第35話 チャンスは誰しもに
栞奈から電話を受けてから、五日が経った。駅前の百貨店の店先にはクリスマスツリーがそびえたち、街にはどこか浮足立った雰囲気が流れている。
でも、それを感じるのは屋外に出ての話で、会社とたまにコンビニエンスストアに行く以外はずっと家にこもっている岳登にはあまり関係がなかった。岳登は来る日も来る日もパソコンにかじりつく。ほとんどの時間を画面を見たまま過ごしているから、目は少しずつ疲れてきて、昨日から目薬を使うようにもなっている。 でも、その甲斐あって編集は少しずつだが進み始めていた。ショットとショットを、ドラッグアンドドロップで繋ぐ。長い道のりを一歩一歩でも前に進んでいる実感が、今の岳登を動かしていた。
カーソルを動かす。二つのシーンを一つに繋ぐ。プレビュー画面で繋いだ動画を見終えたとき、岳登はようやく一息つくことができていた。ひとまず最後のシーンまで繋ぎ終えて、一本の映画の形にすること自体はできた。だけれど、当然まだ完成ではない。今まで岳登が作っていたのは、粗編と呼ばれる映画の事前編集だ。一目見ただけでシーンの概要が分かるマスターショットを、ただシーン順に繋げたにすぎない。尺は二時間以上あるし、何の工夫もない単純な映像だ。だけれど、編集の方向性を確認するためには避けては通れない段階で、ここからショットを選択して繋げたり、シーンを短く削ったりと、ようやく本格的な編集に入っていくのだ。
でもその前に、岳登はひとまず買いだめしておいたカップラーメンで夕食を摂ることにした。パソコンの電源を切って、椅子から立ち上がろうとする。その瞬間画面の左下に現れた通知が、一件のメールを受信したことを知らせた。
発信者の名前は「富士川叶」。紛れもない『ミニシアターより愛を込めて』の音楽担当者だ。メールの件名は「シーン49劇伴修正案について」。岳登は再び椅子に座り、そのメールを開く。「先日連絡をいただきましたシーン49の劇伴について、修正案をお送りいたします」との文章の後に、簡単な修正に当たってのポイントが書かれており、メールの下には拡張子WAVでファイルが一通添付されていた。岳登はさっそく、「シーン49修正案」と名付けられたファイルを開いて再生する。
すると、ヘッドフォンを通して聴こえてきたのは、ピアノを基調としたしっとりとしたメロディだった。落ち着いた雰囲気をかすかに鳴るシンセサイザーが下支えしていて、岳登には映像にこの劇伴が乗っているところを容易に想像できる。
シーン49は、映画の中でもクライマックスに当たる極めて重要なシーンだ。だから、大いに盛り上げようと最初に叶が送ってきた案では、もっとストリングスやブラスなども鳴っていたのだが、岳登はそれをあまり好ましくは感じず、「もっと音数を減らしてほしい」という修正依頼を送っていたのだ。
その意図が伝わったのか、叶は岳登が依頼した通りに修正を施してくれていて、岳登は胸がすく思いがする。イメージ通りの劇伴を送ってもらって、岳登としては返事は一つしかない。メールの返信ボタンを押して、メッセージを入力しようとする。
だけれど、岳登はそこで手を止めていた。もっと直接的な方法で感謝を伝えたい。岳登はスートフォンを手に取る。叶のラインは『青い夕焼け』のときに交換していて知っていた。
〝この度は、シーン49の劇伴の修正案を送っていただいてありがとうございます。とてもシンプルになっていて、シーンの意味が引き立ついい劇伴だと感じました。これでOKとさせてください。修正ありがとうございました〟
夜遅くのラインでも既読はすぐについた。立て続けに返信も送られてくる。
〝こちらこそ、OKありがとうございます。私としても成海さんにヒントをいただいて修正したところ、より好きな劇伴になりました。実際に完成映像を見るのが楽しみです〟
〝僕も富士川さんに劇伴をいただいて、より良いシーンになると確信しています。そのためには編集をがんばらないといけないんですけどね〟
〝そうですね。成海さん、今って編集はどれくらい進んでいますか?〟
叶は栞奈と同じように進捗を尋ねてきたけれど、それは映画に関わった者なら誰でも当然気になることだろう。だから、岳登もありのままを伝える。
〝今は粗編が完成したところです。これから本格的なシーンの編集に入っていきます〟
〝そうですか。少しずつでも進んでいるようで何よりです。上映会には間に合いますか?〟
〝何としてでも間に合わせます。そのときには富士川さんも葵座に来てくださいね〟
〝もちろん伺わせていただきます。もとよりその日は予定を空けてありますから〟
〝ありがとうございます。富士川さんが作曲してくださった劇伴を映像と一緒に届けられるように、僕も最大限努力します〟
そう岳登が送ると、叶もデフォルメされたペンギンのスタンプで反応してきた。黄色い文字で書かれた「がんばれ!」という言葉に、岳登はささやかに励まされる。
やり取りを終えて、岳登は一階のキッチンへと向かった。カップラーメンを食べるためにやかんを火にかける。湯が沸くまで待っている間、岳登は再びスマートフォンを取り出した。
するとその瞬間に、叶から再びラインが送られてきた。〝ちょっとお話してもいいですか?〟との文面を見て、岳登はもう一度ラインを起動する。
〝どうかされましたか?〟
〝これはまだ正式に決まったわけではないんですけど、今日新たに映画の音楽を担当してほしいとお話をいただいたんです〟
〝凄いじゃないですか!〟ラインは岳登の心情をそのまま反映していた。詳細を聞く前から素直に喜びが芽生える。
〝ちなみに、どなたの映画なんですか!?〟と加えて尋ねる。少しして叶が返してきたラインは、岳登の想像を大きく超えていた。
〝
その名前に、岳登は声が出そうになるほど驚いてしまう。宮腰監督の映画となれば、多くのシネコンで上映されるような規模の大きい映画に違いない。そんな映画に叶が参加するかもしれないとは。
とはいえ、今の叶の状態を考えれば、不思議なことではないと岳登は思い直す。叶は『青い夕焼け』に参加したキャスト・スタッフの中では一番の出世頭だ。『青い夕焼け』の次の次に音楽を手掛けた映画が、インディーズ映画にも関わらず興収二億円超えのヒットを飛ばし、それを機に商業映画にも参加するようになっている。いくつもの映画の音楽を手がけ、着実にキャリアを積み上げている叶の名前を、岳登は今年だけでエンドロールで二回も見たくらいだ。だから、忙しいのは分かっていたし、出したオファーもダメでもともとぐらいの気持ちだった。なぜこんな規模の小さい映画の依頼を引き受けてくれたのかが若干不思議に思えるほど、叶は売れっ子の映画音楽家になっていた。
〝凄いじゃないですか! 宮腰監督と一緒に仕事ができるなんて! 羨ましいです!〟
〝それは私も分かっています。宮腰監督と仕事ができるのがどれだけ光栄なことなのか、重々承知しているつもりです。実際、私もお話をいただいたときにすぐに参加したいと感じました。ただ、〟
〝ただ?〟
〝いざ冷静になってみると、どこか怖気づいている自分もいたんです。その映画は何億円もの製作費をかけた本当に大きな映画で。そこに私が作った劇伴が使われると思うと、少し怖くなってしまったんです。私はその規模の映画に見合う音楽が作れるのだろうか、と〟
叶が抱いている不安は、正直岳登にはにわかに想像し難いものだった。岳登だって東京にいた頃に、宮腰監督の現場に参加したことはある。サード助監督だったとはいえ、撮影前は漠然とした不安を感じていた。でも、それを今の叶の不安と安易に比べることはできないだろう。簡単に「その気持ち分かります」と返信することは、岳登には憚られた。
〝正直、富士川さんが抱えている不安の大きさは僕には分かりません。新しい作品に参加するときは誰もが大なり小なり不安なものですけど、僕はそれだけ大規模な映画に参加したことはないので。でも、それを承知の上で言わせてもらうと、僕は富士川さんにその映画の制作に参加してほしいと思っています〟
〝当然、私も参加したい気持ちはあります。でも、「よろしくお願いします」と返事をしたいのに、まだ迷ってしまっている自分がいて……〟
〝確かに迷うのも無理はないと思います。僕だって同じような話をいただいたら、きっと迷うでしょうし。でも、たらればの話になりますけど、もし僕が富士川さんの立場だったら、最終的には参加していると思います。これは富士川さんがさらに飛躍するチャンスで、チャンスは誰しもに平等に与えられるものではありませんから。僕は富士川さんに、その大きなチャンスを逃してほしくないです〟
〝成海さんの言う通りだとは私も思います。今回のお話は、私がこれからも映画音楽を続けていけるかどうかの一世一代の機会だということも、重々承知の上です。でも、だからこそ簡単に返事はできません。ここで不評を買ってしまえば、この先私は映画業界で仕事ができなくなってしまうかもしれませんから〟
〝おっしゃる通り、そのリスクも完全にないとは言えません。でも、やる前から上手くいかなかったときのことを考えてもしょうがないじゃないですか。それに迷っていられるだけで僕には羨ましいですよ。僕は長野に帰るときに、いただいていたいくつかのお仕事を全て断って帰りましたから。そこに選択の余地はありませんでした。長野に帰ったことを後悔してはいないですけど、僕みたいにせっかく話をいただいて、どれだけやりたくても、やむを得ない事情で断わらざるを得ない人間もいるんです〟
〝確かにそれはそうですけど……。でも、本当に私で大丈夫なんですかね?〟
〝大丈夫ですよ。何の保証にもならないかもしれないですけど、僕はそう断言できます〟
岳登がそう送っても、叶はすぐに返信をすることはなかった。率直な気持ちを伝えたはずだが、もしかしたら的外れなことを送ってしまったかもしれないと岳登は若干焦る。
そうしているうちにやかんは沸騰し、岳登は湯をカップラーメンに注ぐ。出来上がるのを待っている間も、なかなか叶から返信は来ず、岳登はやきもきしていたが、その微妙な時間はふとした瞬間に終わりを告げた。
〝ありがとうございます。この話を打ち明けたのは成海さんが初めてだったので、こうやってラインでやり取りできて少しすっきりしました。とはいえ、すぐに「はい、やります」とは言えないんですけど、でもちょっと前向きに考えてみたいと思います〟
叶から送られてきたラインに、岳登はほっと息をつく。自分が叶の不安を軽減することに少しでも役に立てたのが嬉しかった。
〝そうですね。僕も期待しています。それと最後にエンドロールに流す一分半程度の音楽、来週中までにお願いします〟と送ると、叶からも〝了解です。気合入れて作ります〟と返ってくる。間もなくして送られた、目に炎を宿している猫のキャラクターのスタンプに、岳登の頬も自然と持ち上がった。
叶は最後にどんな音楽を用意してくれるのか。岳登は自然と楽しみに思っていた。
(続く)
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