第39話 映画よりも大切なもの
新しい年を岳登は映画の編集をしながら迎えていた。
年が変わっても岳登の身に訪れた変化は、驚くほど少なかった。SNSで新年の挨拶を呟いてみたり、友人や知人、あるいは共に映画を撮影したスタッフやキャストたちと、ラインで「あけましておめでとうございます」や「今年もよろしくお願いします」といった言葉を交わすだけで、ものの三〇分もしないうちに岳登は編集作業に戻っていた。
三が日も岳登はほとんどの時間家にこもり、昼夜を問わず編集作業に没頭していた。初詣にも行かず、テレビの特番や駅伝などを見ることもなく、腰や首が痛くなるくらいにパソコンに向かい続けた。おかげで編集作業も大分進んだ、と言いたいところだったのだが、岳登は想像していた以上にテイクの選択やショットの接続に時間を取られていた。正解のない作業だから、逐一考えながら編集を進めなければならず、一月三日が終わる頃には、年末年始休暇で想定していた作業量の三分の二ほどまでしか進められなかった。
自分の能力を過信していたと岳登は思い知り、気持ちはにわかに焦り出す。一月二六日の上映会に、早くも黄色信号が灯り始めていた。
一分でも長く、編集作業をする時間を削りだしたい。でも、現実は非情で一月四日になれば、容赦なく仕事は始まってしまう。少しでも編集作業をするエネルギーを蓄えておくためにも、岳登は必要最低限の会話と出力で、仕事をすることに徹した。昼休みも同僚と喋ることなく、一秒でも長く仮眠を取る。幸い岳登の仕事は、自分に与えられた分だけをこなしていれば、そこまで人と話す必要がない仕事だった。
だけれど、岳登がどれだけ編集作業に取り組んでいても、遅れは取り戻せるどころか、さらに増えていってしまい、ようやく全編通しての映像の編集が完了したときには、想定していた期日を三日も過ぎてしまっていた。
それでも映画の編集としては道半ばだ。これから叶が作ってくれた劇伴や素材サイトでダウンロードした効果音を追加し、セリフを聞きやすいように整音し、カラーグレーディングで全体の色味を整えつつ統一し、最後にはエンドロールまで作成しなければならない。
これだけの作業をするのに岳登に与えられた時間は、もう半月ほどしかなく、岳登は引き続き寝る間も惜しんでパソコンに向かい続けていた。睡眠時間も五時間、四時間と減っていき、栄養ドリンクも一日に二本は飲むようになった。岳登は憑りつかれたかのように、パソコンにかじりつく。そうでもしなければ、上映会には間に合わなかった。
週明けの月曜日。その日、岳登は二時間しか寝ていなかった。栄養ドリンクをまた一本飲み干して、会社へと向かう。自転車を漕いでいる間もしきりに眠気は襲ってきたが、どうにか会社に辿り着いた岳登は、パソコンの電源をつけて、この日分のデータ入力を始める。紙に印刷されたデータを専用のシステムに入力していくという、時代に逆行した非効率極まりない仕事だ。
一つも頭を使わない単純作業は何の負担もなく行えるはずだったが、やはり岳登はのしかかるような眠気を感じずにはいられない。手は何度も止まり、重たい瞼が意識を睡眠へと連れていこうとする。眠気覚ましに飲んでいるコーヒーもまるで役に立たない。
ここは外の空気を浴びて、リフレッシュをすべきだろう。岳登はそんな身体の声を素直に聞いて、立ち上がる。
だけれどその瞬間、岳登の視界は停電したように真っ暗になった。全身の力が抜けたように、床に倒れこむ。騒然とする職場や心配する同僚の声も、岳登には届かなかった。
意識が戻ったときにまず岳登が感じたのは、ふんわりとした布団の心地だった。今自分は横になっているのだと気づく。目を開けると、真っ白な天井が映る。見慣れない景色に、自分が今自宅にも職場にもいないことが察せられた。右腕に差された点滴が、その推察をさらに強固にする。
「岳登、岳登、大丈夫か?」
目を覚ますやいなや聞こえてきた声の方に、岳登は顔を向ける。するとベッドの横には将義が立っていた。この状況で大丈夫なはずがないだろうと、岳登は心の中で苦笑する。
窓の外では太陽が西に傾いていた。
「何、これ……?」
「何ってお前、職場で倒れたんだよ。救急車で運ばれて、病院に担ぎこまれて。会社からすぐ連絡が入って、俺もこうやって駆けつけてきたんだから。でも、ひとまずは意識が戻ったようでよかったよ」
前半は焦ったように、でも後半はどこか安堵したように将義が言う。でも、いいわけがないだろうと岳登は感じてしまう。不意に意識を失って倒れるなんて、誰にとっても一大事だ。
「ねぇ、なんでこんなことになってんの……?」
「それは俺も分かんねぇよ。熱はなかったみたいだし、医者は軽い貧血か栄養失調だろうって言ってるけど、それはもう少し体調が回復して、検査してみないと分かんないからな。でも、お前がとりあえずは無事なようで、俺も安心したよ」
「……ごめん」
「なんで倒れたお前が謝るんだよ。今回のことは誰かが悪いわけじゃないんだからさ。でも、お前本当に大丈夫なのか? ちゃんと寝れてんのか? 食べれてんのか?」
「……それはまあ人並み程度には」
「そっか。でも、こんなことになってるってことは、それじゃ足りてなかったんだろ。映画の制作で大変だろうけどさ、ちゃんと休めるときは休んどけよ」
おそらくの倒れた原因を言い当てられても、岳登は動揺しなかった。確かにここ数日は毎日二、三時間しか寝ていなかったから、身体の方に限界が来てしまったのかもしれない。岳登ももう三五歳で、決して若くはないのだ。
でも、この程度でSOSを訴えた自分の頭や身体の出来の悪さを、岳登は内心責める。ただでさえ上映会までに編集作業が完了するかは、怪しいというのに。もし身体に異常が見つかってこのまま入院するとなったら、それこそ最悪の事態だ。
本当は今すぐ家に帰って、編集作業の続きをしたい。でも、岳登の頭と身体はまだ休んでいたいと訴えていて、それが岳登にはもどかしくて仕方なかった。
意識が戻ってから、三〇分ほどが経った頃だろうか。看護師と入れ替わるようにして病室に入ってきた人物に、岳登は目を留めてしまう。岳登のもとにやってきたのは栞奈だった。軽く肩で息をしていて、急いで来たことが分かったけれど、それでも岳登はどうしてここに栞奈がいるのかすぐに把握できない。将義と栞奈は知り合いなのだろうか。
「成海さん、大丈夫ですか!?」
ベッドの側に来るやいなや、すぐに訊いてきた栞奈は相当焦っているようだった。将義に「さっき目を覚ましたところなんですよ」と説明されていてもなお、目に心配の色が強く浮かんでいて、岳登は心が痛む。
「はい、なんとか。それより栞奈さん、どうしてここに……?」
「それは、こちらの成海さん、将義さんから連絡をいただいたんです。成海さんが倒れたと知って、本当に心配したんですよ。来るのが遅くなって申し訳ありません」
「いえ、僕の方こそ申し訳ありません。袖口さんに、こんな要らない心配をかけてしまって。自分が情けないです」
「そんなこと言わないでください。私は成海さんが無事なだけで良かったと思ってるんですから。それ以外は何もいりません」
栞奈にそう言われてもなお、岳登の中では情けない思いが消えなかった。少し睡眠時間を削っただけで倒れてしまった自分を、恥ずかしく思う。
だから、せめて平気な様子を見せようと岳登は身体を起き上がらせた。「無理しないで」と二人に口々に言われても、岳登は構わなかった。
そのままベッドから起き出して、二本の足で立つことを試みる。でも、たった数時間横になっていただけで、足はまるで鉛を含んでいるかのように鈍重だ。立ち上がるのには岳登には大きなエネルギーが必要で、思うようにはいかなくて、栞奈に「本当に無理しないでください」と止められる。
それでもなお立つだけの元気は、意識が戻って間もない岳登にはまだなかった。
「どうして止めるんですか。僕はここにいるべきじゃないっていうのに」
「何言ってるんですか。今ここが成海さんのいるべき場所ですよ。倒れた人間は、体調が完全に回復するまで病院にいなきゃダメです」
「体調なら回復しました。もう僕は元気です。お願いですから、帰らせてください。僕は帰って、映画の編集作業をしないといけないんです」
「成海さん。お言葉ですけど、まだ顔色良くないですよ。それに分かっていると思いますけど、退院を決めるのは成海さんや、ましてや私じゃありません。医師の方です。むしろ作業し詰めだったところを、休むいい機会がもらえたと思ってはいかがでしょうか」
「そんな機会いらないですよ。ただでさえ、睡眠時間を削らなきゃならないほど、編集作業は切羽詰まってるんですよ。ここで僕が帰らなかったら、上映会までに映画は完成しません。袖口さんはそれでもいいんですか?」
「もちろんよくなんてないですよ。私だって葵座で完成した映画を観たいです。でも、そのために成海さんが体調を崩してしまったら、元も子もないじゃないですか。どうかお願いですから、今はゆっくりお休みになってください」
「どうしてですか? どうしてそんなことが言えるんですか? 最後にとびきり大きな花火を打ち上げるんじゃなかったんですか? 僕はここにいたくないです。お願いですからそこをどいて、帰らせてください」
「成海さん」栞奈が発した短い言葉は、岳登が聞いたことがないほどの厳しさを帯びていた。表情から発せられる迫力に、怯んでしまいそうになる。
「私はここをどきません。世の中には、映画より大切なものがあるんですよ。私にとっては映画の完成よりも、成海さんが元気でいてくれている方がずっと大事なんです」
「そんな正論じゃ映画はできませんよ。袖口さん、映画制作っていうのは命がけなんですよ。もし映画が完成して葵座で上映されるなら、僕の体調や命ぐらい少しも惜しくありません」
「……ふざけんな」そうぼそりと呟かれた声は、紛れもなく栞奈のものだった。初めて聞く怒りを含んだ声に、岳登は「えっ」と声にならない声を出してしまう。栞奈の目には、心配よりも苛立ちが募っていた。
「ふざけないでください! 仮に映画が完成して観られたとしても、成海さんが無事じゃなかったらそんなの少しも嬉しくないですよ! 私は、そんな誰かの犠牲の上に成り立った映画なんて観たくありません! もっと自分のことを大切にしてください!」
カーテンに遮られていて見えなかったが、岳登は病室中の視線が自分たちに向けられたような気がした。それくらい栞奈の怒りは大きかった。将義に「袖口さん、落ち着いてください」と言われても、表情からは怒りの色はまだ消え失せていない。でも、自分のために怒ってくれている栞奈を前にしてもなお、岳登の考えは大きくは変わらなかった。
「袖口さん、葵座で上映されなかったので観ていないかもしれませんが、今年公開された映画に、今と似たようなシチュエーションがあったんですよ。映画の編集中に主人公が倒れてしまうという。でも、その主人公は病院を無理やり抜け出し、かじりつくように編集作業を続けていました。映画を作るには、それくらいの覚悟がないといけないんですよ。たとえ、自分の体調を犠牲にしてでも、血反吐吐いて這いつくばってでも、完成させるという覚悟が」
決意を示すように岳登は応える。それがたとえ栞奈の火に油を注ぐ結果になっても、もう退くことはできなかった。自分の言うことを理解してくれない岳登に、それこそ栞奈は怒りをより爆発させる。かと思いきや、栞奈の表情には打って変わって悲しみが滲み出ていた。自分を責めているかのような表情に、岳登の胸は締めつけられる。
「……成海さん、そこまで追い詰められていたんですね。私が二六日に上映会を開くと言ったばっかりに。申し訳ありませんでした」
怒りがすっと引いたかのように切実な表情をしている栞奈に、岳登は困惑してしまう。思わず「えっ……どうして袖口さんが謝ってるんですか?」と訊いてしまう。
「いえ、今回の事態は私が全て悪いんです。私が上映会という名の締め切りを、無理に設定したのがいけないんです。私のせいで成海さんは、映画と現実の区別がつかなくなるくらいにまで追い詰められて。本当に申し訳ありませんでした。上映会は中止させていただきます。どうか、成海さんは無理のないペースで映画を完成させてください」
「袖口さん、何言ってるんですか……? それじゃ、映画が完成したときに上映する場がないじゃないですか」
「それは今の時代だからどうにでもなりますよ。動画投稿サイトにアップしたり、オンライン上映会を開くのも有効かもしれません。せっかく完成した映画が誰にも見られないなんてことがないように、私がどうにか手立てを打ちますので」
「いや、そういう問題ですか? この映画は映画館で、葵座で観ないと意味がないんですよ」
「……では、成海さん。反対にお訊きしますが、もしこのまま帰ったとして、本当に上映会までに映画を完成させることができますか?」
岳登は答えに窮してしまう。残りの作業量から考えて、睡眠時間を削る生活は続けなければならない。そのことを悟られないように、岳登は「はい、できます」と、毅然と口にする。だけれど、そこに何の確証もないことは、栞奈に瞬時に見抜かれた。
「……本当ですか? このまま倒れるほどの作業を続けて、それで本当に良い映画ができるんですか? もし、また倒れでもしたら、今度こそ確実に、上映会には間に合わなくなってしまいますよ。もしかしたら、本当に命に関わる事態になって、それこそ映画がどうなんて言っていられなくなるかもしれません。成海さんは、本当にそれでもいいんですか?」
「そ、それは……」
「成海さん、もう無理に上映会に間に合わせようとしないでください。たとえ葵座がなくなっても、私が映画を上映する何らかの方法を考えます。約束します」
「で、でも……」
「成海さん、私は約束すると言っているんです。だから、成海さんも約束してください。今だけはゆっくり休んで、退院したらまた成海さんのペースで映画を完成させると。大丈夫です。私たちはいくらでも待てますから」
栞奈の眼差しは真剣だった。きっと映画の完成にどれだけ時間がかかっても、文句ひとつ言わずに受け入れてくれるだろう。こんな事態になって、もどかしい気持ちは当然岳登にだってある。今すぐ家に帰って編集作業を再開させたい気持ちも、依然として存在している。
だけれど、栞奈の真に迫る言葉を聞いて、それは単なる自分のエゴではないかと、岳登は頭の片隅で考えるようになっていた。上映会を中止するというのも、おそらく本気だろう。
そうなると岳登が身を削る必要もなくなる。もちろん寂しい気持ちはあるが、心のどこかで安堵している自分も、確かに岳登は感じていた。
自分一人の身体ではない。当たり前の事実を今更痛感する。
「……分かりました。でも、袖口さん、本当に約束してください。映画を作ったままで終わらせないと。僕も退院してから、なんとか映画を完成させますので、必ず観客の方に観てもらう機会を作ると」
「はい、約束します。映画に込められた成海さんたちの想いには私も応えたいですから」
栞奈の切実な想いに、岳登も応えたいと思う。そして、そのための一番の手段が今はゆっくり休むことだと、岳登は考えられるようになっていた。
一つ頷いて、再びベッドに横になる。二人がほっと一息ついたのを見て、岳登は正しい判断をしたのだと思えた。
(続く)
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