第6話 初めての映画館



 貴重な梅雨の晴れ間の中、岳登は智紀に手を引かれ、道枝商店街を歩いていた。見上げると半透明なアーケード。両脇に軒を連ねる大小さまざまな専門店。行き交う人々や自転車が、皆年齢以上に大人びて見える。一番人が多い休日の昼間という時間帯。岳登ははぐれないように智紀の手を強く握った。


 目当ての場所は、商店街を半分ほど進んだところにあった。右手にぽっかりと道が現れ、短い道の先には薄橙色の年季を感じさせる建物が建っている。家とは明らかに違う建物に、岳登は期待と緊張を半々ずつ感じた。


 ドアをくぐると、真っ赤な床が岳登の目に飛びこんでくる。自動販売機の上にはこれから上映する映画のポスターがずらりと並んでいたけれど、まだひらがなしか読めない岳登にはあまり目に入ってこない。岳登の目の高さまでしゃがむスタッフ。岳登は智紀の見よう見まねで、鑑賞券をスタッフに差し出した。半分にもぎるスタッフ。返ってきた半券は、風が吹けば飛ばされてしまいそうなほど軽かった。


 ポップコーンもドリンクも買わずに、二人はまっすぐスクリーンに向かった。ドアを開けた智紀に続いて、岳登は初めてスクリーンに足を踏み入れる。


 赤いシートの椅子が何百脚も並び、灰色のスクリーンが高い天井に届きそうなほど大きく、ここが家とはまったく異なる場所であることを強く印象づける。既に座席は半分ほど埋まっていて、人々の期待する感情が、岳登には曖昧な形となって目に見えるようだ。


 このスクリーンは床が平坦で、後方の席に座ると前の人の頭でスクリーンが見えづらくなる。だから、二人はなるべく前の通路側の席を選んで座った。ふかふかとしたシートが岳登の身体をすっぽり包む。何年も使っている家のソファよりずっと柔らかかった。


 気持ちが逸り何度も話しかける岳登に、智紀はその度に笑顔で応じてくれた。「あと何分で始まる」と告げられると、高まっていく観客の期待に乗せられるように、岳登の気持ちも昂った。


 突然、照明が落とされて一瞬スクリーンは真っ暗になる。それが映画が始まる合図だと岳登にはまだ分からなくて、辺りをしきりに見回してしまう。


 でも、すぐにスクリーンがパッと光ると、岳登の目は前方に釘付けになった。始まったのは近日公開の映画の予告編だったが、それでも岳登の心を掴むには一瞬で十分だった。家のテレビとは比べるまでもない規模のスクリーンに映し出される映像。壁に備え付けられたスピーカーから発せられる音像が、身体を包み込んで、身震いがするほどだ。照明が落とされたスクリーンは、岳登と映像とを一対一で向き合わせる。テレビを見ているときとは段違いの迫力。スクリーンのなかで遊んでいる子供たちが、岳登には自分のように感じられた。


 予告編が終わるといよいよ映画本編が始まる。真っ先に岳登の目と耳に飛び込んできたのは、配給会社の提供だ。管楽器の演奏が、一瞬耳を塞ぎたくなるほど大きな音で聞こえてくる。スポットライトに下から照らされる企業のロゴマーク。派手な金色の文字は、岳登の期待を大きく高めていた。


 映画は家族が騒がしくしているシーンから始まった。一五人もの大家族が、画面を所狭しと動き回っている。そのなかで存在感の薄い主人公。日本語に吹き替えられたキャラクターの声を、岳登は一緒になって楽しんだ。


 智紀から映画を観ている間はじっとしているように言われてるから、声を出したり大きく動くことはしないけれど、それでも賑やかな家族の光景に、岳登の心は躍った。クリスマスという設定も、岳登を映画の中の世界へと誘っていた。


 家族が旅行に行くなかで、一人だけ家に取り残されてしまう主人公。寂しさや心細さを感じさせる主人公の一挙手一投足が、岳登には身近に感じられる。主人公の家を狙おうとする強盗も現れて、主人公が無事でいられるか、岳登はハラハラする気持ちを抑えきれない。


 もちろん智紀のような大人には、主人公が見事強盗を撃退しハッピーエンドで終わることぐらい、すぐに分かってしまうだろう。だけれど、岳登はまだフィクションに触れた経験が乏しくて、物語の先を読む力は涵養されていなかった。


 近づいてくる強盗から、自分の家を守る決意をした主人公。強盗を撃退する準備がテンポよく映し出され、じっと座っていることに少し疲れてきた岳登の心を引きつける。


 まんまと主人公が仕掛けた罠にはまっていく強盗。凍った階段に足を滑らせ、リアクション芸人でもしないくらい派手にすっころぶ。その姿は岳登にとっては滑稽で、思わず笑い声が漏れた。おかしく感じていたのは岳登だけではなかったようで、客席にはいくつもの笑い声が生まれている。今ここにいる全員が一人残らず、映画を楽しんでいるという一体感を岳登は感じていた。


 主人公の目論見が成功していくたびに、スクリーンは笑いに包まれ、大きな高揚感が生まれていた。岳登も爽快さを感じて、楽しく思う気持ちが止まらない。今まで見たどのテレビ番組よりも面白く感じて、主人公の活躍をいくらでも見ていたいくらいだ。暗がりに対する恐怖心も、いつの間にかなくなっている。初めて観る映画に、智紀は自分でも楽しめるこの映画を選んでくれた。それだけで岳登は胸が満たされる心地がしていた。


 強盗は逮捕され、家族は家に戻ってきて、映画はハッピーエンドを迎える。岳登は初めて映画を観るのだから、当然エンドロールを観るのも初めてだ。音楽に乗って見覚えのない文字たちが下から上に流れる、この時間はなんだろうと思わずにはいられない。


 それでも、誰一人席を立つ気配はなかったので、岳登は空気を読んで椅子に座り続けた。


 面白いものを観たという満足感は確かにある。でも、一方で早く明るくなって智紀と話したいとも思ってしまう。じっと座っていることも、少しずつ難しくなり始める。でも、智紀はそんな岳登に目をくれることもなく、スクリーンに見入っていた。今の映画を反芻しているかのように。


 エンドロールが終わると同時に音楽も鳴り終わり、映画が完全に終わったことをようやく岳登に知らせる。客席にも明かりが灯り、少しずつ観客が立ち始める中、岳登と智紀はお互いの顔を見合わせていた。ただ純粋に「面白かった」と語っている智紀の表情に、岳登の心は大いにほだされる。こちらに向けられている微笑みは、きっと自分の表情と鏡写しになっているのだろう。岳登も「連れて来てくれてありがとう」という感謝の思いを目で伝えた。目を細めた智紀に、今この瞬間だけは、自分たちに言葉はいらないのだと岳登は感じた。


 立ち上がった智紀に続くように、岳登も椅子から立つ。出口に向けて歩き出した智紀を追う途中に、岳登はふと振り返った。灰色のスクリーンに、自分はきっとまたここに来るのだろうとわけもなく感じた。



(続く)

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