第9話 青い夕焼け



 エンドロールを眺めながら、岳登は缶ビールを煽る。ソファにだらりと寄りかかっていると、一日の疲れが泡となって解けていく感覚がした。SNSで評判だった映画。でも、長野では上映されなかった映画。公開から一年が経って、ようやく配信で見られるようになった映画を、岳登はたった今見終えたところだ。


 ホーム画面に戻ったところで、岳登は一つ大きく息を吐く。SNSでは評価が高かった映画も、岳登はいまいち面白いとは思えなかった。評判のリアリティがある長回しも、かえって冗長に感じてしまう。上映時間ももう少し短かったらと思ってしまう。きっと映画館で観ていたなら、なかなか終わらないことにやきもきしていたに違いない。見たことに後悔はないが、配信されたその日に見るような映画ではなかったと、岳登は失礼ながら思っていた。


 さて、次は何を見ようか。岳登はタブレット端末を操作する。オリジナルのドラマ、数多あるテレビアニメ、視聴履歴を参考にしておすすめされる映画たち。時刻は夜の一〇時を回ったところで、寝るまでには映画ならもう一本は見られそうだ。


 慎重にコンテンツを選んでいく岳登。すると、机の上に置かれたスマートフォンが、着信音を鳴らした。画面に表示された短い名前に、岳登は驚きと少しの不審さを抱く。ここ一年は電話はおろかラインすら送ってきていないのに、いったいどういうつもりだろう。


 気になって、岳登は電話に出る。聞こえてきたのは、記憶のままの穏やかな声だった。


「もしもし、岳登。久しぶり。今って少し話してても大丈夫?」


 電話の向こうで、大滝夕帆おおたきゆうほが少し眠たそうに言う。少し疲れているかのような声だ。


「大丈夫だけど、どうしたんだよ。何かあったのか?」


「別にー。ただなんとなく岳登、最近どうしてるかなーって思っただけ。それとも、何か用事がなきゃかけちゃいけなかった?」


「いや、そんなことはねぇけど。でも、一年ぶりくらいの電話だから、ちょっと身構えるよ」


「うん。それはまあごめんね。でさ、岳登は最近どうなの?」


 夕帆の質問が大雑把すぎて、岳登には若干の苦笑いさえこぼれる。ありのままを伝えても何一つ面白くない。けれど、嘘をついたり誇張する必要も岳登は感じなかった。


「どうって言われても、普通としか言いようがないな。起きて会社行って、帰ってきたら飯食って映画見て。で、休日になったら映画館に行く。変わり映えのしない日々を送ってるよ」


「なるほどね。でも岳登が平穏な日々を送れてるみたいで、私も嬉しいよ。世の中には忙しかったりお金がなかったりで、映画を観たくても観れない人がいるからね。それくらいの余裕があるのが一番だよ」


「どうだろうな。仕事、やらなくてもいいならやってないけど。で、夕帆の方はどうなんだよ。最近、仕事あんのか?」


「舐めないでよ。これでもコンスタントに撮影や舞台の仕事は入ってるんだから。今日も朝から日が沈むまでずっと撮影してたし。まあそうは言ってもほとんど端役で、今日だって私が出るシーンは一日で撮り終わっちゃったぐらい、小さな役だったんだけどね」


「そっか。まあどんな役でも仕事があるのはいいことだよ。出番があるってことは、いなきゃ成り立たないってことだから」


「うん。それは分かってるんだけど、やっぱ私も、もっと主役に近い役やりたいなと思っちゃう。そのためにはもっと実力をつけるしかないんだけど」


「ああ、がんばれよ。俺も夕帆がうまくいくよう願ってるから」


「うん」と返事をして、夕帆はいったん言葉を止めてしまったから、岳登は近況報告は終わったのだと知る。もうすぐ本題に入るはずだ。久しぶりに電話をかけてきた以上、いい話だとはあまり思えない。


「ねぇ、岳登。今日、何の日か覚えてるよね?」


 そう尋ねられて、岳登は返事に迷った。心当たりがまるでない。何らかの記念日だったか。でも、確か夕帆の誕生日は四月だったし、付き合い始めたのも冬の頃だと記憶している。


 すっかり忘れていることを悟られないために、岳登は「ああ、覚えてるよ」と答えたものの、すぐに「じゃあ、何の日か言ってみて」と返されて、答えに詰まってしまう。電話越しにでも夕帆がため息をついたことが分かって、岳登は情けなくなった。


「えっ、本当に忘れてんの? 『青い夕焼け』の公開日だよ? 成海岳登初監督作品の。覚えてないの?」


 タイトルを聞いた瞬間、岳登の頭には一気に記憶が蘇った。撮影時や舞台挨拶の光景が、次々と現れては消えていく。どうして忘れていたのだろう。自分がすっかり映画制作とは縁遠くなっていたことに改めて気づかされて、乾いた笑いが漏れる。あのときは一生忘れないと思っていたのに。


「そうだったな。もう八年くらい前になるか。でも、夕帆よく覚えてたな」


「七年前ね。そりゃ覚えてるよ。私にとっても、初めての主演映画だったんだから」


「そうだよな。ほら、池袋での撮影のとき、公道なのに許可撮らないでいきなり撮影始めて。あのときはドキドキしたよな」


「まあ本当はやっちゃいけないんだけど、あのときは不思議な一体感があったよね。私もいつバレるか、ヒヤヒヤしてたもん」


「そのわりには、夕帆めっちゃいい演技してたけどな」


「何度もテイクを重ねるわけにはいかなかったからね。そりゃ集中するよ」


 思い出話に花を咲かせる二人。電話越しにでも夕帆と話していると、岳登は東京にいた頃に戻ったような気分になる。あの頃はあの頃で大変だったけれど、今では得られない喜びがあった。夕帆の声も弾んでいて、撮影の疲れを感じさせない。


 話を遮るようにして岳登が口を開いたのは、たぶん魔が差したからだった。


「夕帆さ、もし、もしなんだけど」


「ん? 何?」


「俺がまた映画撮りたいって言ったらどうする?」


 一瞬黙った夕帆に、岳登は焦った。でも、驚いているとしたら無理もないとも感じる。岳登は長野に帰るのと同時に、映画監督を引退するつもりでいたのだ。それが今になってまた撮りたいだなんて。何を言ってるんだと思われても仕方がない。


「ごめん。やっぱ嘘。もう俺に映画なんて撮れるわけないもんな。何年現場から離れてるんだって話だし」


「いや、なんでそういうこと言うの? ちょっとびっくりはしたけど、それでも撮っちゃダメとは言ってないよ。いいじゃん、映画。また撮りなよ」


「でも、なんとなく思っただけで、まだ話とか企画とか一かけらもできてねぇし……」


「それはこれから考えればいいことでしょ。そりゃお金とか色んな問題はあるけどさ、映画撮りたいって気持ちは大切にした方がいいと思うな」


「まあもし撮るってなったらさ、私も呼んでよ。どんな小さい役でもいいからさ、協力するよ」何も決まっていないのに言う夕帆に、岳登は意図せず小さな笑いが漏れた。


 再び夕帆と一緒に映画を撮っているところを想像する。でも、おぼろげにしかイメージできなくて、岳登は七年という月日の長さを痛感した。


「ああ。まあ約束はできねぇけどな」岳登がそう言うと、電話の向こうの夕帆もかすかに笑ったのが分かった。一年ぶり以上の電話でもつつがなく話せていることに、岳登の心は癒される。ゆっくり回っていっている酔いも合わせて心地よく感じる。


 それからも少し話して、二人の電話は終わった。スマートフォンを置くと、岳登は再び次に見る映画を選び始める。でも、どの映画もしっくりこない。今見るべき映画は一つしかない。ビールの残りを飲み干すと、岳登はソファから立ちあがった。リビングにその映画が見られる環境はなかった。


 岳登は寝室に向かう。布団の側には岳登が高校生まで使っていた学習机。その上には一台のノートパソコンが置かれていた。調べ物はスマートフォンだけで事足りる。だから、岳登はパソコンに触るのでさえ久しぶりだった。フォルダを開くと、何十ものファイルが表示される。一番日付が新しいファイルを開く。動画再生ソフトで表示されたのは、岳登の初監督、そして現状では最後の作品『青い夕焼け』だった。


 遠景から始まる映画。波打ち際を歩く女性。次のカットでカメラがぐっと寄って、その女性が夕帆であることが分かる。立ち止まる夕帆。波の音が少しずつ大きさを増していき、大音量になり始めたところで一気に止み、黒い画面にタイトル『青い夕焼け』が表示される。


 オープニングのシーンだけで、岳登は既に強い懐かしさと、それと同等の恥ずかしさを抱いていた。最後にこの映画を見返したのは三年以上前のことだったように思う。出来に不満があるわけではないが、映画館で観るような映画と比べると、未熟さは否めない。


 でも、岳登は再生をやめなかった。ここで目を逸らしたら、一生懸命だったあの頃の自分に申し訳が立たないと思った。


 映画は会社のシーンに飛ぶ。夕帆演じる主人公が、上司から企画のダメ出しをされている。この映画は仕事も人間関係もうまくいかない主人公が、病気になったのをきっかけに自分の人生を見つめ直していくという、言ってみればよくあるストーリーだ。彼氏との折り合いも悪く、両親とも疎遠状態が続く。主人公のいたたまれなさは画面によく現れているが、ストーリーの強引さや単純な構図の連続は、今の岳登には正直きついなと思ってしまう部分もある。商業映画がどれだけ洗練されているかを、身をもって知らされるようだ。


 それでも、粗削りながらも情熱のようなものは画面から伝わってくる。そのときの岳登にはそれくらいしか武器がなかったから、伝わってこなくては困るのだが、それでも画面からほとばしる熱に岳登は確かに当てられていた。


 映画は進んでいく。主人公は仕事を辞め、彼氏とも別れてしまい、いったんは静岡の実家に帰っていってしまう。何年も帰ってこなかった主人公の帰省に嬉しいけれど、戸惑いを隠せない両親。夕食のシーンは尺も長く、セリフの量も多いため、撮るのにまるまる一晩かかったと岳登は思い出した。でも、何度も撮り直した甲斐あって、この映画のハイライトともいうべき、いいシーンになっていると贔屓目でも感じる。まずはしっかりと病気を治して、また人生を続けていこう。そんな思いを岳登はアップになった夕帆の顔から受け取った。


 再び海辺へ向かう夕帆。ファーストシーンと同じ画だが、夕帆の姿がどこか希望を抱いているように岳登には感じられた。海を見る夕帆の顔が、西日を浴びて輝く。そこで映画は終わった。エンディングにしっとりとした曲が流れる中、岳登はしばし余韻に浸っていた。確かに拙いところは多分に見受けられる。でも、あのときのベストは尽くせている。そのことが岳登をどこか清々しい思いにさせた。最後に自分の名前が出てきたときは、さすがにむず痒かったけれど。


『青い夕焼け』は一〇〇分ほどあり、見終わったときにはもう日付は変わっていた。全画面表示を終了して、岳登はパソコンを見つめる。何の音もしない静かな空間にいると、今観た映画は自分が監督したのだという実感が、久しぶりに湧いた。まったくヒットはしなかったし、ソフト化も配信もなされていない、吹けば飛ぶような小さな映画だけれど、それでも何年もかけて作った、あのときの岳登たちの汗と涙の結晶だ。それだけは岳登にも誇っていいように思える。自分は映画監督をしていたと久しぶりに思い出し、岳登の目と頭は冴えるようだった。布団に入ってみても、なかなか寝つくことはできない。


 自分が葵座のためにできることは、きっとある。岳登の心は逸り出し、余計眠ることはできなくなっていた。



(続く)

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