第37話 これからも映画館に
客席の間を七人の男女がスクリーンに向かって歩いていく。そしてスクリーンの真ん前に立つと、一人の男性がマイクを持って、客席全体に呼びかけるように告げた。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。こうして満席の客席を見ることができて、本当に感無量です。スタッフ一同、改めて御礼を申し上げます。本当にありがとうございます」
男性がそう言うと、七人は一斉に頭を下げた。葵座に勤めるスタッフ、その全員である。観客も再度拍手を送る。ミニシアターは人に左右される部分が大きい。葵座がここまで営業を続けてこられたのも、彼ら彼女らのおかげだ。
「それでは最後に、当館支配人である袖口から皆様にご挨拶がございます」
男性はマイクを、真ん中に立つ栞奈に渡す。受け取った栞奈は今一度頭を下げていて、観客は拍手で応える。顔を上げた栞奈は、早くも万感の思いが詰まったような表情をしていた。
「ご紹介に与りました長野葵座支配人の袖口です。改めてですが、皆さん本日は年末のお忙しい中、葵座に足を運んでいただき誠にありがとうございます。こうして満席の客席を見ることができて、私としても既に胸がいっぱいです。皆さん、今の映画はいかがでしたでしょうか? 最後は笑って終わりたいということで、この映画を選んだのですが、お楽しみいただけましたでしょうか?」
客席から三度拍手が送られる。それは手を叩いた全員が満足したことを示していた。
「ありがとうございます。皆さんにそう反応していただけると、私たちとしてもこの映画を選んだ甲斐がありました。これだけ葵座を思ってくれる観客の方が集まって、映画を楽しんでくれて、葵座としても有終の美を飾ることができたと思います。改めて感謝申し上げます」
訥々と語る栞奈に、観客の視線が集中する。
「当館は、皆様のような映画を愛するお客様によって支えられてきました。常連の方も、観たい映画があるからと一度だけ足を運んでくださった方も、私たちにとっては大事なお客様であることには変わりありません。今日ここに来てくださっている方だけでなく、用事があって来られなかった、でも葵座を気にかけてくれている全ての方に、私は一人ずつ感謝の思いを伝えたいです。今回の閉館は私としても残念ですが、私は後悔はしておりません。やれることは全てやりきったと感じています。そう思えたのも葵座に来てくださって、映画を観てくださった皆さんのおかげです。特に皆さんの映画を観た後の様々な表情には、私もずいぶん助けられてきました。それは満足げなだけではなく、特には困惑していたり、少し不満げだったり。そういった反応の一つ一つが、私を動かすエネルギーになりました」
栞奈の言葉は、確実に岳登の胸を打つ。今この場にいる全員も、きっと感じ入るものがあるのだろう。スクリーンにはいくつもの感情が揺らめいて、綺麗な光景だと岳登は思う。
「その上で、私から最後に二つ言わせてください。まず一つは、皆さんにはこれからも映画館に通っていただきたいということです。葵座はなくなってしまいますが、信濃劇場さんやグレートシネマズさんといった映画館はこの地域に残り続けます。それはもちろん経営を助けるためというのもありますが、それ以上に映画館でしかできない体験を皆さんにはし続けてほしいと私は感じています。もしかしたら今日のために、遠方から駆けつけてくださった方もいるかもしれません。そういった方も、地元にあるミニシアターや映画館を愛してあげてください。もちろん無理にとは言いません。だけれど、私は映画が、映画館という文化がこの先もずっと残っていってほしいと思っています。私が言うことではないかもしれませんが、皆さんこれからもどうかよろしくお願いします」
「そして」そう言葉を繋げる栞奈の表情は、晴れやかだった。当然胸にこみあげているものはあるのだろうけれど、それ以上に今日まで上映を続けてこられたという喜びが勝っているように、岳登には見える。
「葵座は本日で閉館してしまいますが、実はこの後一日だけ復活上映会を企画しています。日付は一月二六日の日曜日。上映作品はここ葵座をメインに、長野市の各所で撮影された『ミニシアターより愛を込めて』という映画です。実はまだ完成しておらず、現在監督自らが編集作業の真っ最中ですが、私が撮影を見学させていただいた限りでは、とてもいい映画になると感じています。ですので、皆さんよければその日は予定を空けておいてくださると嬉しいです。上映はその一回限りの予定で、これが葵座で映画を観る本当に最後の機会になりますので、お見逃しなきよう、心の片隅に留めておいていただけると幸いです」
栞奈の口から『ミニシアターより愛を込めて』の上映情報が知らされるのは今日が初めてだったから、スクリーンには小さなどよめきが起きる。噂話で映画のことはもう広く知られていると岳登は思っていたけれど、現実はそうではなかったようだ。小さくても起こったどよめきに岳登は何としても映画を完成させなければと、思いを新たにする。少しでも観た人の心に残るような映画を。
「私からの挨拶は以上になります。皆さん、もう外は暗く寒くなっていますので、気をつけてお帰りください。改めて、本日はお集まりいただきありがとうございました。そして、長い間葵座で映画を観てくださって本当に、本当にありがとうございました!」
栞奈がそう万感の思いを込めて口にすると、スタッフ全員が客席に向かって頭を下げた。観客も拍手でありったけの感謝をもう一度伝えていて、岳登は美しい光景だと感じる。誰に何を言われようとも、ここに集まった人間の混じりけのない気持ちだけは本物だろう。
拍手を送り続ける観客に、顔を上げたスタッフが笑顔で応えている。もっと涙溢れる湿っぽい空間になると思っていた岳登は、少し意外に感じつつも、悪い気はまったくしなかった。栞奈の言う通り、これはただの終わりではなくて「有終の美」だろう。
やがて拍手も終わって、観客も少しずつスクリーンを後にしていく。だけれど、岳登はしばらく客席に座り続けた。幾度となくお世話になった思い出深い場所からは、そう簡単には離れられなかった。
岳登が座席を立ったのは、栞奈の挨拶が終了して五分ほどが経った頃だった。葵座の空気を肺一杯に吸い込む。幸いながら、自分にはあともう一回だけ葵座を訪れるチャンスがあるのだ。そのことが岳登には嬉しくも、あと一回だけしかないと寂しくも感じられる。
拍手が終わった頃には混雑していた出口も、今は大分解消されている。出口に辿り着いた岳登は、スクリーンを振り返った。今座席に座っている人間はほとんどいない。スクリーンはただあるがままの姿でここにあって、閉館するという実感を岳登に強く突きつけている。満ちた静寂の中で、岳登は後ろ髪を引かれるかのように、開けっ放しのドアをくぐった。
静かなスクリーン内と違って、ロビーはまだ少し騒がしかった。まだ何人かの人が残っていて、名残を惜しむかのように会話を交わしている。まるで葬式の後のお斎で、故人の思い出話に花を咲かせるかのように。そして、壁際には栞奈を始めとするスタッフが一列に並んでいて、スクリーンから出てきた観客一人一人に、「ありがとうございました」と礼を言っていた。礼を言いたいのは、むしろ岳登たちの方だというのに。
岳登は一人一人に小さく頭を下げながら、真ん中にいる栞奈の前で立ち止まった。ここで二言三言話していきたい気持ちは岳登にもある。だけれど、岳登だけの都合で栞奈を呼び止めるわけにもいかない。岳登は数多ある想いを、「ありがとうございました」という短い言葉に込めた。栞奈も同じ言葉を笑顔で返してくれる。その表情に岳登は微笑みながらも、胸を締めつけられる。自分たちの言葉はどこか切なさを帯びていた。
スタッフ全員に見送られて、岳登はとうとう葵座の外に出る。外は暗く、かすかに吹く風が身を切るように寒く、あと数時間で今年も終わるという、忙しなさに満ちていた。
岳登は自転車に向かう前に、もう一度葵座を振り返った。建物には重ねてきた年月がはっきりと刻印されていて、誇らしく胸を張っているようにも、「もう疲れた」と言っているようにも見える。もうここへ気軽に来ることはできない。でも、今の岳登の心を占めていたのは、やはり「よく今日まで営業してくれた」という感謝だった。映画館が街にあることは、決して当たり前のことではない。
岳登は立ち止まったまま頭を下げた。敬意と感謝を無言で伝える。葵座がこの街にあったことは、間違いなく岳登にとっての誇りだった。
家に帰っても、岳登はすぐにまた編集作業には取りかかれなかった。むしろ葵座での余韻を噛みしめるためには、すぐにパソコンの前に向かってはいけないと感じていた。休憩がてら少しこたつに横になってみる。瞼の裏には葵座の姿が克明に浮かび、岳登を感傷的な気分に浸らせる。
一時間ほど経って、岳登は自分が眠ってしまっていたことに気がついた。でも、おかげで頭はすっきりと冴えている。岳登は自分の部屋に向かって、再びパソコンの前に腰を下ろした。編集作業を再開する。シーン順に編集して、現在は三分の一ほどが終わったところだ。この後もカラーグレーディングや音楽の追加、整音などの作業があるから、一日たりとも休んではいられない。
テレビも見ず、夕食の時間も先延ばしにして、ひたすら岳登はパソコンに向かい続ける。すると、部屋着のポケットに入れたスマートフォンが振動した。誰からの電話だろうかとスマートフォンを確認すると、画面には「袖口さん」と表示されていた。岳登はヘッドフォンを外して電話に出る。耳に飛びこんできたのは穏やかな栞奈の声と、小さく聞こえるテレビの音だった。
「もしもし、袖口です。成海さん、今お時間大丈夫ですか?」
(続く)
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