第7話 葵座のために



 高く上がった太陽が、ぎらぎらとした日差しを浴びせかけている。この一週間は雨すら降っておらず、五日連続の猛暑日は、残暑と呼ぶにはまだ早い。岳登はこの日も葵座に足を運んでいた。涼しい映画館で一日を過ごしたいと思ったからだった。

「おはようございます、成海さん。朝、お早いですね」


 開館してすぐに到着した葵座に、観客はまだ一人もいなかった。映画の上映開始まであと二〇分ほどある。だから、売店に立っていた栞奈が岳登に話しかけるのも不思議ではなかった。岳登もすっきりとした表情で返事をする。


「今日は何本観ていかれるんですか?」


「今日は、今のところは二本の予定ですね。まずは『ドライブ・マイ・カー』を観て、その次に『子供はわかってあげない』を観ようかなと」


「どちらも昨日公開されたばかりの作品ですからね。昨日観たお客さんからの評判も上々で。私も事前に観させていただきましたけど、どちらも違った面白さがあって、両作ともお勧めです」


「そうですか。それは楽しみです」


 世間話を繰り広げる二人。でも、栞奈の口調はどこか歯切れが悪くて、心が自分に向けられていないと岳登は感じてしまう。そして、その原因は岳登にも心当たりがあった。


 だけれど、口にするにはいくばくかの勇気がいる。自分が言ってもいいものなのか。岳登は少し迷った挙げ句、なるべく自然体を装って口を開いた。


「袖口さん、クラファンの調子はいかがですか?」


 そう尋ねられて、袖口は「ま、まあ……」と言葉を濁す。自分の口からは言いたくないみたいに。クラウドファンディングのページは誰でも見ることができるから、岳登だって現状は分かっていた。昨日寝る前に見たときには、支援金の総額はわずか三〇万円程度しかなかった。プロジェクトが開始して三週間が経っているというのに、まだ目標金額の一割しか集まっていない。


 もちろん、この先SNSでインフルエンサーに紹介されて、一気に多額の支援金が集まる可能性はある。でも、そんなあるか分からない未来に、岳登は純粋な期待を抱けなかった。このまま目標金額に達せず、プロジェクト未成立に終わってしまうのではないか。考えたくもない事態が頭を過ってしまう。


「どうしたらもっと支援金が集まりますかね……? 一応、毎日SNSで宣伝はしているんですけど……」


「そうですね……。とりあえず宣伝はやめない方がいいと思います。やり続けないことには、誰の目にも留まることはないですから」


「正直な話、私もっとすぐに支援金が集まると思ってました。やっぱり皆さん、今は映画や映画館にあまりお金を落としたくないんでしょうか……」


「大丈夫ですよ、袖口さん。今はまだ届ききってないだけですから。ちゃんと発信し続けてれば、届く人に届くはずです」


 岳登は言葉に希望を込める。自分にも同じく言い聞かせるように。


 それでも、栞奈はまだ不安そうな表情をしていた。届く人全員に届いて、それでもなお目標金額に達しなかったときのことを考えてしまっているのだろう。葵座が申請したプロジェクトは、目標金額を達成しなければ全額が出資者に返金される形式となっていた。


 館内に漂い始める気まずい空気に、岳登は話題を変えなければならないと思う。捻りだしたのは、クラウドファンディングからさほど遠くない話題だった。


「そうだ。袖口さん。カンパまだ続いてますよね。今どれくらい集まってるんですか?」


 引き続いての資金の話に、栞奈の表情にはまだ少し暗雲が垂れ込めている。自分から話題を振ったのに、岳登は答えを聞きたくないと思ってしまう。


「ここだけの話ですけど、今は一一五万円くらいです。支援してくれる人はまだいるんですけど、それでもペースはかなり鈍ってきてしまって。正直、声をかけられる人にはもう全員声をかけてしまいましたし、率直に言えば頭打ちという感じです」


「そうですか……」想像していた現実と違わぬ言葉が出てきたことに、岳登は落胆を隠せない。自分が住んでいる街の小ささを改めて思い知らされる。


 自分にもっとできることはないか。岳登は頭を回す。何人かの観客が入ってきてスクリーンに向かっていったけれど、その間も岳登は考えることをやめなかった。


「……袖口さん、よかったら僕にもっと支援させてくれませんか?」


「はい。いいですけど、成海さん、財布の方は大丈夫なんですか?」


「大丈夫です。こう見えても少しずつ貯金してますから。二〇〇万、いや三〇〇万円くらいなら、僕だって出せないことはないです」


 岳登が告げた金額に、栞奈は分かりやすく目を丸くしていた。当然だ。自分だって同じことを言われたら、まったく同じリアクションをする。それくらい岳登が提示した金額は突拍子もなかった。でも、嘘ではない。それくらいの蓄えは岳登にだってある。


 岳登は栞奈をじっと見つめた。栞奈は戸惑ったように目を伏せていたが、やがて岳登ともう一度向き合う。


「成海さん、すいません。お気持ちはありがたいのですが、さすがにそんな大きな額は、私たちとしても受け取るわけにはいきません」


「……どうしてですか? こう言うのも下品ですけど、僕お金持ってますよ」


「いえ、そのお金は成海さんが将来や老後に備えて、貯めているお金ですよね。映画館を経営している身でこんなこと言うのもなんですけど、私は人生には映画よりも大事なことがあると思っています。だから、そのお金は成海さん自身のために使ってください。将来困ることがないように」


「いえ、僕はこの葵座で、映画を観る楽しみを知りました。僕の映画の始まりはここなんです。だから、お願いです。少しでも僕が受けた恩を返させてください」


「……成海さん。お気持ちは分かりますが、一つの場所に一人が何百万円というお金をつぎ込むのは、健全とは言えないですよ。確かに成海さんが三〇〇万円出してくださったら、改修工事はできるかもしれません。でも、工事が終わった後も葵座は続いていくんです。もしかしたらまた何百万というお金が必要になるときが来るかもしれない。そのときに、成海さんは同じだけのお金を出せますか?」


 そう尋ねられて、岳登は自分の浅はかさを思い知った。そんな蓄えはどこにもない。結局岳登個人の力だけではもうどうしようもないのだ。どこを向いても目の前に現れる現実に、岳登は言葉をなくした。まだ確定してもいないのに、葵座が閉館する未来が頭の中でより大きさを増していく。


「成海さん。私、今以上に葵座のために何かできないですかね……?」


「何かというのは……?」


「もし、万が一ですよ、このまま改修工事ができなくて閉館することになっても、私はこのまま終わりたくないんです。葵座があったことをずっと先まで残すために、何かしたいんです。そうじゃなきゃ、今まで来てくれた方たちに申し訳が立たないですから」


「……そんな。袖口さんはもう諦めてしまったんですか……? まだクラファンの締め切りにまでは二ヶ月もあるのに……」


「成海さん。私だって諦めたわけじゃないですよ。まだ銀行の方とも話してますし、私にできることは何でもするつもりです。でも、もしかしたらうまくいかないかもしれないと思ってしまうときが、どうしてもあるんです。本当、ごくたまになんですけど」


 そうこぼした栞奈を岳登は強く咎められなかった。クラウドファンディングのページを見るたび、なかなか増えない支援金額に岳登も同じことを感じていた。でも、「何かする」とはなんだ。貴重な映画を集めて、特集上映でも開くのか。岳登は答えを見出せない。


「それより成海さん、スクリーン行かなくていいんですか? そろそろ予告編始まっちゃいますよ」


 栞奈に声をかけられて、岳登はふっと我に返る。そういえば、少しずつ葵座に入ってくる人は増えてきている。岳登はいつも上映開始時間には椅子に座るようにしているので、心はスクリーンに向いた。


「そうですね。そろそろ行きたいと思います。では、袖口さん。また映画が終わった後でも」


「はい。映画、楽しんできてくださいね」


 頷く岳登。でも、栞奈ともう一度目を合わせても、期待していたほどの情報は受け取れなかった。葵座の経営者でもある栞奈の大変さや苦しみは、自分には半分も分からないのだと思い知らされる。岳登は振り返らずにスクリーンのドアを開けた。広い館内に座っているのは、二〇人もいなかった。



(続く)

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