第43話 見ていてください



 映画『ミニシアターより愛を込めて』の上映が三月六日の日曜日、夜の七時からに決まった。そう市原から岳登のもとに連絡があったのは、岳登が信濃劇場を訪れて三日が経った日のことだった。上映はその一回限りとのことだったが、葵座での上映ももともと一回だけの予定だったのだから、岳登にとっては何の不満もない。むしろ市原から連絡があったときには、電話をしながらガッツポーズをしていたくらいだ。岳登はすぐさまスマートフォンのカレンダーに上映会の予定を書き込んだ。早く三月になってほしいと、遠足を控えた子供みたいなことを思わずにはいられなかった。


 だけれど、上映用の規格に映画のデータを書き換えて信濃劇場に納品すると、岳登にできることはほとんどなくなってしまう。することといえば後はSNSでの宣伝くらいだ。編集作業をしていた時には時間が足りなくて、一日一日があっという間に感じられていたのに、今では同じ二四時間だと思えないほど一日が長い。


 でも、信濃劇場に行ってみれば、映画のチラシが置かれているラックに、上映会の知らせも確かに置かれていて、それは家のプリンターで印刷したようなシンプルなものだったけれど、見る度に岳登は目を細めずにはいられない。他にもいくつかの店に同じお知らせは置かれているようで、岳登は一人でも多くの人が目を留めて、信濃劇場に来てほしいと願った。


 映画を撮る前と変わらないような日々を岳登が淡々と過ごしていると、着実に時間は流れ、いよいよ上映会当日の三月六日になった。


 とはいえいくら上映会の日を迎えたからといって、岳登にやることがあまりないのは変わらない。ドキドキしてなかなか寝付けなかった分、昼頃になってようやく起き出し、友人と合流し昼食にチェーン店のラーメンを食べて、とりあえずシネコンで一本映画を観る。


 だけれど、その間も岳登の心は落ち着かなかった。友人から「お前の映画、今日上映だろ?」と言われるたびに、頭の中で今夜の上映会が占める割合は大きくなっていたし、映画を観ている間も、数時間後自分の映画がどう評価されるのだろう、観客に受け入れてもらえるのだろうかとずっと気になってしまっていた。内容もあまり頭に入ってこず、友人との会話も弾まない。「大丈夫か?」と心配されて、岳登は頷くことで応えていたけれど、内心では不安が時間が経つたびに大きくなっていた。


「一緒に行くか?」と友人に訊かれて、岳登は「先に行っててくれ」と答える。岳登には信濃劇場に行く前に、立ち寄っておきたいところがあった。いったん友人と別れて、岳登は自転車を走らせる。そこに着くのにはシネコンを出発してから、一〇分もかからなかった。


 自転車を停める。降りた先に目に入ってきたのは、文字通りまっさらな状態になった更地だった。道枝商店街のちょうど中ほど、アーケード街から突き出すようなその土地は、ほんの数か月前まで長野葵座があった場所だ。先月の上旬から始まった解体工事はもう終わっていて、更地には瓦礫一つなく、遠くに葵座の姿に隠れていた建物が見える。


 岳登は去年の大晦日に葵座の閉館に立ち会ってから、ここを訪れることができていなかった。それは編集作業が忙しかったこともあるが、それ以上に取り壊される葵座の姿を見たくなかったことが大きい。自分があれほど通っていた場所が、日を追うごとに瓦礫に変わっていくところを目の当たりにするのが、怖かったのだ。


 でも、いつまでも目を背けているわけにはいかない。


 葵座があった土地は、今はバリケードで塞がれていて、入ることはできない。いや、厳密に言えばバリケードは腰ほどまでの高さしかなかったから、乗り越えて入ることは容易かった。でも、それはしてはいけないことだろう。


 ただ立ち尽くして、葵座があった場所を眺める。葵座は百年以上続いてきた歴史ある映画館だった。それが一ヶ月もしないうちに取り壊されて、跡形もなくなっているとは。積み重ねてきた時間が、一瞬で無に帰してしまったかのような現実に、岳登の胸は強く締め付けられる。葵座があったことが、空想の中の出来事にすら思える。


 だけれど、岳登が葵座で過ごした時間は夢や幻ではないのだ。葵座で観た映画や受けた体験は岳登の頭に、身体に一つ一つ刻まれている。それは誰にも奪えないし、上書きできる類のものでもない。葵座があったことは、疑いようのない現実なのだ。そして、自分は今からそれを証明しにいく。葵座の存在を映画を通して、観客の脳裏に焼きつける。


 岳登は自然と背筋が伸びた。伸ばした背筋を、身体を折るように深く前に傾ける。


 きっと行き交う人々からは、軽く奇異の目で見られていたことだろう。だけれど、岳登は自分の行為を恥ずかしいとも後ろめたいとも思わなかった。自分には、葵座から受けた恩を返す使命がある。「見ていてください」と、今は無き建物に心の中で呼びかける。


 身を切る風は、三月になっても相変わらず冷たい。だけれど、岳登は数秒かそこらで頭を上げなかった。首を垂れて決意を固める。


 しばらくして顔を上げたとき、かつてあった葵座の姿が、たとえ一瞬だけでも見えた気が岳登にはした。




 信濃劇場は、通常は上映開始一五分前からチケットの販売が開始される。だけれど、上映開始三〇分前に到着した岳登を、チケット売り場に座る市原は快く通してくれた。


 今日、『ミニシアターより愛を込めて』が上映されるのは、二階のスクリーン2である。岳登が階段を上ると、既に前の回の映画は終わっていて、ちょうど観客の入れ替えの時間だったから、ロビーには人の気配はなかった。岳登は椅子に座って、観客がやって来るのを待つ。スクリーンの入り口には、今日のために用意された『ミニシアターより愛を込めて』のポスターが立てかけられていた。


 岳登が到着してからものの三分もしないうちに、一人目の観客が階段を上がってくるのが見えた。早香だ。岳登を見るなり、早香は一瞬目を丸くしている。岳登がもう来ているとは、露ほども思っていなかったらしい。


「母さん、来てくれてありがとう」


 岳登は立ち上がって、早香に微笑みかける。早香も岳登がいることをすぐに受け入れたようで、暖かな眼差しを岳登に向けていた。


「うん。岳登、改めて映画の完成と上映会の開催おめでとう」


「ありがと。でも、俺一人の力じゃここまでは来れてないから。一緒に撮影してくれたスタッフやキャスト、それに上映会開催に向けて動いてくれた全ての人のおかげだよ」


「そうだね。岳登の周りには力を貸してくれる、手を差し伸べてくれる人がたくさんいるもんね。それは当たり前のことじゃない。お母さんも誇らしいよ」


「うん。俺も凄く感謝してる。なかなか都合が合わなくて、今日の上映会に来られる人はほとんどいないんだけど、それでも心の底からありがたく感じてるよ」


「そうだね」早香が和やかに笑うから、岳登も釣られて笑みをこぼす。体調のことを聞かれても、清々しい顔で「もう大丈夫だよ」と答えることができた。


「そういえば、母さん。映画もう観たの? ほら、メールでデータ送ったじゃんか」


「ううん、まだ見てない。どうせ観るなら、映画館のスクリーンで観たいなって思ったから」


 そう目を細めながら言った早香に、岳登は早くも心が満たされそうになる。あまり映画館に足を運ぶタイプではない早香だから、単なる言葉以上の価値があるように思われた。息子が撮った映画という贔屓目は多分に含まれているだろうけれど、それも岳登には気にならない。たとえ親であっても、大切な観客の一人には違いないのだ


「ありがと。そう言ってもらえると嬉しいよ。でもさ、データ送ったときには、まだこの映画が上映されることはまったく決まってなかったじゃんか。もし上映される機会が全然なかったら、母さんはどうしてたの?」


「そういうことはあまり考えなかったかな。岳登やスタッフやキャストの方たちが心血を注いで作った映画だっていうのは、分かってたからね。絶対に映画館で上映されるっていう予感があった」


「じゃあ、その予感が当たったわけだ。母さんの期待に応えられて、俺もよかったよ」


「何言ってんの。映画が始まるのはこれからでしょ? 一応確認しとくけど、ちゃんと面白い映画になってるんだよね?


「うん。少なくとも俺は面白いと思ってるよ。母さんがどう感じるかは分からないけど」


「そこは断言してよ」


 岳登たちは、再び小さく笑いあう。早香と話していると、先ほどまで一人孤独に感じていた緊張が、岳登には徐々に解れていくかのようだった。


 少し二人が雑談をしていると、階段を一人の男性が上ってきた。たまに映画館で一緒になるけれど、話したことはないし、名前も知らない人だ。その男性は岳登たちに一瞥を向けると、まっすぐスクリーンに入っていった。赤の他人とはいえ第三者の登場に、二人の会話はいったん止まってしまう。


「ねぇ、私もスクリーンに入った方がいいかな?」


「別にどっちでもいいよ。俺と話したければまだここにいていいし、まだ映画始まるまで少し時間はあるけど、入りたいっていうなら俺は止めないよ」


 岳登がそう言うと、早香は少し考える様子を見せたのちに、「じゃあ、もうスクリーン入っちゃおうかな」と言う。岳登も「うん。じゃあ、また後でね」とスクリーンに入っていく早香を見送った。スマートフォンを確認すると、映画が始まるまではまだ二〇分ほどある。岳登は何となくSNSを見て、時間を潰す。


 すると、今度は安形や榎、珠音に伴戸が階段を上がってやってきた。病院以来の再会に、岳登は思わず立ち上がる。「上映おめでとうございます」「ありがとうございます」そんな会話を四人と交わす。岳登たちの間に杞憂や心配といった要素は少しも含まれていなくて、それが岳登には心地よかった。



(続く)

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Fools on the screen これ @Ritalin203

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