第34話 私だって本当は
仕事が終わって家に帰るやいなや、岳登はさっそくノートパソコンの前に座っていた。電源をつけると、画面は編集ソフトを映し出す。上半分は三分割になっていて、左に素材を読み込んで配置する画面、右に素材を表示するモニター、真ん中にはカットの始まりと終わりを指定して、素材をトリミングする画面が映っているが、今はまだそれは使わない。
岳登は一つ息を吐くと、シーン1から素材を編集ソフトに読みこんだ。モニターには長野駅の実景が映る。心の中で「よし」と呟いて、岳登はキーボードのLのキーを押した。Lのキーはショートカットキーになっていて、画面は再生を始める。
目に見える形の編集が始められるまで、クランクアップしてから既に四日が経っていた。
とはいえ、今日までの三日間を岳登は、ただ漫然と過ごしていたわけではない。現代は映画の編集はパソコンで行われる。ということは当然だが、まずパソコンにデータを読みこませる必要があるのだ。動画データは容量が大きく、岳登たちが撮影した素材は十数時間にも上ったので、データの読み込みには丸一日かかってしまっていた。
さらに、撮影された順番はバラバラで、大雑把に分けても映像と音のファイルがそれぞれあるので、編集がしやすいように整理する時間も岳登には必要だった。シーン順に並び変えたり、いくつものフォルダを作って参照しやすいようにする。その作業にも、岳登は丸一日を費やしていた。
さらに、編集はまだ開始できない。動画データは膨大で、編集のためにそれをいちいち読みこんでいたら、時間がかかって仕方ない。だから、編集のためにファイルを圧縮しなければならないのだ。当然、全てのファイルを圧縮するためにはそれなりの時間がかかり、この工程だけで一日が終わってしまったほどだ。だから、クランクアップからの三日間は、編集の下準備に当てられていた。
岳登は停止のショートカットキーを押す。そして、カーソルをドラッグして二つのファイルを重ね合わせた。映画の編集作業と言えば、ショットとショットを繋げて一つのシーンを作ると思われがちだが、実はその前にも段階がある。映像と音の同期だ。映像はカメラで、音はマイクで、つまり別々のファイルで撮られているから、それを一つに重ね合わさなければならないのだ。では、どうやって同期させるのかというと、ここでテイクごとに篠塚が打っていたカチンコが活きてくる。
画面の下半分はファイルごとのタイムライン、収録された音を波形にしたものが映っている。カメラに内蔵されているマイクと、伴戸が掲げていたガンマイクや俳優の襟元についていたピンマイク。それら二つの音の波が、同じタイミングで大きく揺れている箇所がある。カチンコが鳴らされた箇所だ。そこを合図にして映像と音をワンテイクずつ重ね合わせていくのだ。
同期を進めていく岳登。何度もカチンコが打ち鳴らされる音を聞く。その度に岳登には、撮影していたときの記憶が思い起こされる。撮り終わって数日が経つというのに、まるで昨日や今日のことのように新鮮だ。それくらい濃密な時間だったと岳登は胸を張って言うことができる。撮りきったスタッフやキャストのことを、改めて誇らしく感じる。同期をするのは言ってしまえば単純めいた作業だが、それでも心なしか楽しんで行うことができる。
でも、それは今だけで、スタッフやキャストの思いが詰まったカットを削ることは、きっとその度に身を削るような痛みを心で味わうのだろう。でも、それは映画を完成させるためには避けては通れない作業だ。岳登はショットを編集するときのことも考えながら、同期作業を続ける。パソコンに向かっていると時間はあっという間に過ぎて、腹の虫が鳴った頃には、時計は夜の一〇時を回っていた。
撮影が終わってから初めて迎えた土曜日は、空は晴れ渡り、気温も一〇度を上回るほどに上がって、外に出るには格好の天気となっていた。年末の書き入れ時ともあって、シネコンでは洋邦の大作映画や人気アニメの劇場版が昨日から公開されていたし、葵座や信濃劇場でも単館系の魅力的な映画が上映されている。
それでも、岳登は自宅にこもって、パソコンで映画の編集作業を続けていた。引き続き、映像と音との同期作業に勤しむ。既に二日を費やしたとあって、同期作業は既に三分の二以上が終わりつつあった。多くの時間で、パソコンにかじりつき続ける。そうして全てのテイクの同期作業が終わった頃には、時刻は四時半を回って、外はかすかに暗くなり始めていた。
ラストシーンの同期作業を済ませて、岳登は椅子に座ったまま身体を伸ばす。大きく息を吐くと、一つの作業が完了した実感がした。
本当は今すぐにでもショットとショットを繋ぐ編集作業を始めたいところだが、朝からずっとパソコンに向かいっぱなしで、岳登の身体は少し疲れてきてもいた。特に目に疲労がたまっていることは実感できたので、少し休む時間も必要だろうと、岳登は椅子を立って布団に横になった。それでも、疲れているはずなのに目や頭はまだ冴えてしまっていて、岳登は横になりながらも悶々とした時間を過ごす。横になり続けて、時間が過ぎるのを待つ。
だけれど、耳に入ったスマートフォンの着信音に、岳登は目を開けてしまう。画面に映った発信者の名前は、「袖口さん」だ。岳登はスマートフォンを手に取って、起き上がる。電話越しに聞こえてきた栞奈の声は、どこかくぐもっているように岳登には聞こえた。
「もしもし、成海さん。今、お電話大丈夫ですか?」
電話越しにだけれど、栞奈が少し取り繕っているように思えたから、岳登の返事も「は、はい。大丈夫です」とややためらいを含んだ調子になってしまう。栞奈が安堵したように息を吐いたのが分かったから、栞奈の心情を岳登はそれとなく探りたくもなった。
「映画の編集の調子はいかがですか?」
「はい。今ショットを繋げる前段階の、映像と音の同期作業が終わったところです。別々に撮った映像と音を重ね合わせなければ、ショットの編集もできないので。あっ、でも心配しないでください。今のところ編集は順調に進んでいますから。これからの作業次第ですけど、上映会の日には何とか間に合わせます」
「そうですか。順調なようで何よりです。私はよく知らないですけど、葵座に舞台挨拶に来てくださった監督の方たちから、編集は大変で時間もかかると何回か聞いていますから。それを全て一人で、しかも平日は別の仕事をしながら行っている成海さんには、私も頭が下がる思いです」
栞奈の言葉に嘘はなさそうに岳登には思える。だけれど、同時に声の調子が少し沈んでしまっていることも、岳登は感じてしまう。
やはり何かあったのではないか。心配する気持ちは抑えきれず、気がつけば声となって出てしまっていた。
「あの、袖口さん。どうかされたんですか?」
「どうかされたとは?」
「いや、声に少し元気がないように思われて。僕の思い過ごしだったらいいんですけど、何かあったんじゃないかなって」
岳登が尋ねると、栞奈は一瞬だけ言葉に詰まった。電話では束の間の沈黙が、何倍にも増幅されてしまう。少しして「成海さん、これはまだ誰にも言わないでくださいね」と栞奈が言うから、岳登は息を呑むしかできなかった。
「以前、東京の方の会社とお話をしていると言いましたよね。実は今日、その会社の会長さんがわざわざ長野までいらしてくれたんです」
栞奈が切り出した話に、今度は岳登が言葉に詰まる。絞り出した頼りない返事は、胸に芽生えた嫌な予感を隠せてはいなかった。
「今日、駅前のワークスペースで話をして、正式に決まりました。来年二月一日をもって、葵座の土地はその会社、ESPグループに所有権が譲渡されます。そして、同じ週から葵座の取り壊し工事が始まって、跡地にESPグループの新オフィスが建設されます」
その事実を聞いた瞬間、岳登は自分の身体が硬直するような感覚を味わった。東京の企業と話していると言われた時点で、こうなることは岳登にだって予想できた。先の撮影中も、頭の片隅ではずっと取り壊しになる可能性が存在し続けていた。
だけれど、いざ告げられた現実は岳登の心構えを簡単に凌駕し、粉々に打ち砕いた。映画を作る意義さえ一瞬揺らいでしまう。岳登はただうなだれる。「そうですか……」とどうにか発した返事は、図らずとも諦めの色を帯びてしまっていた。
「はい。私としても残したい気持ちはあったのですが、やはり老朽化した建物をいつまでも残していくわけにはいかず……。取り壊し工事の費用も、全額ESPグループさんが出してくださるということで、私たちとしても拒否する理由はありませんでした」
「そうですか……。正直納得はできてしまうだけに、余計残念です。あの、その上で一つ気になることがあるんですけど」
「はい。何でしょうか?」
「その会長さんは、葵座の姿を一目でも見ていかれたんですか?」
「はい。話をする前に一度見ていただきました。外から見るだけじゃなく、ちゃんと中にも入って。昔ながらの趣を残した素敵な映画館だと言ってくださいました。この土地をいただいて新たにオフィスを建てるからには、それに見合った仕事をしていかなければならないともおっしゃっていました」
素敵な映画館だと思うなら、土地と一緒に運営権も引き受けて、改修工事の費用も出してくれればよかったのに。岳登はそう思ってしまう。地域の文化拠点であるミニシアターを存続させるよりも、ビジネスのために新たなオフィスを建てることを優先させることを、寂しいと感じてしまう。だけれど、どこに価値基準を置くかは人それぞれだし、それを否定できる謂れも岳登にはなかった。
それでも、行き場のない思いが言葉に乗って現れ出る。
「……袖口さん、正直、僕は悔しいです。葵座の存在価値が本当の意味で、その会長さんに認めてもらえなかったことが悔しくてたまりません」
岳登がそう吐露すると、電話口にはまた沈黙が降りかかった。
「……そんなの、私だって本当は悔しいですよ。改修工事ができて、葵座がずっと続いていく方がよかったに決まっています。でも、世の中には生きていくうえで、映画がさほど必要じゃない人だって大勢いるんです。日本人の三人に一人は一年で一回も映画館に行かないですし、それがミニシアターならなおさらです。私もお聞きしたんですけど、その会長さんもそういった人でした。人は価値が分からないものに、そう簡単に何百万円というお金は出せません。本当に悔しいんですけど、これが現実なんだって今日思い知らされました」
栞奈の言葉には悲しい実感がこもっていて、心から打ちのめされたことが岳登には分かってしまう。ミニシアターには縁のない人間の方がずっと多い。当たり前の事実を改めて突きつけられて、目が眩んでさえしまいそうだ。返す言葉さえ見当たらない。
「そんな……」と辛うじて出た声は、ひどくくぐもっていて重たかった。
「はい。ですから、成海さん。改めてですけど、何としても映画を完成させてくださいね。葵座はなくなってしまいますけど、それでも完成した映画の中にはずっと残りますから」
栞奈の言葉は岳登には、期待よりもプレッシャーに感じられた。正直、映画が完成するまでの道のりはまだまだ遠い。でも、重圧に押しつぶされている場合ではないだろう。
岳登は努めて声を奮い立たせる。関係者全員の思いが詰まった映像を、映画の形にしないなんてありえない。
「もちろんです。たとえ這いつくばってでも、血反吐を吐いてでも、絶対に上映会までに映画を完成させます。この映画に関わってくれた全ての人たちの思いに報いるために。葵座の姿を未来に残すために。それが今僕にできる最大の恩返しですから」
電話では自分の表情は伝わらない。だから、岳登は目いっぱい声に力を込めた。言葉にすると自分で退路を断っているようで、少し恐ろしくも感じられたけれど、今はもうそんなことを言っている場合ではない。岳登には映画を完成させる使命があるのだ。
「はい。私も完成した映画を観るのを楽しみにしています。でも、あまり無理はしすぎないでくださいね。がんばりすぎて身体を壊してしまったら、元も子もないですし、かえって完成は遠のいてしまいますから。ちゃんと適度な休憩を取りながらやってください」
「もちろんです」岳登ははっきりとした口調で頷く。栞奈が自分の心配をしてくれることがありがたかった。
「では、私からは以上ですが、成海さんからは何かありますか?」
「いいえ、ありません」
「そうですか。では、成海さん。改めてですが、引き続き編集をよろしくお願いします」
岳登が返事をすると、それを最後に電話は終わった。葵座が取り壊されてしまうのは、悲しいという言葉ではとても片づけられない。自分の身体を殴打されたような痛みを感じる。
だけれど、悲嘆に暮れている時間も、茫然自失としている時間も今の岳登にはなかった。
布団から起き上がって、再びパソコンに向かう。再度電源を入れて、同期したファイルをインポートし、岳登はショットの編集作業を始めた。じっとパソコンの画面を見つめ、手を動かす。岳登には映画を完成させることが、今の自分の一番の存在理由になっていた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます