第32話 ご相談というか



 その声がいくばくかの寂寥感を帯びていたのが、岳登には少し意外だった。明日、最終日の撮影でも変わることなく集中して臨む。夕帆はそんなタイプだと感じていたからだ。


「まあ、予算的にもこれ以上の撮影期間は設けられないしな。何だよ。寂しいのかよ」


 少し茶化したように訊く岳登に、夕帆は体よく乗ってはこなかった。表情から笑みが薄れていき、言葉以上に本心を岳登に伝えてくる。


「そりゃ寂しいよ。だって私の七年ぶりの主演映画なんだよ。いい具合に引き締まった現場の雰囲気は演じていてやりがいがあったし。これで寂しく思わない方がおかしいでしょ」


 夕帆の目は真剣だった。岳登の心のうちを覗きこむかのように。岳登も今一度自分の気持ちを見つめ直す。すると、自分でも意外なほどあっさりと言葉がこぼれ落ちた。


「そうだな。まだ明日一日残ってるとはいえ、やっぱり俺も寂しい気持ちはあるよ。俺にとっても七年ぶりの監督作だからな。撮ってる最中は本当に大変で、早く終わってほしいとすら思ってたけど、いざ終わりが見えてくると、まだまだ撮り続けていたいなって思うよ」


「分かる。私もまだ撮っていたい。もっとカメラの前で演技していたい。ねぇ、岳登。映画の尺もっと長くなんない? たとえば三時間とかに」


 分かりやすく冗談を言ってきた夕帆に、岳登の顔も思わず綻んだ。「誰が脚本書くんだよ」というツッコミも砕けた表情のまま言えていたから、刺々しさを帯びることはない。「そりゃそうだ」と頷いた夕帆も、目を半月型に緩めている。


「いや、でも本当ここまでよく撮れてるよ。初日に二つシーンを撮りこぼしたり、三日目にめっちゃ吹雪いたりしたときはどうなるかと思った」


「それは俺も同じように思ってたよ。本当に撮りきれんのかなって。でも、現にこうして何とかなってるわけじゃんか。少なくとも今のところは。諦めずに動き続けてれば、映画撮影って何とかなるもんだから」


「どうだか。昨日一昨日あたりって予算もヤバかったんでしょ。一週間っていう短い撮影期間ですら全うできないほどに」


 思いがけない夕帆の言葉に、岳登の笑みはわずかに引きつったものに変質してしまう。夕帆には予算のことは伝えていなかったはずなのに。


「お前、それ誰から聞いたんだよ」


「袖口さんからかな。ほら、昨日昼休憩のときにいたじゃん。だから、それとなく訊いてみたんだ。私も岳登や市原さんの調子が、今までとちょっと違うなってのは感じてたから」


 確かに栞奈は昨日、休憩中のスタッフやキャストのもとにやってきて、差し入れでアーモンドフロランタンを配っていた。岳登も美味しくいただいている。それでも、夕帆と話していたとは。不思議はないが、それでも気づかなかった自分を岳登はかすかに恥じた。


「悪いな。心配かけて」


「いいよ。撮影を進めていくうちに予算が足りなくなるってのは、本当によくあることだから。でも、葵座へのカンパのお金を回してもらえたんでしょ? それも一〇〇万円くらい。明日撮影して、ポスプロやったとしても、まだ余るよね。どうする? 明日、無事にクランクアップできたら、打ち上げでもしちゃう?」


「お前、打ち上げしたいのかよ」


「そりゃそうでしょ。一週間とはいえ、同じ作品に関わった仲間なんだから。初参加の人も含めて、皆頑張ってるのは私も知ってるしね。労は労わなくっちゃ」


「とか言って、お前本当は呑みたいだけだろ。『青い夕焼け』のときもめっちゃ吞んでたし」


「そんなことないよ。私は皆頑張ったね、お疲れ様って言いたいだけだから。ほら、撮影が終わったら次全員で集まるのは、完成した映画の上映会だけになっちゃうでしょ。そんなのって寂しいじゃん」


 夕帆の本音は別として、言っていることは一理あると岳登は感じる。岳登だってここまでの六日間、いやリハーサルや準備期間を共にしたことで、スタッフやキャスト全員に親密感と連帯感を抱いている。


 もともと打ち上げは行わない予定だった。撮影を終えてそのまま解散。打ち上げをしたい場合は、自主的に自費で行うこと。でも、それではあまりにあっけなさすぎる。予算に比較的余裕がある今なら、栞奈も必要経費だと認めてくれるかもしれない。


「そうだな。俺の一存だけじゃ決められないけど、それでも考えてみるわ」


 そう言った岳登に、夕帆はより頬を緩めてみせた。まんざらでもない表情に、岳登の心もほだされていく。撮影が終わった翌日から、岳登には気の遠くなるような編集作業が待っている。そのためにアルコールを摂取して、エネルギーに換えるのもいいかもしれない。ただ単純に酒を吞みたいだけの自分を、岳登は正当化した。


「うん、ありがと。明日、楽しみにしてる」


「ああ。でも、まだ終わったわけじゃないから。明日も最後まで集中して撮影して、少しでも良いシーンを撮ってこうぜ」


「もちろん。言われなくてもそのつもりだよ」


 二人が微笑みを交わすと、店員がやってきて夕帆のもとにレバニラ定食を置いた。油の光沢が天井照明を跳ね返している。


「先食えよ」「いや、揃ってからにしようよ」そんなやりとりをしている間に、再び二人のもとに店員がやってきて、今度は岳登の前に野菜タンメンを置いた。「私の方がだいぶ先に頼んだのに」と小さく口を尖らせる夕帆を、岳登は「まあそういうこともあるだろ」と宥める。一斉に夕食を食べ始める二人。野菜タンメンは優しい塩味がして、岳登の心身をそっと暖めていた。




 七日目もまた早朝、開館前の葵座から撮影はスタートする。よって岳登はこの日も、日が昇る前に目を覚ました。疲労はあるはずだが、身体がこの時間帯に起きることに慣れてしまったらしい。岳登は小さく笑うとベッドから起き上がって、眠気覚ましのコーヒーを買うために部屋の外に出た。微糖の缶コーヒーを買って、そのまま口をつける。苦みをしっかりと残したコーヒーは岳登の心を暖め、同時に引き締めた。


 明日以降、もうここに来ることはない。そう思うと少し寂しい感じもしたけれど、それでも岳登は頭を切り替えて、今日撮影するシーンを思い浮かべた。今日失敗したらもう後には延ばせない。だから、わずかに感じていた感慨を、岳登は心の底に押し込める。最終日でも今までと同じ緊張感で臨まなければならなかった。


 岳登たちは五時にホテルのロビーに集合すると、榎の運転のもと葵座に向かった。


 到着した葵座は今までと何も変わらず、落ち着いた出で立ちで岳登たちを迎えてくれる。朝日はまだ出ていなくても、館内から漏れる明かりに岳登は安堵した。


 今日の撮影が終わったら編集に入るから、あまり葵座には来られなくなってしまうだろう。だからこそ、岳登は胸に宿る思いを映像に刻みたいと思う。館内に入ると、ロビーにいた栞奈に岳登たちは、今までよりも丁寧に挨拶をした。栞奈も快く応えていて、岳登たちに今日の撮影を乗り切るだけのエネルギーを与えていた。


 望美たち撮影部、夕帆たち俳優部も順を追って合流し、撮影は予定通り朝の六時に始まった。全員がスタートから高い集中力で臨んでくれていて、おかげで撮影はNGを出すこともなく順調に進んでいく。香盤表を見ても、着実に残りのシーンが少なくなっているのが分かる。一つ一つ埋まっていくシーンに手ごたえを得る一方で、岳登はどこか寂寥感も覚えていた。モニターに映る葵座の風景を眺めるたびに、胸にこみあげてくるものを感じていた。


「では、このシーン埋まりで、これで葵座での撮影は以上になります! 皆さん、まだ撮影は続きますが、ひとまずはありがとうございます!」


 そう全体に発した篠塚に、スタッフやキャストも「ありがとうございます」と、口々に答える。館内に充満する達成感は、まだ撮影が残っているというのに、早くもやりきったような色さえ帯びている。


 葵座が開館する一〇分前の段階で、岳登たちは葵座でのシーンを全て撮り終えることができていた。全員が気を引き締めて、テキパキと動いてくれた結果である。


 最大の懸念事項を乗り越えられて、残りのシーンも撮りきれそうだと岳登は感じた。


「袖口さん、ありがとうございました。袖口さんを始めとしたスタッフの方のおかげで、なんとか葵座でのシーンを撮りきることができました」


 俳優部が隣のオフィスに設けた待機場所に戻っていき、撮影部が撤収作業を進める中で、岳登は篠塚とともに、栞奈に挨拶をしていた。これだけ葵座を貸し出してくれたのだ。岳登としては、礼を言わなければ気が済まない。


「こちらこそ、お疲れ様でした。私たちも、微力ながら映画に協力できたようで嬉しいです」


「いえ、微力だなんてとても。袖口さんたちにはエキストラで入ってもらったりとか、他にも色々手伝ってくださって。袖口さんたちがいなければ、このスケジュールでは撮りきれていないですよ」


「ありがとうございます。そう言ってもらえて、私たちとしても、朝早くから起きた甲斐がありました。いかがですか? 成海さん。良いシーンは撮れましたか?」


「はい。袖口さんたちのおかげでばっちりです。ちゃんと予定していたシーンを全て、想像よりも良い状態で撮ることができました。なので、映画になって観られる日を楽しみにしていてください」


「はい、楽しみにしています。成海さんたちはこれからもまだ撮影ですよね。撮影も、その後の編集も頑張ってください。心から応援してます」


「はい、頑張ります」岳登がそう言うと、栞奈は思わず顔を綻ばせた。その表情に、岳登は期待してくれて嬉しいと思える。地味で地道な編集作業も、期待されていると思うと、岳登は前向きに取り組めそうな気がしていた。


「ところで、成海さん。一つご相談というか、提案があるのですが……」


「はい、何でしょう」


 岳登がそう返事をすると、栞奈は手を顔の前で軽く動かした。もっと顔を近くに寄せてほしいというジェスチャーに、岳登たちも素直に応じる。栞奈は声を潜めて、提案の内容を二人に話した。それは岳登にとっても歓迎すべきことで、「はい、ぜひお願いします」と返事をする。撤収作業が終わった館内は、観客を迎え入れる態勢を徐々に整えつつあった。



(続く)

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