第8話 映画撮れよ
日曜日もまた雲一つない晴れ間が広がり、気温は三八度まで上がった。もはや外にいるだけで危険を感じる暑さの中、この日も岳登は自転車を漕いで映画館に来ていた。
映画が終わってスクリーンから出る。信濃劇場のロビーは、冷房の利きが弱い。映画が始まる前に買った頃には過剰なほど冷えていたペットボトル飲料も、今は温くなってしまっている。岳登は椅子に座って、その温くなったコーヒーを飲みながら一息ついた。数年前に公開されて人気を博した任侠ものの映画の続編は、前作同様集中力を要する展開が続いたので、少し回復する時間が必要だった。
次の回の上映に観客が少しずつ入り始めて、岳登は椅子から立つ。階段を降りると、ちょうど入場者が切れたタイミングなのか、一階のロビーには人の姿は見られなかった。夕方になったとはいえ、外はまだまだうんざりするような暑さが続いているのだろう。岳登は少しでも外に出るのを先延ばしにするように、ラックに並べられたチラシや売店で販売されているパンフレットを見て回る。
壁際には小さなボリュームで映画の予告編を流し続けるテレビ。そしてその下には、葵座のクラウドファンディングのチラシが置かれていた。一枚手に取ってみる。
「さらにこの先も続いていく映画館へ 長野葵座改修プロジェクトにご支援お願いします」と銘打たれたチラシは、葵座のスタッフが作ったものだ。とはいっても簡単な文章作成ソフトでの制作だから、写真を多く用いるなど工夫はされているものの、出来栄えは映画のチラシとは比べるべくもない。でも、市内の公民館や文化施設、数店の飲食店に同じチラシが置かれていることを岳登は知っている。ここにあるのだって残りは一〇枚くらいだ。まったく手に取られていないというわけではない。
「おっ、成海。やっぱそれ気になるか」
岳登がチラシに思いを馳せていると、市原が話しかけてきた。真夏なのに今日も黒いオーバーオールを着ている。
「まあな。葵座の存続を左右する大事なプロジェクトなわけだし」
「だよな。ウチもチラシ百枚単位でもらったんだけど、結構手に取ってく人も多くてさ。残りも少なくなってきたから、そろそろまた送ってもらおうかなと思ってるとこだよ」
そう訊いて、岳登はわずかに苦笑いを浮かべてしまう。今日信濃劇場に来る前に確認したら、支援額は昨日から一円も増えていなかった。興味は示してくれるものの、行動に移すことはない人たち。顔も知らないその人たちに、岳登は何もできなかった。
「お前はさ、このクラファン支援したの?」
「ああ、したぜ。って言っても最少金額の三〇〇〇円なんだけどな。ほら、俺もそこまでたくさん金持ってるわけじゃないし、ただでさえ、最近何十万円も使う出来事があったからな」
大の大人がたった三〇〇〇円だけか。岳登はそう思ったけれど、言葉にも表情にも出さなかった。深く訊くことはしないけれど、何十万円という出費の後なら出し渋るのも当然だろう。カンパという直接支援する手段もあるから、岳登は「なら仕方ないな」と答えるだけに留めた。
「ああ。俺が言うのもなんだけど、こういうのって金額の多寡じゃないからな。大切なのは気持ちだよ、気持ち」
気持ちだけで改修工事はできない。だったら、その気持ちを金に換えて捧げてくれ。岳登の頭にはいくつも反発する言葉が浮かんだけれど、これも声には出さない。館内にクラウドファンディングのチラシを置いてくれている手前、はっきりと不満を言うことは憚られた。
「でもさ、俺が言えた身分じゃないけど、クラファンまだ全然集まってないよな。まだ一割程度にしか達してないんだろ? 本当に大丈夫なのかよ」
それを言うなら。その後に続く言葉を、岳登はどうにか封じこめる。心配する市原の思いに、嘘はないと思った。
「まあ部外者の俺から見ても、大丈夫とは言えねぇよな。昨日袖口さんと少し話したんだけど、まだ銀行からの融資も取りつけられてないみたいだし」
「マジでピンチだな。なあ、お前どうするよ?」
「どうするって何がだよ」
「もし、このまま改修工事ができずに葵座が閉館したら、お前どうすんだよ」
市原の危惧は、岳登の痛いところを突いた。懸念は日に日に大きさを増している。心の準備をしたくはないが、それでもまるっきりあり得ないと否定することもできない。
岳登は腹を立てることなく、あくまで冷静に答えた。
「それはもうどうしようもないだろ。俺も葵座の経営を一人で支えられるような大富豪じゃないんだし。まあ最後の日までできる限り通って、ちゃんとお別れができるようにするよ」
「まあ、そうならない方が絶対にいいんだけどな」口にした現実が、岳登の胸を刺す。打ち消す言葉を付け加えてみたところで、傷口は塞がれない。一歩一歩近づいてくる未来に、岳登は抗える術を持っていなかった。
「でもよ、やっぱり寂しいよな。一〇〇年以上続いた映画館が閉館するのは」
「いや、まだ決まったわけじゃねぇから。袖口さんたちなら、きっと何とかしてくれるよ。それに、万が一閉館することになってたとしても、静かに消え去るつもりはないらしいしな」
「それって、スーパーで言うところの閉店セールを開くみたいなことか?」
「まあそれとはちょっと違うと思うけど、でも何かはするんじゃねぇかな。ラストを盛り上げる何かを」
「何かって何だよ」
「そんなの俺に分かるわけねぇだろ。もう一回言うけど、まだ閉館するって決まったわけじゃねぇんだから」
話の出口を見失って、二人にはすぐ次の言葉が出てこない。小さなテレビの音だけが周囲に流れる。二人が立ち尽くしている間にも観客は入ってきて、二階のスクリーンに向かっていく。そろそろ上映開始時刻だろう。だけれど、岳登がそれとなく目線で促しても、市原は二階に向かわなかった。何かが引っかかっているかのように、ロビーに留まり続けている。
「……あのさ、俺今思いついたんだけど」
「何だよ」
「成海。お前さ、映画撮れよ。葵座を舞台にした映画」
市原の言っていることがにわかには理解できず、岳登は思わず「は?」と訊き返してしまう。出てきた提案は、まるで現実感がなかった。
「だから、お前が葵座で映画を撮るんだよ。思えばお前ほど葵座に通ってる人間もそうそういねぇし、お前東京にいた頃映画撮ってたんだろ? ぴったりじゃねぇか」
「いや、なんでそうなるんだよ。そんなことよりも少しでもお金を出したり、クラファンを広めたりして、支援した方がいいだろ」
「当然それも分かるよ。でもよ、もしお金が足りなくなって改修工事ができず閉館、最悪取り壊しになったら、葵座はこの世からなくなっちまうんだぞ。それだったら、映画で葵座の姿を残しておいた方がいいだろ。そうすれば再生環境さえあれば、いつでも葵座があったことを確認できるわけだし」
「でも、そんないきなり……。俺、もう五年以上も映画撮ってないんだぞ。映画の撮り方なんて、もう忘れちまったし……」
「それは作りながら思い出していけばいいだろ。お前、葵座のために何かしたい気持ちはあるんだよな?」
「いや、でも……」
まず製作費はどうする。キャストやスタッフはどうやって集める。というか、そもそも撮る脚本がない。少し考えただけでも、無理な理由はいくらでも岳登には思いつく。だけれど、それらを市原に一つ一つ説明するには少し骨が折れそうだったし、もう話している時間もない。市原は今すぐにでも映写室に行かなければならないはずだ。
そのことが分かっているのか、市原は「まあ一つの可能性として考えてみてくれや。じゃあ、俺もう映画始めないといけないから」と言い残して、そそくさと階段を上っていった。
一人ロビーに残されて、市原の映画を撮るという提案が、岳登の頭の中で駆け回る。とても現実的とは思えない。でも、完全に否定することも岳登にはできなかった。
これ以上の長居も悪い気がして、外に出る。まとわりつくような熱気と人々の騒ぐ声が、岳登を一気に日常に引き戻した。
(続く)
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