さないと《不可》にするしかないからな」


 教授は苦笑いをしながら封筒を差し出す。中から出てきたのはヘンリックとマティアスの名前だけが書かれた計画書だった。


「ヴィーガント。バウマンだけでなくカイザーリングの名を書かなかったのはこれを狙ったからだな?」


 教授がちらりと睨むと、ヘンリックが「三つ目の保険です。さすがに二年留年はさせないかなって思ったんで」と澄ました顔で言う。マティアスが「すげえ」と呟き、ひゅっと短い口笛を吹いた。


「というわけで、これに二名のサインを追加してから再提出してくれ」

「え、いいんですか!」

「表向きは、名前の書き忘れ、ということで処理する。今回はアインツくんの不手際でもあるからな。それに、理事長から頼まれれば断れない」


 ただし内緒だぞ、と教授はごきげんだ。よほど、ミアたちの計画書が気に入ったらしい。


「この王立学院は国の中枢の機関であるにもかかわらず、全然刺激的な研究ができなくてな。改革を訴えていたんだよ。学問には制限があってはいけない。ここは学びたいことを学ぶ場所であるべきだ。これを通すことは、大変な改革だが、私の立場では動きにくいからな。いわば君たちは私の相棒だよ」


 教授はまるで少年のように顔を輝かせている。その様子が可愛らしく、そして頼もしい味方ができたことにミアは思わず笑みを漏らす。


「精一杯頑張ります。よろしくおねがいします」

「じゃあ、サインを頼むよ」


 リューガー教授は子供相手に語ってしまったことが恥ずかしかったのか、少し照れくさそうにそそくさと教室を出て行く。学問に熱心な良い教師だ、ミアは心から思う。


「あ――、でも謹慎してるのに、どうやってサインを貰いに行けば……あ、マティアスはフェリックスの家を知っている? わたし届けるよ」


 ミアの何気ない問いかけに、マティアスがぎくりと顔をこわばらせる。


「いや、俺が行くから大丈夫だ!」

「多分すごく近いと思うけど」


 計画書を確認しながらヘンリックが口を挟み、マティアスが「口を縫い合わせるぞ」と脅す。

 不穏な空気に、隠し事の匂いを感じてミアは目を細めた。


「彼が貴族でお金持ちだってことは知ってるけど、さすがに身分違いで訪ねることもできないってことはないよね?」

「うーん……っていうかさ、あいつは知られたくないと思ってるはずだから。俺が勝手にバラすわけには行かないんだ」


 マティアスは弱る。その様子が可哀想だったので、ミアはひとまず追及の手をゆるめた。隠し事は気に喰わないけれど、だれしも一つや二つ秘密はある。それを尊重するのがきっと友情だと思ったのだ。


「じゃあ、マティアスがサインをもらってきて」

「わかった。すぐ貰ってくる」


 彼はホッとした様子で黒い髪をガシガシとかくと、そのまま計画書を手に教室を出て行こうとするが、


「……待ってくれ」


 ヘンリックがそれを遮った。


「多分、今は、固まって動いたほうがいい」

「どういう意味だ?」


 マティアスが訝しげに目を細める。


「この計画書を見ていてちょっと気になったんだ。ポストには僕とマティアスの名前のレポートが残っていた。ミアと僕らが組んでることはほとんどの人間が知ってるはずだから、もしポストを見たのなら手を付けないのはおかしい。つまり、犯人はポストには手出しせずに、アインツ先生だけを狙ったと考えられる」

「あ」


 ミアはマティアスと顔を見合わせた。


「あの時廊下にいたのは僕達四人だけだったんだ。計画書がアインツ先生のところにあることを、犯人はどうやって知ったんだろうね?」


 ミアは黙りこむ。犯人が知るためには、ミア達四人かアインツ先生がそのことを誰かに漏らさなければあり得ないのだ。

 レポートにかけているミア達がそんなことをする理由はない。となるとアインツ先生が情報を漏らしたことになる。先生が情報を漏らすとすると、その相手は――

 そこまで考えたミアはヘンリックの様子を窺った。彼はミアと同じことを言いたいのだろう。頷くとミアの思考の続きを引き取るように言った。


「僕はさ、一連の嫌がらせを、生徒が実行するには少しだけ無理があるんじゃないかって思ってるんだよ。ミアを凍らせたことにしても、アインツ先生の急病にしても。ミアが凍らせられたのは薬草園だから、魔術科の生徒が入るのは難しいし、もし入れても、バール准教授もそれほどの力がある水属性の生徒はいないって言ってただろう? それが嘘だとしても、居ればそれなりに噂になるはずなんだ。そしてもし力を隠しているとしたら、動機がわからない。――だけど、ある仮説を立ててみたら、すごくしっくり来たんだ」

「仮説?」


 ヘンリックは声をひそめた。



 目を剥く二人にヘンリックはニヤリと笑った。


「ミアが襲われたのは、女子の嫉妬なんてかわいいものじゃなくて――もしかしたら、それを利用したのかもしれないけれど、とにかく《悪魔の爪》に関する計画書提出を妨害したかったからだ。軍の人間が学院に入り込んでいる――そう考えればいろいろと辻褄が合う。高度な氷結魔法も、僕達の行動が筒抜けなのも、それからもっと言うと、《悪魔の爪》の研究が今までまったくされていなかったこともね」


 ヘンリックは腕を組むと大きくため息を吐いた。


「人間の知識欲っていうのはさ、お金だけでは抑制できないよ。過去に僕達みたいに、知りたいと切望した人間がいなかったと考えるとすごく不自然だって思った」


 ミアはぞくりとした。もしヘンリックの仮説通りだとすると……外部では無く、身近に――学内に既におそろしい敵が存在していたことになる。ミアは思わず周りを見回した。マティアスも落ち着きなく青い顔でぶつぶつと何かを呟く。と、ぴいん、と音とともに透明な膜がミアたちを取り囲んだ。びっくりして彼を見ると、


「空気の壁を作ったんだ。風の初級魔術」


 とホッとしたように言った。つまりは盗み聞き防止というわけだ。

 だがそれでもヘンリックは声をひそめたまま。事の重大さを表しているようで、ミアは緊張に頬を引きつらせる。


「学内だから大きな動きはできないはずだろうけど、学外では僕達は守られない。だから単独行動はやめよう。非常時だ。フェリックスのところには皆で行く」


 マティアスはしぶしぶながらも、神妙な顔で頷いた。


「でも、もしそうだとしたら……学内でも危ないよ。せめて目星がつけばいいのに」


 ミアは唸る。


「魔術科の教師は軍とつながっているにはいるけど、そもそもここの人事を握ってるのは理事長――王家で、中立の人間しか採用しねえしな」


 マティアスも難しい顔で唸り、透明な箱のなかには沈黙が落ちる。


「一番簡単な答えがあると思うんだけどな。――確かめたくはないけれど……罠を張ってみようと思う」


 ヘンリックは悲しげに顔を曇らせる。そして計画書を目の高さに掲げた。

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