第10話 もっと多くの人に
翌日。岳登は再び葵座を訪れていた。仕事終わりに訪れた葵座は平日の夜ということもあって、スクリーンに観客は三人しかいなかった。これでは改修工事の資金はなかなか捻出できないだろう。岳登は映画を観ながらも、心配する気持ちを拭いきれなかった。映画の内容もあまり入ってこないほどに、岳登は気を揉んでいた。
エンドロール中に他の二人は席を立っていたから、映画が終わる頃にはスクリーンにいるのは岳登だけだった。しばし映画の余韻を味わってから、岳登も席を立つ。
売店には今日も栞奈が立っていた。映画を観終えた観客を見送っているのだろう。でも、岳登は売店の前で立ち止まる。もう今日の上映は、今の回で全てのスクリーンを合わせても最後だ。だから、余計な話はあまりしていられなかった。
「成海さん、今日もありがとうございます。いかがでしたか? 今の映画は」
「とてもよかったです。どのシーンも、たとえ悲惨なシーンさえも美しさがあって。いじめられっ子のヒロインが、主人公と心を通わせていく描写は感動しましたね」
「ありがとうございます。他のお客さんからの評判も上々ですし、私どもも上映してよかったなと感じているところです」
「そうですか。良い映画なので、もっとお客さん入ってくれるといいですね」
「本当です」栞奈は実感を込めて言っていたから、他の回もあまり人が入っていないことが岳登には察せられた。改修工事の費用を捻出するどころか、今の状態の経営を続けていくのでさえ苦労しそうだと感じてしまう。今、観客は岳登しかいない。館内の空気が、早く帰ってほしいと言っている。だから、映画の話題が終わると、岳登は単刀直入に切り出した。
「袖口さん。一つお話があるんですけど、よろしいでしょうか?」
「はい。なんでしょうか?」
栞奈は少しキョトンとした顔をしていた。これから岳登が言おうとしていることは、とても想像が及ぶようなことではない。岳登は軽い思いつきで言っているわけではないと分かってもらうために、目に力を込めた。
「袖口さん。ここ葵座を舞台に映画を撮りませんか?」
栞奈の目は一瞬だけど分かりやすいぐらい見開かれていて、岳登は自分が言ったことの突拍子もなさを悟る。監督も脚本もキャストもスタッフも制作資金もまだ何一つ決まっていない状態では、映画を撮ろうなんて提案はまったくの絵空事だろう。
「えっ、それはつまり、葵座が映画に登場するってことですか……?」
「登場するどころか、メインの舞台です。映画館という場所に魅せられた人々の話をここ葵座で撮りませんかと、お話ししているんです」
「いや、それは私だけじゃなんとも……。というか、どうして成海さんが提案するんですか? 映画業界に知り合いの方でもいらっしゃるんですか?」
「はい。知り合いも何も僕は東京にいた頃、映画関連の仕事をしていましたから。もう五年以上も前の話ですけど」
「えっ、そうだったんですか?」
栞奈の顔は、純粋な驚きに満ちていた。それもそのはずだと、岳登は思う。自分がかつて映画業界にいたことは、今まで栞奈には言っていなかった。隠したい気持ちもあったのかもしれない。でも、提案したからには明かさなければならない。もっと緊張すると思っていたが、その言葉は意外なほどすんなりと岳登の口から出てきた。
「はい。何本か助監督で現場に入らせていただいて、商業映画も一本だけですけど、撮らせていただいたことがあります。まあ東京だけでの上映でしたけれど」
「なるほど。じゃあ、監督さんは……」
「はい。できることなら、僕にやらせていただきたいと思っています」
ここに来る前に、何度も頭の中で繰り返した言葉。口にするのに決意が必要だった言葉。
でも、それは言ってみると、思っていたよりも岳登に馴染んだ。深層心理では自分はまた映画を撮りたかったのだということを再確認する。しかし、栞奈の表情は驚いたまま固定されている。自分が撮った映画を観たことがないから当然だろう。岳登は傷つかなかった。
「えっ、でもやるにしても色々大変なんじゃないですか? 準備から撮影、編集に至るまで。人もお金も必要でしょう? というか、そもそもどういう話にするかは決まってらっしゃるんですか?」
「すいません。今の段階ではまだ何一つ決まってません。人に話したのも、袖口さんが初めてなんです」
「そうなんですか……」と答える栞奈は、少し肩を落としていた。少しは話が進んでいると思っていたのかもしれない。その期待に現時点では応えられなくて、岳登は少し申し訳ない思いを抱く。でも、いつかは形にしたいという思いは、岳登の中では消えていなかった。その思いをさらに強くするためにも、岳登は考えを言葉にし続ける。
「袖口さん。改めて言いますけど、僕に葵座を舞台にした映画を撮らせてください。お願いします」
「……なんでこのタイミングなんですか? 今は改修工事ができるかも分からないんですよ……?」
「このタイミングだからです。僕は葵座が好きなんです。初めて映画館で映画を観たのもここでした。だからこそ、僕は葵座を映画に収めて上映することで、もっと多くの人に葵座のことを知ってもらいたいんです。長野にこんな素敵な映画館があるんだぞってことを、分かってもらいたいんです」
「でも、成海さん。それは改修工事ができて、葵座が無事存続できた場合ですよね……? 私は詳しく知らないんですけど、映画を作るのってそんな短時間でできることではないじゃないですか……?」
「それは、なるべく早く作れるように努力します。まだ何も動いてないんですけど、とりあえず明日から映画業界の知り合いに片っ端から連絡しようかなと。万が一の場合も考えて、できる限り早く動き出さなきゃならないですし」
「万が一って何ですか……? 成海さんはもう葵座が閉館すると思ってるんですか……?」
そう訊いてきた栞奈に、岳登は下手を打ってしまったかと焦る。葵座が閉館するなんて考えたくもない。でもクラウドファンディングの状況などから、それは着実に現実のものに迫っている。複合的な焦りを、岳登は声や表情に出さないように努めた。
「いえ、僕だって当然、葵座は続いてほしいと思っています。でも、今回の改修工事を乗り越えられたとして、葵座も決して永遠というわけじゃない。だからこそ、僕は今この状態の葵座を映画に残しておきたいんです。何年か経って、あのときはああだったなと振り返れるように。万が一葵座がなくなっていたとしても、こんな映画館があったんだなと見る度に思い出せるように。僕は葵座を未来に残したいんです」
岳登は噓偽りのない思いを伝えた。市原からの受け売りの部分はあるが、それでも一〇〇パーセント本心には間違いない。栞奈は「成海さん、お気持ちはありがたいのですが……」とお茶を濁していた。別に朝の開館時間前に撮影するなど工夫すれば、営業の邪魔はしない。でも、栞奈の心配事がそこにないのは、岳登にも何となく察せられた。
どうすればいいか。考えた末に、岳登はぱっと思いついたことを口走る。
「分かりました。つまり袖口さんは、まだ話の内容が見えてこないから、ためらっているんですね。だったら、僕が次に葵座に来るときには企画書ないし、脚本の第一稿を持ってきます。判断するのは、それを見てもらってからでもいいですか?」
「でも、さっきまだ何も決まってないって……」
「はい。確かにまだ何もできてません。これから必死に考えます。袖口さんを長くお待たせすることがないように、なるべく早く持ってこれるよう努力しますので」
口が言ったことに、頭はすぐに後悔を始める。決まっていることと言えば、葵座を舞台にすることぐらいなのだ。企画書や脚本ができるまでにどれくらいの時間がかかるか、見当もつかない。少し考えた挙げ句、栞奈も「分かりました」と返事をしたから、岳登の逃げ道は塞がれていく。
「じゃあ、またお願いします」と言って、葵座の外に出る。角を曲がって葵座が見えなくなったところで、岳登は頭を抱えた。企画書や脚本ができるまで、葵座で映画を観ることはできない。どうしようという思いが頭の中を駆け巡る。
それでも、これは自分に必要なプレッシャーなのだと、岳登は思いこんだ。映画を作るためには、何かを犠牲にしなければならない。また葵座で映画を観たいという思いが、モチベーションとなってくれることを期待した。
(続く)
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