第5話 生まれて初めて
クラウドファンディングの目標金額は、三〇〇万円に決まった。足りない分はカンパで補えばいいし、もしかしたら三〇〇万円を超える支援が集まる可能性もある。過去の様々な事例を参考にし、説明文やリターンの内容も決めて、一昨日栞奈はクラウドファンディングの運営会社に企画を送っていた。審査には一週間ほどかかり、その間岳登にできることはあまりなく、また葵座で映画を観るくらいが精いっぱいだった。
その日も岳登は葵座で映画を観て、帰り道の途中にあるラーメン店に入っていた。券売機で食券を買うと、カウンター席に座る。隣では仕事終わりのサラリーマンがビールを飲んでいて、ほんの少しだけ鬱陶しい。濃いめで麺かためのラーメンを、岳登はなんとなくスマートフォンを見ながら待つ。毒にも薬にもならないSNSの投稿をスクロールしていると、ドアが開けられて新たな客が入ってきた。
音の鳴る方を向いた瞬間、岳登は驚いてしまう。思いもよらぬ人物がそこには立っていた。
「あっ」
「あっ」
その人物も岳登を見るなり、動きを止めている。食券を買うことも忘れて、立ち尽くす男。それは岳登の大学の後輩である、
「いや、俺もしかしたら成海さんに会えるんじゃないかって思ってたんですよ。次の映画、長野で撮るって聞いたときに、真っ先に成海さんのことが思い浮かびましたから」
場所をラーメン店から駅前の居酒屋に移すと、ビールに口をつけた篠塚は、早くも高揚した様子で言ってきた。大学時代はよくつるんでいたし、同じ現場にも何度か参加したことがあったから、再会を喜んでいるのだろう。実際、岳登も篠塚とばったり会えて、嬉しく感じている部分はあった。
「そっか。でも、本当に久しぶりだよな。最後に会ったの、俺がこっちに戻る前だったから、もう六年くらい前になるか」
「そうですよ。あれから成海さん、一回も東京に顔出してないですよね」
「まあ別に行く用事がなかったからな。それを言うならお前だってそうだろ。こっち来るなら一度ぐらい連絡してもよかったんじゃないか? 俺だってエキストラなら協力したのに」
「それは色々あったんですよ。守秘義務とか。それに成海さんが長野に帰ってからは、すっかり疎遠になっちゃってましたからね。なかなか連絡する踏ん切りがつかなかったんです」
「まあ、それもそうか」二人は話しながらビールを煽る。フライドポテトや枝豆をつまむことも忘れない。
こうして篠塚と呑むのは、岳登にとっては東京にいたとき以来だから一気に懐かしさが押し寄せてくる。しばらく思い出話に花を咲かせる二人。居酒屋も少しやかましくはあったものの、それでも岳登は久しく味わっていなかった安心感を覚えていた。
「そういえば成海さん、お父さんは元気ですか?」
雑談の延長線上で訊いてきた篠塚に、悪気はないのだろう。篠塚だって、岳登が長野に帰ったのは智紀のためだと知っている。それでも、岳登はほんの一瞬だけ心臓が止まるような心地を味わった。この一年間、幾度となく言われてきたことでも、未だにチクリと肌を刺されるような感覚がある。
「いや、親父なら去年亡くなったよ」
たぶん岳登の声は、どこか暗く今まで通りではなかった。それは篠塚の「……すいません。聞いちゃいけないこと聞いちゃって」という萎れた返事に如実に表れる。
「いいよ。もう一年以上前の話だし」と答えても、岳登の心はどこかすっきりしない。智紀の死から完全に立ち直ることは、一周忌が過ぎても岳登にはまだできていなかった。
「いや、本当にすいません。久しぶりに会ったのに、こんな暗い空気にさせちゃって」
「だからいいって。親父のことについて気になるのは当然だし。でも、本当にすまないって気持ちがあるなら、俺の話も一つだけ聞いてくれないか?」
「……なんですか?」
「実はさ、長野に葵座っていうミニシアターがあるんだけど、今わりとピンチなんだよ」
「ピンチ、ですか?」
「ああ。もう大分古い映画館だから、施設も老朽化してきてて、改修工事しなきゃなんないんだけど、そのための金が全然足りてねぇんだよ。今カンパを募ってるんだけど、篠塚にも協力してもらえたら嬉しいなって」
「それならクラファンすればいいじゃないですか。全国から資金を募れますよ」
「いや、それはもうやってる。申請書類も出した。でも、まだ審査中でさ。だから、より確実なカンパって形で協力をお願いしてぇんだけど……」
物的証拠はどこにもない。篠塚が話を呑んでくれる可能性は高くない。それは岳登にも分かっていた。だけれど、会社の同僚や親しい友人に相談しても、その度に断られてしまっているのが現状だ。今篠塚と話せているのは千載一遇のチャンスだ。祈るような気持ちで、岳登は篠塚を見つめる。篠塚の返事に、さほど時間はかからなかった。
「分かりました。今ミニシアターってどこも大変ですもんね。僕でよければ協力しますよ」
「マジで! サンキューな! ちょっと待って。今からカンパ先の口座番号教えるから」
「いや、それはいいです。明日から朝から晩まで撮影なので、ATMが空いてる時間に銀行行けるかどうか分かりませんし。今直接渡してもいいですか?」
「あ、ああ。一応言っとくと一口一万円な」
「結構しますね」そう言いながらも財布を取り出してくれた篠塚に、岳登は少し警戒心が薄くないかとも思ったけれど、それでも自分の話を信じてくれたのは純粋に嬉しかった。
たとえ「今これくらいしかないんですけど、いいですか」と渡されたのが一万円だけだったとしても、岳登は「いや、マジありがとな。本当助かるわ」と素直に礼を言うことができる。これで改修工事の実現に一歩近づいた。
「言っときますけど、預けただけですからね。改修工事やクラファンの件が嘘だったら、すぐ返してもらいますから」
「ああ、明日にでも口座に振りこんどくよ。その代わりクラファンが始まったら、周りの人にも知らせてくれないか。こういうのってSNSもだけど、口コミも同じくらい大事だから」
「分かってますよ。成海さんが嘘ついてないと分かったら、僕から今回の制作チームにそれとなく伝えてみます」
自分があまり信用されていないことに、小さな苦笑いは出たものの、岳登は「ああ、頼むわ」と念を押した。映画制作を仕事にしているだけあって、ミニシアターへの理解もあるだろう。クラウドファンディングが始まれば、その制作チームからでも結構な支援額が期待できそうだ。
「はい。でも、ちょっと安心しました」
「安心?」
「はい。成海さんが完全に映画から離れてなくてよかったです。地元のミニシアターの経営状況まで気にするほど、まだ映画に対する熱量を持ってくれてるみたいで嬉しいです」
「まあ、俺だって学生の頃、特に東京にいた時は映画館に通い詰めだったからな。そう簡単には離れられねぇよ」
「そうですね。小規模な映画でも成海さんみたいに見てくれる人がいるって現実は、僕たちにとっては何よりの励みになります」
「まあ俺もちょっととはいえ、映画の現場にいたわけだからな。お金を払って観るのが一番の応援になるっていうのは身に染みてるわけだし。でもさ、葵座をどうにかしたい理由はそれだけじゃないんだよな」
「それは、地域の大事な文化拠点をなくしたくないってことですか?」
「まあ、それもあるけど、一番はもっと個人的なことだな」
「個人的なこと?」
「ああ。葵座はさ、俺が生まれて初めて映画を観に行った場所なんだよ」
「そうなんですか」東京にいた時にも話していなかった事実に、篠塚は身体をわずかに前に乗り出した。「ああ、これは俺が五歳のときの話だったんだけどさ……」と話し出す岳登。騒がしい居酒屋の話し声も、今だけは二人には聞こえなくなっていた。
(続く)
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