20 サナトリウムにて
時は少しだけ遡る。
サナトリウムでは、フェリックスが遠巻きにされていた。害虫扱い。いや凶悪な病原菌扱いだと思った。こんな扱いは生まれてから一度もされたことがないかもしれない。
計画書が受け付けられなかったのを知った彼は、腹を決めた。ずっと暖めていた計画――最後の手段を実行することにしたのだ。
実行してしまえば、学院に彼の居場所がなくなる可能性があった。それは、つまり、彼女の傍に居られなくなるということ。
だが、迷いはもうなかった。ミアの涙はもう見たくなかった。彼女の涙を拭うのは簡単だ。慰めを言うのも簡単だった。だけどいくら拭っても、元を断たなければいつまでも涙は溢れ続けるのだ。
だから、慰めは他の
フェリックスは守りの堅そうな正規の入り口を通らず、物理的によじ登って二つの高い壁を超えた。隔離病棟のある区画だ。しかし、防護服といえばいいのだろうか。顔だけを出して、頭頂から手の先までを覆うゴム製の大げさな服に身を包んだ老女が、患者をかばうようにして一歩前に進み出た。
「すぐに出て行きなさい。ここがどこか知らないわけではないのでしょう」
フェリックスには引く訳にはいかない理由があった。静かに一歩踏み出す。
「ここは危険なの。死にたいの、あなた」
老女は物静かな外見を裏切るような低い声で威嚇すると、フェリックスの行く手を体を張って阻んだ。
「だけど、伝染らないんだろう? 俺たちは調べたんだ。ちゃんと根拠だってある」
だが老女は首を横に振った。その手にはメスが握られている。
(この人、本気だ)
迫力にフェリックスは怯んだ。
「伝染るのか?」
じわり、恐れと焦りが足元から登ってくる。何かの間違いであってくれ。祈るように見つめるが、
「ええ」
老女は厳かにうなずく。フェリックスの目を見据えての肯定。とても嘘を言っているような顔ではない。フェリックスはミアの心中を思って、奥歯を噛みしめる。そして、心を決める。
「それなら――なおさら、俺はここにいなければならないんだ」
ミアのために。
フェリックスの母は、書類上いないことになっている。身分が低いせいで、父の妻とも、フェリックスの母とも認められないのだ。
そんなわけで、フェリックスは母から離されて育てられた。厳しく、甘えることを知らされずに。必死で父の期待に応えようとしたけれど、ある日、突如起こった発作で彼は脱落者となった。彼は以降、事あるごとに発作を頻繁に起こすようになったのだ。今になってみればわかる。寂しかったのだ。苦しんでいれば誰かが寄り添ってくれると体が覚えてしまったのだ。だが、発作が命にかかわるものでないとわかったあとは、死なないから大丈夫と放置されるようになった。その上、父が甘えだと断じれば、誰もが慰めることさえしなくなった。医師でさえも子供だましのような薬を与えるだけだ。
いつしか自分の存在価値を疑い始めたときに、追い打ちをかけるようにあの事件が起きた。
癒えることのない傷だと思っていた。癒えてはいけない傷だとも思っていた。だが、ミアは「あなたのせいじゃない」と、傷を包んで癒やしてくれた。後ろばかり見ていた彼に前を向かせてくれた。
彼女には、どれだけ救われたかわからない。
だから、彼女にも返したい。彼女にぬくもりを――母親を返してあげたいと心から願った。
「俺は、ミアを助けたい。どうしても《悪魔の爪》の薬を作りたいんです」
真剣に訴えると老女は「薬を作る? ミアってミア=バウマン?」と僅かに目を見開く。
「ご存じなのですか?」
「……そう、つまり、とうとうレッツは死んだのね。じゃあ、次は私の番なのかしら?」
老女は質問に答えずに呟く。ミアの師の名前にフェリックスは目を見開く。老女はやがて「少し落ち着いて。そこに座って話を聞かせてちょうだい」と言って椅子と茶を勧めた。
◇
蜂の巣をつついたような騒ぎの中、ミアはヘンリックとマティアスを引き連れて学院を飛び出そうとする。平日の外出は許されていないから混乱に乗じて飛び出そうと目論んでいると、緊急時だということで学院の大型自動車が玄関前に出されていた。リューガー教授をはじめ、法科のケステン教授と魔術科のバール准教授、学長の他に、立派な口ひげを生やした見知らぬ紳士が一人乗り込んでいる。定員にはまだ余裕がありそうだ――そう思ったミアは自動車に走り寄って、頼み込む。
「リューガー教授! どうか、一緒に連れて行って下さい!」
「危険だから、君たちは残りなさい」
「でも……!」ミアは一番の心配を口にした。「フェリックスが発作を起こしていたらどうするんです! わたしならすぐに治めてあげられます!」
その言葉に教授はヒゲ紳士を見た。どうやら彼が採決権を持っているようだ。紳士が頷くと、教授は扉を開けてくれる。ミアはヘンリックとマティアスとともに自動車に乗り込んだ。
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