第31話 想いの証
五日目は今までで一番と言っていいほど順調に撮影が進み、岳登たちはこの日予定していたシーンを全て撮り終えることができていた。四日間一緒に撮影をしているからか、スタッフ間の意思疎通も大分スムーズになってきて、岳登としては一つのチームとしてまとまってきた実感がある。一致団結した空気は、撮影完了に向けて何の支障もないはずだった。
だけれど、岳登の頭の中では撮影中ずっと予算のことがついて離れなかった。現状では明日の撮影をした時点で、予算は尽きてしまう。栞奈からの連絡はまだなく、岳登は気を揉まずにはいられない。
だから、ホテルに戻ってパソコンを前にしているときに鳴った電話に、岳登は脱兎のごとく飛びついた。電話の主が栞奈であったことも、岳登の逸る気持ちに拍車をかける。
「はい、成海です」との第一声が若干上ずっていたとしても、仕方のないことだった。
「成海さん、お疲れ様です。袖口です。撮影はいかがですか? と聞きたいところなんですけど、成海さんが聞きたいのはそういう話ではないでしょうから、結論からお話ししますね」
いきなり本題に入ろうとする栞奈に、岳登は息を呑んだ。間違いなくここが、撮影を続行できるかどうかのターニングポイントだ。
「昨日、お話しいただいた予算の件ですが、安心してください。私どもからも一〇〇万円、追加で出資いたします」
栞奈が告げた言葉に、岳登は声に出して戸惑ってしまう。嬉しいことではある。でも、何の前触れもなく一〇〇万円という数字を出されれば、困惑しない人間の方が少ないだろう。
「まるで、そんなお金どこから出てきたんだって言うようなリアクションですね」
驚いている自分の顔を直接見ているかのように言った栞奈に、岳登は「は、はい」と素直に認めることしかできなかった。
「成海さん、お忘れですか。私たちが改修工事のためにカンパを募っていたのを。実は何かの役に立つかもしれないと思って、まだ出資者の方には返さず取っておいていたんです」
確かに岳登のもとに、今まで葵座からカンパした金額が戻ってきたという連絡は来ていない。むしろ、撮影の準備に忙しくてカンパしていたことが記憶から漏れてしまっていたくらいだ。いや、でも。たとえそうだとしても。
「で、でもカンパって、使用する目的を明確に定めて募るものじゃないですか。そんな急に使用目的を変えるなんてこと、あり得るんですか?」
「成海さん、実は今回のことはそんなに急ではないんです」
「……と言いますと?」
「実はカンパのお金を制作資金に回せるよう、前々から出資者の方々とは相談していたんです。名簿を参考にして一人一人に電話をかけて。もちろん断られてしまった方もいましたが、それでも多くの方がカンパしたお金を、映画の制作資金に充てることを許可してくださいました。皆さんもやはり、葵座の閉館には思うところはあったみたいです」
岳登は依然として驚いていたが、一方で言い知れない感動も覚えていた。葵座が地元に根付いていたことに、胸が熱くなるような心地を覚える。
「袖口さん、ありがとうございます。これで映画が最後まで撮れそうです」
「いえいえ、礼には及びませんよ。私はあくまでお願いをしただけです。お礼を言いたいなら、カンパを映画の制作資金に充てることを許可してくださった出資者の方々、一人一人に言ってください」
「それよりも成海さん、分かってますね?」栞奈が改まったような声でそう言ったから、岳登も背筋を正す。下手な返事はできない。
「今回出資者の方々が出してくれたお金は、想いの証なんです。エキストラぐらいでしか映画の制作を手伝うことができない私たちにとって、お金は一番の想いを伝える手段なんです。この一〇〇万円には、出資者の方々の『葵座を舞台に良い映画を作ってほしい』という想いが乗っかっているんです。決して軽いお金じゃありません」
「……はい。重々承知しています」
「そうですね。言うまでもないことですが、成海さん、このお金は大事に使ってくださいね。出資者の方々は他のことにお金を回すこともできたのに、わざわざ映画の制作資金にすることを選んだんです。成海さんにはその選択の意味を十分に受け止めて、適切な使い方をする責任があるんです」
「おっしゃる通りだと思います。出資者の方々がお金を回してよかったと思える映画を、残りの時間でスタッフ・キャスト一丸となって作っていきます」
「私も期待しています。成海さんたちならできるって信じます」
「はい、任せてください」そう岳登は、たとえ栞奈に見えていないとしても、胸を張って言ってみせる。ここまで自分たちに期待してくれる人が何人もいるのだ。できませんでしたでは済まされないと、改めて気を引き締める。栞奈が「では、市原さんには私から連絡しておきますね」と言い、岳登が改めて「よろしくお願いします」と応えると電話は終わった。スマートフォンから耳を離した岳登は、パソコンの電源を切ると、一つ息を吐いた。少なくとも撮影中止という最悪の事態は、免れることができそうだ。
だけれど、岳登の肩にはより大きなプレッシャーがのしかかる。顔も見たこともない人たちに、金を回したことを誇らしく思ってもらわなければならない。そう思うと、安堵している暇は晴明にはなかった。
モニターの画面いっぱいに、夕帆の顔が映る。背景には葵座の事務室。チケット売り場に座っている夕帆を、三脚に据えられた小型カメラが捉えている。
「回りました!」と録画スイッチを押した望美が、カメラの前から離れる。そして、入れ替わるようにして篠塚が、カチンコをカメラと夕帆のわずかな間に入れる。
「シーン62、ショット3、テイク1」カチンコを打ち鳴らした篠塚が、早足でカメラと夕帆の前から逃げる。画面に夕帆の顔だけが入っていることを確認して、岳登は勢いよく「よーい、スタート!」と告げた。
『いらっしゃいませ。ようこそ、長野葵座へ』
夕帆はそう言って小さく微笑んだ。どこか恥ずかしいような、それでも清々しさを多分に含んだ気持ちのいい笑みだ。数秒間笑顔をキープする夕帆。そして、岳登が「はい、カット!」と言うと、その笑みは現場全体に波及した。岳登の声も弾む。シーン62。この日の葵座での最後の撮影シーンは、そのまま映画のラストシーンとなっていた。
「OK!」
確信を持って発した声に、現場全体が安堵の息をついたことを岳登は感じた。まだ撮影が終了したわけではない。それでもやはり、ラストシーンというのは特別だ。おぼろげだったゴールが明確になって、現場の活力が増したように岳登には思える。あとはゴールに向けて走りきるだけだ。初日に撮りこぼしていたシーンも今日撮ることができて、岳登たちの視界は今良好と言ってよかった。
「はい、このシーンOKです! 皆さん、ありがとうございました!続いてシーン33・39・47、葵座のオフィスでの撮影です! 撮影部の皆さんは移動と準備をお願いします!」
篠塚が声をかけると、誰からともなく返事をする声が揃った。
滞りなく撮影は進み、この日も岳登たちは予定していた全てのシーンを撮ることができていた。しかも、撮影が終了したのは予定よりも三〇分ほど早い午後七時頃。自主映画の現場には初めて参加する安形や伴戸らも含めて、全員が良い意味で撮影に慣れてきており、お互いのことを理解し始めた結果だ。現場に漂う雰囲気も爽やかで、表情からモノづくりをしているという感覚が全員に漲っているように、岳登には思える。撮影時間を短縮できた分、疲労回復にも充てることができていた。
ホテルに戻った岳登は財布とスマートフォンだけを持って、すぐに再び外に出ていた。コートのポケットに手を入れながら歩くこと一〇分。岳登は駅前の中華料理屋に辿り着いていた。撮影初日に夕飯を食べたのと同じ店だ。
ドアを開けると、屋外の何倍もの騒がしさが岳登の耳に飛びこんでくる。土曜の夜ということもあって、入り口から見えるテーブル席三席は全て埋まり、それぞれの集団がお互いのことなんて気にしていないかのように、酒を片手に無駄話に花を咲かせている。その声は岳登には少し辛く、思わず店を後にしてしまいたくもなった。でも、そんな失礼を働く度胸もないので、岳登は店員に言われるがまま、店内に足を踏み入れていく。
入り口からは衝立に阻まれて見えない厨房側のカウンター席に向かった岳登は、そこで足を止めた。そこには夕帆が一人で座っていた。夕帆もすぐに岳登に気づき、二人は束の間目が合う。こうなってしまった以上、他の席に行くことは気まずい感じがして、岳登は夕帆の隣に座った。もとより四席あるカウンター席は、夕帆の右隣を除いて埋まっていた。
「岳登、また会ったね」
夕帆が微笑みながら言う。リラックスしているような表情は、岳登に少しの気恥ずかしさを抱かせた。
「いや、撮影で毎日会ってるだろ」
「それもそっか」
まるで今気づいたかのように口にする夕帆に、岳登も小さく笑う。監督と主演俳優という関係性は、撮影中ではない今は大分薄まっていた。
メニューを手にして、岳登は何を頼むかしばし考える。
「お前、何頼んだ?」
「んー、レバニラ定食」
「そっか。じゃあ、俺は野菜タンメンにしよっかな」
「岳登でも野菜摂らなきゃって思うんだ」
「何だよ。俺でもって。俺だってここ数日はコンビニ弁当が続いてるんだから、そろそろ野菜摂っときたいんだよ」
「ふーん、なるほどねぇ」
夕帆と簡単な会話を交わすと、岳登は店員を呼んで野菜タンメンを注文した。店員が去っていくと、二人は騒がしい店内の中ぽつねんと残される。ひとまずスマートフォンをポケットから取り出した岳登に、夕帆がぽつりと口にした。
「撮影、明日で終わっちゃうんだね」
(続く)
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