第33話 いい現場だったと



 現場に緊張の糸が張り詰める。俳優部、撮影部、美術部。現場にいる全ての人間がかつてないほど集中して撮影に臨んでいるのが、岳登には手に取るように分かる。


 モニターには夕帆のクローズアップショットが映る。シーン37、ショット5、テイク2。なんてことのない会話シーンを、夕帆は自然体に、それでものめり込むように演じていて、このシーンに対する意気の大きさを岳登に思わせた。岳登はじっとモニターを見つめ続ける。現場である葵座の隣のオフィスには、今いる全てのスタッフとキャストが揃っていた。


『じゃあ、美里さんは本当にこの葵座が好きなんですね』


 最後のセリフを言う夕帆。完成した映画では、ここで恥ずかしげに微笑む椎菜の切り返しショットが続く予定だ。だから、微笑んでいる椎菜をイメージして、夕帆もかすかに頬を緩めてみせる。岳登は数秒置いてから、高らかに告げた。


「カット!」


「はい、カット!」


 篠塚が岳登の声を現場全体に伝える。張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩む。


 全員の視線が再び岳登に集まった。最初の頃には感じていた胃が縮むような心地も、今は感じない。岳登は一つ息をする。そして、目元を緩めると万感の思いで口を開いた。


「OK!」


 岳登が言うと、スタッフやキャストに笑顔が広がった。緊張は一気に歓喜に姿を変える。


「では、このカットOKです! このシーン埋まりで、金子舞役・大滝夕帆さん、並びに工藤美里役・鳩ヶ谷椎菜さんは、ただいまのシーンをもってオールアップとなります! ありがとうございました!」


 誰からともなく拍手が発生した。労を労われて、夕帆たちは照れくさそうに頭を下げている。それを見ながら、岳登は篠塚の次の言葉を待った。聞きたくて仕方がないような、でもどこか聞きたくないような、そんな言葉を。


「そして、ただいまのシーンをもちまして成海組『ミニシアターより愛を込めて』はクランクアップとなります! 皆さん、ありがとうございました! 本当にお疲れ様でした!」


 篠塚の声には無事撮り終えることができたという実感が、十分すぎるほど込められていた。「お疲れ様でした!」と答えるスタッフやキャストの声もどことなく嬉しそうだ。


 数秒前までの緊張が嘘だったかのように、弛緩する現場の空気。でも、岳登はそれを少しも悪いとは思わない。自然発生した拍手に、岳登も乗っかった。手を叩いていると、溜まっていた全ての疲れがゆるやかに溶けていくような感覚がした。


「それでは、私どもスタッフからキャストの皆さんにプレゼントがあります!」


 撮影が終わってもすぐに撤収は始まらず、篠塚の呼びかけで、夕帆たち俳優部はカメラの前に一列になって並んでいた。事前に何も知らせていないから、予想外の展開にかすかに色めき立っている。


 四人が並び立ったところで篠塚が「では、お願いします」と無線に呼びかける。するとすぐに葵座で待機していた栞奈と市原が室内にやってきた。二人の登場に、四人は驚いた表情を浮かべている。それは二人が、手にささやかな花束を持っていたからだろう。バラやトルコキキョウ、ガーベラを中心とした黄色い花束が目に鮮やかだ。


 でも、これは岳登たちが用意したものではない。映画の撮影ではクランクアップ時に俳優に花束を贈るのはままあることだが、もともと今回の予算には組み込まれておらず、渡す予定もなかった。撮り終わって、軽く打ち上げをして解散。そうならなかったのは、ひとえに栞奈のおかげに尽きる。この花束は栞奈が自費で用意したものだった。


「キャストの皆さん、本当にお疲れ様でした!」


 そう言って栞奈と市原、さらに岳登と篠塚が、それぞれ目の前に立つキャストに花束を贈る。岳登の目の前の夕帆は、受け取って満面の笑みを見せていて、撮影の疲れをまったく感じさせなかった。


「では、俳優部の皆さんからクランクアップを迎えた今の気持ちを、一言ずつお願いします」


 篠塚が一番近くにいた仁川に感想を振る。仁川はさすがベテランとだけあって、急な展開にも落ち着いた挨拶で対応していた。椎菜は「もっとスケジュールに余裕があれば、なおよかったですけど」と、冗談を発せるだけの余裕があり、対照的に安形は時折言葉に詰まりながらも、率直に感謝の意を述べていた。三者三様の挨拶はどれも岳登にとっては胸に染み入るようで、本当に撮り終えることができたのだという達成感が膨らんでいく。


「では、最後に大滝さん、一言お願いします」


 篠塚が感想を振ると、夕帆は「はい」と頷いて、現場全体を見回した。岳登たちだけでなくオフィス全体や、隣にある葵座にまで目を向けるかのように。二人は一瞬目が合う。小さく微笑む夕帆。同じく微笑みを返すのに、岳登には変な恥じらいは要らなかった。


「まずは皆さん、今日までありがとうございました。こうして無事クランクアップに漕ぎつけられたのもここにいる全員、いやこの映画に携わってくださった全ての人の力があってのことだと思います。また私個人としては七年ぶりの主演作ということで、正直少し気負ってしまう部分もあったのですが、成海監督をはじめスタッフの方々が、演技をしやすい環境を整えてくださって、おかげで納得のいく芝居をすることができました。とても感謝しています。この現場のことを、私はずっと忘れないでいたいです。皆さん、今回は本当にありがとうございました。そして、成海監督。これからのポスプロ作業、頑張ってください」


 胸がすくような挨拶をした夕帆に、他の三人と同様拍手が送られる。夕帆が主演でなければこの映画は成り立っていない。だから、岳登からも礼を言いたいくらいだ。


 撮影を終えて和やかな現場の空気。その中で岳登は喜びつつも、責任感を感じていた。夕帆たちキャストも、篠塚たちスタッフも、時間に限りがある中で最高の仕事をしてくれた。でも、最終的にスクリーンに映るのは、岳登が編集した映像だ。


 映画を生かすも殺すも編集次第。全員がしてくれた仕事をいい形で映画に反映させなければと、岳登は使命感を抱いた。


「では、この後はいったんホテルに戻って、荷物の運び出しや機材の返却などを済ませた後、一九時に再び長野駅前に集合でお願いします。皆さん、本当にお疲れ様でした!」


『お疲れ様でした!』


 スタッフやキャストはそれぞれの後片付けに取りかかる。望美たち撮影部は機材を片づけ始め、夕帆たち俳優部は衣装から普段着に着替えて、一足先にホテルに戻っていく。


 完全に撤収するまでが撮影だけれど、穏やかな雰囲気に岳登は自分たちが撮影をやり切ったことを改めて実感していた。大変なことは数多くあったけれど、なんとか乗り越えることができた。その満足感のまま、岳登はある人物のもとに足を運んでいた。今回の撮影に尽力してくれた、最重要人物と言ってもいい人物のもとへと。


「篠塚、お疲れ様。本当に助かったよ」


 岳登がそう声をかけると、篠塚は爽やかな表情で応えた。緩められた頬から発せられる感情は、安堵以外の何物でもない。


「いえ、こちらこそありがとうございます。おかげさまでいい経験になりました」


「ああ、ありがとな。そう言ってもらえると俺も嬉しいよ。でも、ごめんな。今回の撮影じゃお前に色々迷惑をかけちまったし、そこは本当に申し訳ないと思ってる」


「迷惑って何がですか?」


「それはほら、色々あんだろ。初日、撮影が押して予定していたシーンが撮りきれなかったり、三日目には雪が降って外での撮影ができなくなったり、終盤には予算が足りなくなったり色々だよ」


「ああ、それでしたら、そんなものは迷惑のうちに入りませんから大丈夫です。撮影が押すのも予算が足りなくなるのも、映画の現場ではよくあることですから。それに雪に至っては、僕たちではどうしようもないことじゃないですか。迷惑だなんて僕は思ってないですよ。スケジュールの調整も助監の仕事ですから」


「でもさ、休みなかったのはキツかっただろ。毎朝四時近くに起きるのも。鳩ヶ谷さんにも冗談っぽく言われたけど、俺ももっと余裕を持った撮影にすべきだったと思ってるよ」


「何言ってんですか。僕はキツいだなんて思いませんでしたよ。だって僕まだ三〇代前半なんですよ。まだ体力は持ってくれてますし、早起きは慣れてますから。それに、もっとヤバかった現場なんていくらでもありましたからね。それに比べると、今回の現場はまだ余裕があった方ですよ。雰囲気もいい具合に引き締まってましたしね」


 篠塚は実に自然な表情をしていて、岳登に向かっておべっかを使っている様子は見られなかった。でも、もし現場が良い雰囲気だったとしたら、それは篠塚の貢献が限りなく大きい。どんなに疲れている時や余裕がない時も、篠塚が元気な声をかけ続けてくれたおかげで、岳登たちはなんとか持ちこたえることができたのだ。


 だから岳登は、率直にその思いを言葉にした。篠塚は照れながらも謙遜している。

「いや、でも今回の撮影は本当に良かったと思いますよ。全員が何としてでも一週間で撮りきるんだって集中してて。ただ撮るんじゃなく、少しでも良いシーンを撮るんだってモチベーションも高かった。人数は少なかったですけど、いい現場だったと思いますよ。もちろんお世辞抜きで」


 あまりにも何の衒いもなく言われたから、岳登の方が照れてしまう。「そ、そうか?」と答える声には、少しの恥ずかしさが含まれていた。


「そうですよ。今回の撮影は誰にとってもいい経験になったと思います。これからも映画の仕事を続ける人はもちろん、そうでない人たちにとっても、かけがえのない体験になったんじゃないですかね。この経験を胸にこれからも生きていくことができるような」


「そうか。そうなってくれたら、俺としても嬉しいよ。苦労してここまでこぎつけた甲斐があったって思う」


「はい。初参加の方々も日を追うごとに理解を深めて成長していっていましたし、最後は立派な役者やスタッフになっていました。目覚ましいほどの変化は僕にとっても刺激になりましたし、正直最初の最初は少し懐疑的な部分もあったんですけど、今はこのチームでよかったなって感じています。もっとクランクアップの余韻に浸っていたいくらいです」


「ああ、俺ももっとこの達成感を味わっていたい。でも、上映会に間に合わせるためにはそうもいかないからな。明日からさっそく編集を始めないといけない」


「そうですね。道のりは遠いと思いますけど、それでも僕は成海さんならやってくれると信じています。どうか根を詰めすぎずに、お身体には気をつけてがんばってくださいね」


「ああ、分かってるよ」そう応えられるくらいには、今の岳登はポジティブな感覚に包まれていた。きっと明日になれば、編集しなければならないデータの多さに圧倒されているのだろう。だからこそ、今だけは万能感を感じていたかった。


「篠塚も疲れただろうし、ゆっくり休めよ。と言いたいとこなんだけど、またすぐに次の現場が入ってんだよな?」


「はい。明々後日から今度は商業の現場に入る予定です。サード助監督なんですけど、また忙しい日々が続きそうです」


「そっか。まあ短い間だけど、ひとまずは心身ともに休んで、また次の現場でもがんばってくれ。俺もお前がキャリアを重ねて、いつか監督作品撮れるよう応援してるから」


「はい、ありがとうございます。この現場での経験を胸に、次の現場でも精一杯働きたいと思います」


 二人は目を合わせたまま、小さく笑う。この忙しい現場を乗り越えたのだから、きっと次の現場でも篠塚は大丈夫だろう。岳登はそう確信していた。


 市原から「二人とも機材を運び出すの手伝ってくれー」という声が飛んできて、岳登たちは連れ立って望美たちのもとに向かった。


 外では完全に暗くなった空に、小さな雪が舞っていた。



(続く)

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