第36話 最後の日



 百貨店の店先に立てられたクリスマスツリーは、クリスマスが終わると同時に撤去された。外に出れば歳末大売り出しセール。テレビを点ければ年末の特番の合間に、年賀状や自動車の初売りのCMが流れる。


 だけれど、岳登はそのどれにも目をやることなく、家にいる間はずっと編集作業に明け暮れていた。ショットを選んで繋ぎ合わせ、シーンを構成していく。少しずつだが、映像が映画の形を帯びてくる。


 会社は二九日で仕事納めとなったから、その翌日は岳登は一日中、編集作業を行うことができた。睡眠を三時間で済ませ、朝の六時からパソコンへと向かう。ひたすら撮影の時に作ったコンテも参考にしながら、キーボードを叩き、マウスを動かす岳登。今日から年が明けた三日までは、年末年始休みで仕事はない。だから、一日中家にいられるこの期間に少しでも編集作業を進めておく必要があった。


 だけれど、翌日の大晦日、一二月三一日となれば話は違う。岳登は編集作業を午後の三時で切り上げ、二日ぶりに外に出た。自転車を走らせて、岳登は葵座に辿り着く。葵座には撮影が終わってから、一度も来ていなかったのだが、さすがに今日は来ない選択肢はない。


 今日、一二月三一日は葵座が閉館する、一〇二年の歴史に幕を下ろすまさにその日だった。


 到着したころには、上映開始二〇分前だというのに、チケット売り場には長蛇の列ができていて、閉館を惜しむ人々の多さを岳登に知らしめていた。寒空の下こうして待っているということは、それだけ葵座が地域に根付いていた証拠だ。


 だけれど、岳登は列に並びながら、普段からこの一割でもいいからもっと多くの人間が葵座に来てくれれば、もしくはカンパやクラウドファンディングに協力してくれていれば、葵座は改修工事のための資金を用意できて、閉館を回避できたかもしれないと思ってしまう。


 でも、そうした思いは胸に押しこめたまま、岳登はただコートのポケットに手を入れて、列が進むのを待った。葵座に少しでも早く入って、一秒でも長く中にいたかった。


 寒さに震えながら、列が進むのを待ち続けていると、辛うじて上映開始三分前に岳登はチケット売り場まで辿り着く。その映画の名前をスタッフに言うと、岳登はどこかむずかゆい感覚を感じた。会員価格でチケットを購入し、岳登は正面の一番大きいスクリーンに向かった。開いたままの扉をくぐって中に入る。既にスクリーンの座席は、ほとんど満席と言っていいほど埋まっていた。どこを見ても人の頭が見える。おそらくめったに使われるない二階席も、かなりの割合で埋まっているだろう。


 映画の開始を今か今かと待つ雰囲気は、岳登が経験したことがないほど騒々しく、普段あまり葵座に来ない人も多く詰めかけていることが想像できた。


 岳登は中央部の通路寄りに空いている席を見つけて座る。じっと座って葵座の雰囲気を感じていると、あっという間に上映開始時間になる。でも、映画はすぐには始まらない。岳登の後ろにも何人か並んでいて、観客全員を入場させる必要があるためだ。岳登はスクリーンに目を向けながら、葵座にいられる時間をぐっと噛みしめていた。


 映画は予定時間よりも七分遅れで始まった。館内が暗くなるとまずマナーCMが流れる。猫のキャラクターが身振りと鳴き声で注意事項を知らせるこのマナーCMは、葵座だけの名物だ。他のどの映画館でも流れていない。だからこそ、今日で見納めとなってしまうマナーCMを、岳登は目に焼きつけた。今まで幾度となく見てきた、その感謝を心の中で呟いた。


 マナーCMが終わると、スクリーンの中にはライトが灯され、スピーカーからは管楽器の盛大な音が鳴り響く。配給会社の提供だ。映画ファンにはすっかりお馴染みのこの映像も、昔と今では社名が変わっている。今、観客が見ているのは旧バージョンだ。旧作のリバイバル上映でもなければお目にかかれないこの提供に、岳登の心は波立つ。豪華な音楽が、これから始まる映画への期待を大きく煽っていた。


 暗い画面に、ベルの音が響く。キャストやスタッフが白抜き文字でクレジットされていく、そのオープニングは岳登にとっては見覚えがあるものだった。青い文字でタイトルが表示されると、いよいよだという思いが胸にこだまして、岳登は少し背筋を正す。


 クリスマスシーズンにはよくテレビ放送もなされる人気映画。それは岳登が智紀に連れていってもらった、生まれて初めて映画館で観た映画だった。室内が映されると、岳登には一気に懐かしさが押し寄せてくる。家族が騒がしくしているスタートだけで、既に胸には様々な思いが去来する。


 4Kコンバートもデジタルリマスターもされていない映像は、若干の粗さを帯びていて、それがかえって岳登を童心に返らせた。存在感が希薄な主人公に、初めて観た時と同じように共感してしまう。日本語に吹き替えられた声も記憶していたそのままだ。世間にも広く浸透している映画だからか、観客も心なしかリラックスしてスクリーンを見つめている気がする。最後だからと気負った雰囲気は、本編が始まった瞬間に吹き飛んでいた。


 満席のスクリーンで観客全員の目と心を引きつけながら、映画は進んでいく。旅行に行ってしまう家族の中で、一人家に取り残されてしまう主人公。寂しげに過ごす姿はテレビで見ていたら何となく流してしまうかもしれないけれど、映画館という簡単には席を立てない空間が、岳登に主人公との同化を促した。主人公の家を狙おうとする強盗にも、まるで初めて観るようにハラハラしてしまう。


 もちろん岳登はこの映画が見事強盗を撃退し、ハッピーエンドを迎えることは知っている。でも、その上で岳登の胸は高鳴っていた。それは久しぶりの鑑賞で細部を忘れているから以上に、映画と自分を一対一で向き合わせる映画館という場の力が大きいだろう。いくらでもながら見が可能な家とは違って、映画館で映画を観るという行為は、岳登にとって映画や作り手と対話する意味合いも帯びていた。たとえそれが錯覚にすぎないとしても、その感覚はスマートフォンやパソコンで映画を観ているときには得難いものだ。だからこそ映画館が一つなくなってしまうことに、寂しさを感じずにはいられない。岳登は今だけは、映画を観ることだけに集中することはできなかった。


 それでも映画は進むにつれて、盛り上がりを帯びていく。強盗から家を守る決意をした主人公が次々と罠を仕掛けていく様子が、テンポよく映される。そして間抜けな強盗は、まんまと主人公が仕掛けた罠にはまってしまうのだ。凍った階段にリアクション芸人かと見間違うくらいに派手にずっこける。羽毛まみれになり、ペンキの缶に頭をぶつける。その痛快な様子に客席からはいくつもの笑い声が漏れた。暗がりに閉ざされたスクリーンは、ユーモアを何にも遮られずに、直接届けてくれる。客席はリラックスした雰囲気に包まれ、笑いは雪だるま式に大きくなっていく。岳登はそれを迷惑だとは感じなかった。今ここにいる大勢の観客が思わず笑ってしまうほど、映画を楽しんでくれているのなら、それに勝るものは何もない。岳登も小さくだが微笑むことができる。


 でも、その一方で岳登が抱く寂しさも、少しずつだが大きさを増していっていた。葵座で上映される映画は、この映画で最後だ。この映画が終わったら、葵座は本当に閉館してしまう。映画が終わってほしくない。このまま何時間でも続いてほしいとさえ、岳登は思う。でも、寂しく思う気持ちの一方で顔は笑顔で、岳登は一言では言い表せない感情に包まれていた。こんな感覚を抱きながら映画を観ることは、もう二度とないだろう。スクリーンに生まれる一体感も含めて、自分は稀有な経験をしていると岳登は強く自覚していた。


 強盗は逮捕され、家族は戻ってきて、映画は誰もが予想できたハッピーエンドで終わる。エンドロールが流れる頃には、スクリーンには良い映画を観たという満足感が漂っていた。人気映画は誰が観ても面白く感じるから人気映画なのだと、岳登は改めて思い知る。


 でも、それはスクリーンに流れる空気の半面を表現しただけで、もう半面は本当に終わってしまうという、焦りとも不安とも言えない感情で覆われていた。キャストやスタッフ、一人一人の名前が現れ出ては消えていく。その様子が葵座の閉館に向かって足音を刻んでいるようで、岳登にとっては気が気ではない。同じように感じている観客は他にもいたのか、前後左右から心なしか神妙な空気が発生している。様々な思いや感情が混ざり合ったスクリーンの雰囲気は、誰にとってもめったに味わえないもので、岳登は時間が過ぎるのが凄く早くも、とても遅くも感じられた。つまり平常心ではいられなかった。


 映画が終わる。客席に明かりがつく。すぐに席を立とうとする者は一人もいなかった。誰からともなく拍手が発生し、それはスクリーン全体に波及する。今観た映画だけでなく、一〇〇年以上もの歴史の中で上映されてきた全ての映画に、そして何より長野葵座という場自体に純粋な感謝を伝える大きな拍手だ。当然、岳登としても手を叩かない理由がない。誰もが強制されることなく、自発的に拍手しているようで、岳登の胸にはやりきった感覚が芽生える。寂しさの一方で、清々しさも抱いた。


 拍手は一分やそこらで終わらずに、まるで海外の映画祭でなされるスタンディングオベーションのように何分間も続いた。でも、どれだけ手を叩いても、葵座が積み上げてきた歴史の偉大さには足りないと岳登は思ってしまう。


 一〇〇年という時間の重みを、岳登は今改めて肌で感じていた。


 ずっと続きそうだった拍手は、一人また一人とやめていき、次第に小さくなってやがて完全に鳴り止んだ。一瞬訪れた静寂は、終わりを観客に今一度突きつける。だけれど、観客は誰一人として席を立つことはなかった。それは名残を惜しむという意味もあったが、まだ葵座が完全には終わっていないことの証でもあった。



(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る