第40話 映画制作の道に



 医師と少し話した結果、検査は明朝の一〇時に行うことが決まった。ひとまず無事なことを確認してから、将義や栞奈は病院を後にしてしまったので、岳登は一人ベッドに残される。特別寂しいという感情は抱かなかったが、それでもここ最近はずっと編集作業に時間を捧げていたので、何をすればいいのか岳登は時間を持て余してしまう。ひとまず電子書籍を買って読んでみたり、好きな映画をサブスクリプションサービスで検索して見ようとしてみる。でも、まったくパソコンに向かっていない自分がどこか信じられなくて、心はソワソワとしだし、集中はできなかった。


 カップ麵よりはずいぶん味の薄い、でも栄養バランスが取れた病院食を食べると、岳登には再び悶々とした時間が訪れる。ここ数日、睡眠時間を削っていたにも関わらず、目を瞑ってみてもなかなか眠ることはできない。ひとまず映画の続きでも見ようと、岳登はワイヤレスイヤフォンを装着し、再生ボタンを押そうとする。でも、その瞬間に、病室のドアが開く音が聞こえた。


 足音が岳登へと近づいてくる。夜中にも関わらず病院にやってきたのは、早香だった。


「岳登、大丈夫!? 倒れたって聞いたけど!?」


「うん、母さん。心配かけてごめんね。確かにちょっと無理はしてたみたいだけど、熱もないし、身体におかしいなって感じるところもないから」


「そう。お母さんの方こそごめんね。本当は将義さんから連絡を受けたら、すぐにでも駆けつけなきゃいけないはずだったのに、こんな時間になっちゃって」


「ううん、全然気にしてないよ。むしろ来てくれただけでありがたいって思ってるから」


 岳登は起き上がって、現状では何ともないことを伝える。すると早香はよろめくようにしゃがみこんでしまった。しりもちをつく寸前でベッドの縁を掴んでいたけれど、岳登は突然の事態に慌ててしまう。


「えっ、ちょっと母さん、どうしたの? 大丈夫?」


「大丈夫、大丈夫。ちょっと安心して腰抜けちゃった。岳登にもしものことがあったらどうしようって、ずっと思ってたから」


 早香は再び立ち上がったので、岳登はひとまず安堵する。その一方で、自分がどれだけ早香をはじめとした周囲の人間に心配をかけたかを改めて認識して、身につまされた。


「で、お医者さんはなんて言ってるの? もう検査はしたの?」


「ううん、検査は詳しくはまだしてない。明日する予定。でも、たぶん軽い貧血か栄養失調だろうとは言われてるから、そんな心配しなくてもいいよ」


「そう? もし岳登の身に何かあったら、お母さんどうしていいか……」


 早香が抱く懸念を「心配性だなぁ」と一笑に付すことは、岳登にはためらわれた。ここまで自分を心配してくれている早香の気持ちを、笑って流してはいけないだろう。


「大丈夫だよ。きっと何ともないから」


「ねぇ、岳登。明日もまたここに来ていい? 検査結果をお母さんも知りたいから」


 早香の申し出を、岳登は却下しなかった。別に検査結果ぐらい電話で伝えられるが、医者の口から直接聞きたいという早香の思いを尊重する。泊まりはどうするのか訊いたら、駅前にホテルを取るという。そう答えた早香に、岳登は何の異存もなかった。


「……それで岳登、言いたくないんなら、別に言ってくれなくても構わないんだけど……」


「何? 倒れた理由? それなら母さんも察している通り、映画の編集だよ。二六日の上映会に間に合わせるためにちょっと無理しすぎちゃってさ。やっぱ睡眠時間が二、三時間の生活は、そう長くは続かないよね」


 岳登は少し笑った。倒れたことを笑い話にしたかった。


 だけれど、早香の表情は憐みの色を見せていて、岳登の微笑みに少しも釣られていない。


「そんな笑い話じゃないよ。倒れたって聞いて、お母さんがどれだけ心配したか分かってるの? ありふれた言い方だけど、岳登はお母さんにとって、たった一人の息子なんだからね。それは、制度上は家族じゃなくなった今も変わらない。岳登の身に何かあったら、お母さん、どうなるか分かんないんだからね」


「ごめん。ちっとも笑える事態じゃなかったね。反省する」


「いや、分かってくれたらいいの。お母さんは岳登のことを、今も自分の半身みたいに大事に思ってるって。だから、これからは倒れるまで自分を追い詰めないでね。岳登が健康でいてくれることが、お母さんにとっては何より嬉しいんだから」


「うん、分かってるよ。これからはちゃんと睡眠時間も確保するつもり。上映会もなくなっちゃったし、無理しないで編集作業を進められるはずだから」


「えっ、上映会なくなっちゃったの?」


「うん。まだ正式に決まってはないんだけど、こうなっちゃったからには、もう上映会の日付には間に合わないから」


「……そう。お母さん、岳登が監督した映画観るの楽しみにしてたのにな」


「それは、本当にごめん。でも絶対に完成させて、何らかの手段で母さんにも見せるから。一観客以上に俺たちの映画を楽しみにしてくれてる母さんの期待は、やっぱ裏切れないよ」


「ありがとね、岳登。そこまでしてくれるだけでお母さん、嬉しいよ。だって岳登が監督したんだもんね。良い映画に決まってる」


「うん。スタッフやキャストは最高の仕事をしてくれたからね。まあそれを生かすも殺すも俺次第なんだけど、でもきっと良い映画にしてみせるからさ。もうちょっと待っててね」


「うん。岳登、退院したらまた頑張ってね。でも、今度は倒れないようにしっかりと節度を持って、ね」


「ああ、分かってるよ」


 岳登たちは、口を開けて笑うことはなかった。でも、早香の表情は病室に入ってきたときよりかは随分と穏やかで、それは自分の表情の写し鏡になっているのだろうと岳登は感じる。早香のためにも、また張り切って編集作業に臨みたいと思えた。




 検査結果は全ての検査が終わってから、早くも三〇分後には出ていた。岳登の症状は医者が予見した通り、軽い貧血と栄養失調だった。とりあえず明日も入院して、明後日になって再度検査を受けて退院できるかどうかを決めるのだという。大事に至らなかったことに、岳登は早香とともに胸をなでおろす。少なくともさらに二日間編集作業ができないのは痛かったが、それでも辛うじて健康体でいられることに勝るものはないと思った。


 早香は岳登の無事を確認すると、安心したように昼過ぎには病院を後にしていた。一人取り残された岳登は手持ち無沙汰な時間を、三度味わってしまう。時間が過ぎるのがひどく遅い。それでも淡々と時間を潰していると、病室のドアが再び開かれる音がした。


 岳登のもとに姿を現したのは、安形だった。安形は一人でやってきたわけではなく、榎、珠音、伴戸も一緒にやってくる。そういえば、この病院は秀新大学のキャンパスからは目と鼻の先にあったと岳登は思い出す。伴戸の手にはフルーツの盛り合わせが握られていて、ここに来る途中に近くのスーパーマーケットにでも寄ったことが察せられた。


「成海監督、大丈夫ですか? 会社で倒れられたんですよね?」


 真っ先に口を開いたのは、榎だった。心配する声にも、久しぶりの「監督」呼びが、岳登にはどこかむずかゆく感じられてしまう。


「ええ、大丈夫です。ちょっと無理をしすぎてしまったみたいで。でも、今はゆっくり休んで大分元気になりました」


「本当ですか? 何か病気に罹ってはいないですよね?」


 珠音の反応は、最悪の事態を想定してのものだろう。でも、現実はそこまで悪くはなかったから、岳登は相好を保つことができる。


「ええ。今日検査してもらったところ、軽い貧血および栄養失調とのことでした。大きな病気には罹ってませんから、安心してください」


「えっ、大丈夫じゃないじゃないですか。倒れるまでの貧血と栄養失調は、少しも軽くないですよ」


 慌てたように言う伴戸に、岳登は落ち着くよう目で促した。


「それは申し訳ありません。皆さんに多大なる心配とご迷惑をおかけしてしまったこと、心からお詫びします。もっと自分のペースを考慮して、編集作業を進めるべきでした」


「そんな謝らなくていいですよ。成海監督は何も悪くないですし。今は少しずつ回復してきてるんですよね。いつ頃に退院できそうかって分かりますか?」


 そう尋ねられるまでに、安形には自分の体調は回復して見えていることを知って、岳登はひとまず安堵する。


「それはまだ今の時点では分かりません。とりあえずは明後日もう一度検査して、何事もなかったら退院できますが、今はまだいつ退院できるかは決まっていないです」


「そうですか。ひとまずは明後日退院できるといいですね」


「はい。僕もそうなることを願ってます」


 岳登は微笑み続ける。心配はいらないと、自分にも言い聞かせるかのように。四人も最初は心配そうな表情をしていたけれど、岳登が無事だと分かると、すっかり自然な顔つきを取り戻していた。落ち着いた表情に岳登の心もほだされていく。


 四人が知りたがっているであろう倒れた経緯や編集作業の進捗を伝える際も、もう何回か人に説明していたので、スムーズに言葉にすることができた。上映会が中止になりそうと伝えたときは、残念な表情をされてさすがに心が痛んだけれど、それでも事情を説明したら、四人とも理解を示してくれた。「そういうことならしょうがないですね」という反応に、岳登はもう無理をするのはやめようと再度思う。


「そういえば、成海監督。今日ここに来たのは、監督に一つお伝えしたいことがあってもあるんですけど」


 一通り岳登からの話が終わったタイミングで、榎が言う。「何でしょうか?」という言葉以上に、岳登は「伝えたいこと」の内容が気になって仕方がない。榎たちの視線は伴戸に向けられる。伴戸は一つ息を吐くと、岳登を射抜くようなまっすぐな眼差しで告げた。


「成海監督。僕、映画制作の道に進みたいと思っています」



(続く)

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