第38話 この悔しさを
編集作業の真っ只中だったけれど、岳登は今だけは栞奈との会話を優先させたくて、「大丈夫です」と答える。電話の向こうで、栞奈がホッとしたように息を吐いたのが感じられた。
「そうですか。いや、成海さん今もまだ編集作業をしてるのかと思って、電話かけようかどうか少し迷いましたから」
「いえいえ、確かに今の今まで編集作業をしてましたけど、別にいつでも電話はかけてくださって大丈夫ですよ。袖口さんからの電話だったら、僕はいつだって出ますから」
「そう言っていただけると嬉しいです。でも、すいません。編集作業の邪魔をしてしまって」
「いえ、全然邪魔じゃないです。僕だってそろそろ休憩にしようかと思っていたところですから。それで、袖口さん。電話をかけてきたということは、何か僕に話したいことがあってのことなんですよね?」
別に会話を急ぎたいわけではなかったが、このままお互い遜り合っていても埒が明かない。だから、岳登は栞奈に本題に入るよう呼びかけた。
その一方で、栞奈が電話をかけてきた理由を、岳登は薄々察してもいた。「そうですね」と栞奈が口を開く。出てきた言葉は岳登の予想から少しも外れていなかった。
「成海さん、本日は葵座に足を運んでくださってありがとうございました。お忙しい中、客席の中に成海さんの姿を見つけられて、私も嬉しかったです」
改めて栞奈に感謝を伝えられると、岳登としては当然のことをしたつもりだったのに、照れくさく感じずにはいられない。面と向かって言われていたら、顔を赤くしてしまったかもしれない。だから、表情の見えていない電話で助かったと、岳登は感じていた。
「こちらこそありがとうございます。葵座の最後の上映に立ち会えて、僕も光栄でした。お客さんも満席に近いほど、それこそ二階席まで埋まるくらい入ってましたね」
「ええ、あれだけ多くの方が葵座を愛してくれていたんだって実感できて、ジーンときました。SNSを見ても県外から来てくださった方もいたみたいですし、それだけ葵座が大きい存在だったんだなって、今更ながらに感じられました」
「そうですね。僕も満席のスクリーンを見て感じ入るものがありました。あと映画の選択もよかったです。何度もテレビ放送されている映画で知名度も高くて、それにコメディだから、最後は笑って楽しい気持ちで終わることができました」
「はい。私もお客さんの反応を見て、あの映画にして正解だったと思いました。他にもいくつかの映画と悩んだんですけど、でもあの映画を選んで本当によかったと、挨拶したときの和やかな雰囲気に感じました」
「袖口さん、実はあの映画、僕が生まれて初めて映画館で、葵座で観た映画だったんですよ」
「えっ、そうだったんですか!?」
「はい。公開時に父親に連れていってもらって。あの映画を観た瞬間から、僕の映画好き人生は始まったので、今回三〇年ぶりに葵座で観ることができて、とても感慨深かったです」
「それは凄い偶然ですね。実際あの映画は葵座の歴史の中でも有数のヒット作でしたし、それが上映した一つの理由でもあったんですけど、まさか成海さんが初めて観た映画だったとは。その話を聞いて、なおさら上映してよかったと感じました」
「ええ、ありがとうございます。僕も三〇年ぶりに観られてとても嬉しかったです」そう岳登が応えると、栞奈も気持ちのいい声を返してくれる。電話越しでも二人のコミュニケーションは、極めて円滑に回っていた。
だけれど、岳登はそこにわずかな不自然さを見てしまう。栞奈が自分に合わせるように、本当の心情以上に明るく振る舞っているのではないかと感じられてしまう。一度疑念を感じてしまうと、岳登の中でそれは無視できない大きさにまで膨らむ。
栞奈には申し訳ないけれど、この胸のモヤモヤを解消しておかなければ、また編集作業に向かうことも、新しい年を迎えることもできそうになかった。
「袖口さん、一つ聞きたいことがあるんですけど、よろしいですか?」
話題が一つ終わったタイミングで、岳登はそう投げかけてみる。「何でしょうか?」という栞奈の声はどこまでも自然だった。
「映画が終わった後の挨拶で、葵座が閉館することに何の後悔もないって言ってましたよね。あれ、本当ですか?」
「本当ですか、とは?」
「いや、僕はただの一観客の立場ですけど、それでももっと葵座に行ったり、SNSもそうですけど、周囲の人にも葵座のことを広めておけばよかったなと感じているので。支配人である袖口さんが、何も感じてないはずがないと思ったんです」
岳登の問いに、栞奈はすぐに答えなかった。図星を指されて戸惑っているのか、それとも慎重に答える言葉を選んでいるのか。どちらにせよ、岳登にとってはあまり望ましい時間ではない。今しがた自分が言った言葉を取り消したくもなる。
だけれど、それはもう声が栞奈の耳に届いてしまった今では不可能なことでもあった。
「成海さん、言っておきますが私は本当に後悔していません。銀行の方への相談も、カンパもクラウドファンディングも、やれるだけのことはやりました。その上で葵座を存続させることができなかったから、それはもうどうしようもないことなんです。きっと葵座は今日、役目を終える運命だったんです」
栞奈はまるで自分に言い聞かせるように口にしていて、岳登には挟める口がない。たとえそれが異なる本心を垣間見せるものだったとしても。「……そんな」とだけ相槌を打つ。他にできることなんて、今の自分には何もないように岳登には思われた。
「……私は後悔はしていません。でも、まったく悔しくないかと言われたら、それはまた別の話です。銀行の方にも話を分かってもらいたかったし、カンパもクラウドファンディングももっと集まってほしかった。企業の社長さんに葵座の重要性を分かってもらって、経営を続けてほしかった。こうしてほしかったということを挙げたら、キリがありません」
「袖口さん……」
「成海さん、私は悔しいですよ。映画を観ていた時や皆さんの前で話していたときよりも、少し時間が経った今の方がよっぽど悔しいです。葵座が改修工事ができて、来年以降も営業する未来は、本当になかったんですかね」
率直な栞奈の吐露に、岳登は返す言葉をすぐに見つけられなかった。今まで当たり前のようにあった葵座は、明日からもうないのだ。とっくに折り合いをつけていたはずの現実が、岳登の心に重くのしかかる。
「……袖口さん。僕も悔しいです。葵座が閉館してしまうことが、悲しくて残念で悔しくてたまりません。僕だってもっと葵座で映画を観たかったです。それがもう叶わないなんて、信じたくありません」
「成海さん……」
「でも、このまま沈んだままでいることが、僕には一番悔しいです。転んでもただじゃ起きないっていう言い方とはちょっと違うかもしれませんけど、それでも僕はこの悔しさを映画にぶつけるつもりです。何としても僕たち全員の思いを乗せた映画を完成させて、最後に葵座で上映する。それが今の僕に唯一残された道ですから」
岳登は声にぐっと力を込める。全ての葵座で映画を観た経験を、葵座で初めて映画を観てから今日に至るまでの日々を少しも無駄にしたくはない。葵座に通った時間を間違いだったとは、誰にも言わせない。そのために。
「……そうですね。私も葵座は閉館してしまいましたけど、このままで終わるつもりはありません。最後にもう一発とびきり綺麗な花火を打ち上げて、本当の意味でやりきったって言いたいです」
「はい。僕に任せてください。幸い今は編集も計画通りいっていますし、このままのペースでいけば、上映会の日にも十分間に合いますから。ちゃんと袖口さんの期待に応えられる映画をお見せします」
「ありがとうございます。でも、私のだけじゃなくて映画に関わってくれた全ての、いや当日足を運んでくださる全ての方の期待に応えられるような映画にしてくださいね」
「もちろんです。袖口さんは焦らず構えていてください。でも、もし心配になったら、いつでも電話や連絡してくださって大丈夫ですよ。僕はどんなときでも応じますから」
「はい。成海さんの負担にならないよう、連絡はできるだけ控えめにしたいと思います」
あけすけな栞奈の返事に、岳登は小さく笑みをこぼす。プレッシャーよりも、映画を完成させたいという前向きな矢印が岳登の中では強かった。栞奈も同じようにかすかに微笑んでいるのが、岳登には何となく分かる。
「では、成海さん。私はこのへんで失礼させていただきますね」
「はい。袖口さん、改めてですけど今日はありがとうございました。よいお年を」
「ええ、成海さんこそよいお年を」
電話が終わると岳登は、顔の上に向かって一つ息を吐いた。栞奈の本当の思いを聞いて、より勇気づけられた感覚がある。このまま何時間でも、編集作業を続けられそうだ。
でも、その前にまずは腹ごしらえが必要だろう。不意に鳴った腹の虫に、岳登は椅子から立つ。大晦日らしく、カップ麺だが年越しそばでも食べようと思った。
(続く)
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