第41話 普通って何ですか?



 伴戸の表情は揺らぐことはない。軽い思いつきで決めたのではないというように。


でも、その宣言に岳登は驚かずにはいられない。思わず目を丸くしてしまう。

伴戸は凛々しい表情をしたまま続ける。


「今回、成海監督の現場に入って感じたんです。録音という仕事の奥深さを。全員で協力して一つのものを作り上げる楽しさを。撮影はもちろん大変だったんですけど、でも終わったときには今までの学生映画とは比べ物にならないほどの喜びや達成感がありました。この感覚をまたもう一度、いや何度でも味わいたい。そう考えると、僕が進むべき道は一つしかないと思ったんです」


 伴戸の声には実感がこもっていて、純粋な本心で言っていることが岳登には分かる。言っていることも当然理解できる。でも、だからといって素直に「はい、そうですか」とは岳登には言えなかった。これは伴戸の人生に関わる問題なのだ。そう簡単に頷けるわけがない。


「伴戸さん、分かってますか? 映画制作、録音技師への道に進むことがどういうことか」


「はい。制作プロダクションに入社して、まずはアシスタントから経験を積まないといけないんですよね。でも、入社するまでがまず大変で、メディア学や音響学など色々勉強する必要がある。でも、その勉強もコツコツ進めていく予定です」


「いや、そうですけど、でも制作プロダクションに入社するような人は、ほとんど全員が音響や映像制作の専門学校を出ているんですよ。普通大学に通う伴戸さんが入社するのは、決して簡単ではないんです」


「それも分かっています。だから、今は大学を辞めて、新たに専門学校に通う選択肢も含めて、色々と考えているところです」


「伴戸さん。失礼ですが今、何回生ですか?」


「今は大学三回生です」


「それなら普通に大学を卒業して就職した方が絶対にいいですよ。親御さんに通わせてもらっている大学を辞めるなんて、もったいなさすぎます」


「監督、普通って何ですか? 絶対って、どうしてそう言い切れるんですか?」


 伴戸に即座に訊き返されて、岳登は言葉に詰まってしまう。「普通」という物差しで人を測る必要なんてないというのに。自分は伴戸の何を知っているのだろう。


 でも、自分のせいで人の人生が大きく変わろうとしている瞬間を前に、岳登はどうしても慎重になってしまう。視線で説得しようとも試みたけれど、岳登の意図は伴戸の奥深くには届いていないようだった。


「このまま大学を出て、それなりの企業に就職することだけが正しいなんて、誰が決めたんですか? 人生は一回しかないんですよ。だったらやりたいことをやった方がいいじゃないですか。それがたとえ茨の道だとしても、自分で決めたなら、文句を言わず前に進む。それが人生じゃないですか」


「……伴戸さん、それで本当に後悔しませんか? 録音の仕事だけで食べていける人なんて本当に一握りで、多くの人は他の仕事もしてどうにか生計を立てている。人気のある人に仕事は集中し、安定して仕事ができる保証なんてどこにもない。収入だって長時間労働なのに、同世代のサラリーマンよりもずっと低い。伴戸さんが進もうとしているのは、そういう業界なんですよ」


「分かってます。と言いたいんですけど、正直僕には業界のことは分かりません。監督がそう言うからには、きっと凄く厳しい業界なんでしょう。でも、だからといって映画業界を目指すことをやめる理由にはなりません。今の僕にとっては映画の録音の仕事が、一番やりたいことですから。一生の仕事にしていきたいことですから」


「伴戸さん、軽い気持ちで言ってませんか? そのくらいの覚悟じゃ、運よく制作プロダクションに入社できても、長くは続かないですよ」


「確かに監督が言うことも分かります。でも、僕はやらないで後悔はしたくないんです。まずはやってみて、全力を尽くして、それで夢が叶わなかったり、早いうちに燃え尽きてしまっても、僕は構いません。もし同じ後悔をするなら、僕はやったうえで後悔をしたいです」


 脅すかのように現実を突きつける岳登にも、伴戸は一歩も引かなかった。じっと岳登を見つめている。その迫力すら帯びた目を、若さゆえの初期衝動だと片づけることは岳登にはできなかった。どんな名監督や熟練した技術者だって、最初は誰もが、笑われるようなまっすぐな情熱からスタートしているのだ。それを否定する謂れは岳登にはない。


 岳登は伴戸に、昔の自分の姿さえ重ねてしまっていた。


「……そうですね。他の誰でもない伴戸さんの人生ですもんね」


「認めてくださるんですか?」


「ここでどれだけ僕が反対したところで、伴戸さんの気持ちはもう決まっているんでしょう? だったら、僕が言えることなんてないですよ。いずれにせよ自分の決断に誇りを持って、後悔しない人生を送ってください。それだけです」


 岳登がそう言うと、伴戸は表情をぱっと華やがせた。完全に賛成しているわけではないが、岳登からの承認を受けられたと感じているように。


 周りの三人も口々に「伴戸、よかったな」と言っている。それが伴戸の新たな門出を祝っているようで、岳登は胸の奥がこそばゆくなった。


「監督、ありがとうございます! 成海組で育ててもらった恩を返せるように、これから先頑張ります!」


 岳登は小さく笑う。その言い方だと、どことなく反社会的勢力みたいだ。でも、理由はどうであれ微笑んだ岳登に伴戸も笑みを浮かべていた。伝えるのに少なからず緊張していたことが分かって、岳登の心もさらに緩む。笑顔は他の三人にも伝播して、ベッドの周りは暖かい空気に包まれていた。




 それから二日間、岳登のもとには様々な人が見舞いに来ていた。友人や親しい会社の同僚だけでなく、市原や夕帆といった一緒に映画を作った人間も、岳登のもとを訪れていた。


 誰でも見舞いに来てくれるだけで、岳登にはありがたかったのだが、特に夕帆が東京からわざわざ来てくれたことには、なおさら感謝の念を抱かずにはいられない。夕帆は心の底から岳登を心配していた様子で、無事だと知ったときに吐いた息の大きさに、岳登は自分が周囲にかけた迷惑のほどに、改めて身につまされる。それでも、絶対に映画を完成させることを誓うと、夕帆は清々しい笑みで応えてくれていた。


 入院四日目は、良い出来事と悪い出来事の両方があった。


 まず良い出来事は、検査の結果が何ともなくて、その日のうちに岳登が退院できることが決まったことだった。これで編集作業を再開させることができると、岳登は手を突きあげたくなるほどの喜びを感じる。


 でも、悪い出来事はその一時間後に訪れた。岳登が退院の準備を進めていると、スマートフォンが振動したのだ。画面は栞奈からグループラインに連絡が入ったことを通知していて、それは二六日に開催される予定だった、葵座での上映会の中止が正式に決まったという知らせだった。こうして入院してしまったからには、仕方がないこととはいえ、岳登はどうしても落胆してしまう。グループラインには残念がる声がいくつも届いていて、その度に岳登は自分に起こったことの重大さに胃が痛んだ。


 岳登が退院したときには、病院の前で将義が待ってくれていた。岳登は将義の運転で家まで送ってもらう。車内での会話はあまり弾まなかった。将義に「退院できてよかったな」と言われても、岳登は前向きな返事ができない。上映会が中止になったショックは、確実に岳登の中で尾を引いてしまっていた。


 二人が岳登の家に到着した頃には日は沈み、空は徐々に藍色を濃くしていた。


 将義に礼を言って別れると、岳登は自分の家に足を踏み入れる。たった四日間留守にしていただけなのに、玄関をくぐって見た光景は、一瞬自分の家だとは思えないほど、あっさりとしていた。物が少なく整然とした空間は、それこそ映画のセットのようにすら思える。


 だけれど、当たり前だけれど、目に映る全ての物がここは紛れもない自分の家だと伝えてきて、岳登の感覚を徐々に馴致させていく。岳登も部屋着に着替えると、真っ先に二階の寝室へと向かった。


 寝室も当然だが、岳登が月曜日に出たときと何一つ変化していなかった。学習机に座り、パソコンの電源を入れる。たったそれだけのことが四日間という時間以上に、岳登には久しぶりのことに思えた。


 パソコンが起動したら、岳登がすることは一つしかない。編集ソフトを開き、編集中のファイルを再びインポートする。編集は、音編集の段階で止まってしまっていた。叶が作曲してくれた劇伴や素材サイトでダウンロードした効果音を加える段階だ。岳登は一つ深呼吸をした。上映会は中止になったけれど、自分にはこの映画を完成させる責任がある。


 岳登はキーボードに手を伸ばした。切り取って貼り合わせて、映像に音楽を乗せていく。入院したおかげで疲れも大分取れていて、岳登はいくらかクリアな頭で編集作業を再開することができていた。




 上映会が中止になって、実質的な締切がなくなってもなお、岳登は家にいる間のほとんどの時間、パソコンの前にいた。もちろんまた倒れないように、少しでも疲れたと感じたら休憩を挟み、睡眠時間も一日七時間は取るようにしている。


 スタッフやキャストのためもあるけれど、何より自分が完成した映画を観たい。その気持ちが岳登を突き動かしていた。


 岳登が体調に気を配りつつも、編集作業に没頭していると、時間はあっという間に過ぎ、二月に突入していた。すなわちそれは、葵座があった土地の所有権が、正式に東京の企業に移ったことを意味する。


 栞奈から聞かされていた、葵座の取り壊し工事の開始日時。その日になっても、岳登は全ての編集作業を完了させることができなかった。予定されていた上映会の日付に間に合わなかったときにも感じた胸の痛みが、さらに鋭く岳登に襲いかかる。


 岳登は取り壊し工事がどう行われるかを知らない。でも、葵座にショベルが振り下ろされているところを想像すると、背筋が凍る思いがした。筋違いだとは分かっていても、どうしても自分を責めてしまう。自分がもっと早く映画を完成させて、葵座で上映できていれば。


 でも、いくらそう考えても今となっては無意味だったし、嘆いたり悔いたりする暇があったら、岳登はパソコンに向かっていたかった。編集は音編集まで終わり、今はカラーグレーディングの段階だ。ヒストグラムを調整し、撮影時よりも暖かみのある画面に仕上げていく。


 編集は終盤に差しかかって、ゴールも見え始めている。岳登はひたすらマウスを動かし、キーボードを叩いていた。


 パソコンの画面をじっと見つめる。全画面表示になった画面には、岳登が編集した映画のプレビューが流れていた。シーンごとのチェックはもう終わって、今はいよいよ最終段階。編集したシーンを繋げた完成素材の検証である。


 岳登は画面に神経を集中させる。ショットは思い描いていた通りに繋がり、画面の色調はカラーグレーディングの甲斐あって暖かみを含み、劇伴や効果音も適切なタイミングで流れ、整音をしたおかげでセリフも聞き取りやすい。

それでも、岳登は不都合な個所はないか、目を皿にして耳をそばだてる。もう何十回と見ているのに、改めて完成素材を見ると、岳登はストーリーに心を動かされていて、それは編集が問題なく機能していることを示していた。


 完成素材を見終えて、岳登はヘッドフォンを外し、大きく息を吐く。最後に一度通して見ても、不具合はどこにも見当たらなかった。これで観客に見せることができる。岳登は背もたれによりかかると、両手を高く掲げた。


 映画『ミニシアターより愛を込めて』の完成。それは二月も半分が過ぎた、一八日のことだった。


 圧縮した完成素材をメールに添付して、この映画に関わってくれたスタッフやキャスト全員にCCで送る。とはいえ、今は深夜二時だったから、すぐに返事がこなくても、岳登は少しも気にすることはなかった。ここまで作業をしている疲労もあったし、朝起きたところでまた仕事に行かなければならないから、岳登はそのまま布団に入る。


 寝る前にスタッフ・キャストのグループラインを開き、たった今映画が完成したことと、完成素材をメールで送ったことを書きこむ。送信すると深夜にも関わらず、すぐに既読が数件ついた。篠塚や安形といった面々から、「おめでとうございます」や「お疲れ様でした」といったメッセージが返ってくるのを、岳登はニヤニヤしながら眺めていた。



(続く)

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