第42話 映画は映画館で



 同日。仕事を終えた岳登は寒空のもと、自転車を漕いでいた。この日は金曜日で、新作映画の封切り日だ。だから、岳登は家とは反対の方向に向かっていた。


 映画の撮影や編集で忙しかったから、映画館にはここ三ヶ月ほど行けていない。だから、自転車を漕ぎながらも岳登はどこかワクワクしていた。それが葵座ではないことに寂しさを感じながらも、久しぶりに映画館で映画を観られる喜びが、岳登の中では上回っていた。


 岳登が信濃劇場に到着したのは、映画が上映される五分前だった。上映時間に間に合ったことに安堵しつつ、チケットを買って館内に入る。一階のスクリーンには、既に三〇人ほどの観客が入っていた。平日夜という時間帯だからか、学生服を着た学生の姿も何人か見える。それもそのはず、これから岳登が観る映画は、今日公開の人気のホラー映画シリーズの最新作だ。一作目の興行収入が一〇億円超を記録し、若者人気も高い。


 映画館の椅子に座る感覚自体久しぶりだなと岳登が思いを馳せていると、ジーッとベルが鳴って、スクリーンは暗闇に包まれる。マナーCMも上映前に流れる予告編も、三ヶ月という時間以上に岳登には懐かしく感じられた。


 いざ映画が始まると、岳登の目はスクリーンに釘付けになる。黙ってスクリーンを見上げる。そんな時間を人と共有できていることに、岳登はささやかな幸せを感じていた。


 映画が終わってスクリーンに再び明かりが灯る。感想を口にしながら出口に向かう観客に、岳登も続いた。友人同士で来ていた学生が「怖かった」「面白かった」と口々に言っていて、岳登は今観た映画が成功していたことを知る。


 正直、岳登に今観た映画はあまりハマらなかった。でも、それは映画が悪いのではなく、岳登がうつらうつらとしながら映画を観ていたからだった。はっきりと寝てしまった時間帯もあり、これでは面白いと感じる以前の問題だ。少しへこみつつ、岳登はまっすぐ出口には向かわない。まだ二階のスクリーンで映画は上映中で、岳登はまだ信濃劇場にいられた。


 スクリーン脇の椅子に座って、SNSに映画の感想を投稿していると、岳登のもとには市原がやってきた。冬でも館内は暖房が利いているからか、オーバーオール姿は変わらず、小さく笑みを浮かべている。


「成海、お疲れ様。どうだった、今の映画は?」


 何の気なしに訊いてくる市原に、岳登は包み隠さず事実を話す。


「面白かったって言いたいとこなんだけど、ちょっと寝ちまったな。別に映画がつまんなかったわけじゃなくて、ただ単に俺が疲れてただけなんだけど」


「そっか。まあそういうこともあるよな。俺だって映画観ながらウトウトしちまうことはよくあるし。ここんとこずっと編集作業に取り組んでたお前なら、なおさらだよ」


「そうだな。でも、どうしても今日観たかったから。いや、この映画が特別楽しみってわけじゃなかったんだけど、久しぶりに映画館に行きたいって欲求には、やっぱ抗えなかった」


「そういうことならしょうがないな。まあ、ドンマイってことで。今日はゆっくり休んで、また明日に切り替えてこうぜ」


 市原の言葉に岳登も「そうだな」と頷く。確かにこうして話しているだけでも、今の自分は少し疲労を感じている。適当に夕食を食べて帰ったら、余計なことはせずすぐに寝る必要があるだろう。


「そうそう。それでさ、お前が編集した映画見させてもらったんだけどさ」


 そう言った市原に、岳登はひそかに息を呑む。まだ送ってから一日も経っていないのに早いなと思ったけれど、出勤前にでも見たのだろう。おそるおそる「……どうだった?」と尋ねる岳登。すると、市原は表情をもう一段階緩めてみせた。


「面白かったぜ。何度も読んだシナリオでも実際に俳優が演技して、ショットを編集して、音楽を乗せると、ここまで感動するんだって思った。自分が関わってるからか、思い入れもひとしおでさ。こんな感覚で映画を見たことは、今までなかった」


 既に日中見たスタッフやキャストから「よかったです」という声はいくつか届いていたものの、面と向かって言われると、岳登にはなおさら嬉しく感じられた。


 もちろん自分では手ごたえを得ている。それでも、他の人間からどう見えるか不安な部分もあった。しかし、微笑んでいる市原はリップサービスで言っているわけではなさそうだ。だから、岳登も「ああ、ありがとな」と素直に応えることができた。


「ところでさ、映画どこで上映するとか、もう決まってたりすんのか?」


「いや、まだだけど。昨日の今日だからな」


「だったらさ、この映画、信濃劇場で上映させてくれよ」


 市原の唐突な提案に、岳登は一瞬耳を疑ってしまう。岳登だって編集中、信濃劇場での上映を考えていなかったわけではない。むしろ、葵座が閉館してしまった今、信濃劇場で上映するのがベストな選択肢だとも思う。


 だけれど、いざ何の前触れもなく提案されたら、やはり驚いてしまう。目を分かりやすく見開いている岳登にも、市原は相好を保ったままでいた。


「だから、閉館した葵座の代わりにここで上映会を開くんだよ。お前だってこの映画は、映画館で観てほしいだろ?」


「そりゃそうだけどさ、お前の一存だけじゃ決められないだろ。朝倉さんだったっけ? にはもう話したのかよ」


「いや、まだだ。今日の仕事が終わったら話す」


「大丈夫かよ、それで」


「うーん、分かんねぇけど多分大丈夫だろ。朝倉さんも葵座の閉館には思うところがあるだろうし、この映画に込められた葵座への思いには、きっと共感してくれるはずだから」


「いや、でもそんな上手くいくかな……」


「何だよ。お前、この映画に自信ねぇの?」


「いや、自信はあるけどさ。でもそんなトントン拍子で進むかな……」


「成海、実はこの映画を信濃劇場で上映したいって言い出したのは、俺じゃないんだ」


 その言葉が意外に思えて、「えっ」と訊き返してしまう。市原の表情に、少し真面目な色が混ざる。


「最初に俺に言ってきたのは、袖口さんなんだよ。今朝起きたら、もうラインが入っててさ。『この映画を信濃劇場で上映できないか』って提案されたんだ」


「袖口さんが? 俺、そんなこと聞いてねぇけど」


「それは、決まってから伝えたいとでも思ったんじゃねぇの? とにかく『自分の方からも朝倉さんに話してみる』って言ってたぞ。袖口さんから直々にお願いされれば、朝倉さんもそう簡単には断れねぇんじゃねぇかな」


「確かに」


「ああ。だからさ、まだ決まったわけじゃねぇんだけど、この映画を上映するために、監督であるお前の許可をもらいたいんだけど。どうだ、ウチで上映させてくれないか?」


 市原の発言にも、岳登はもう驚かなかった。どんな返事をすればいいのかは、既に分かっていた。


「ああ、頼むわ。何だったら、こっちからお願いしたいくらいだったから。俺の一存で決められることではねぇんだけど、それでも俺はこの映画は映画館で上映してほしいからさ」


「分かった。上映してもらえるように、俺からも朝倉さんにかけ合ってみるわ。この映画は人に届けるべき映画だからな」


「ああ、よろしくな」岳登たちは小さく笑いあう。まだ決定したわけではないが、自分たちが作った映画の上映に動いてくれる人間がいることが嬉しかった。


「じゃあ、俺劇場の後片付けしなきゃなんないから」と、市原が人がいなくなったスクリーンに入っていく。岳登も館内を後にした。外ではいつの間にか雪が降り出していて、寒さは岳登の身をすぐに苛んだけれど、岳登はそれでも逸り出している自分の心を感じていた。



(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る