第29話 今のままだったら



 この日の撮影は場所をいくつか移動して、夜の八時頃に終了した。初日に撮り漏らした居酒屋でのシーンを含め、予定していたシーンは全て撮影できた形だ。


 駅前のファミリーレストランで夕食を済ませた岳登は、自分の部屋に戻ると改めて、明日の香盤表や撮影スケジュールに目を通した。明日は早朝、開館前に葵座で撮影をしてからは屋外でのシーンを主に撮影する。明日は撮影期間中最後の平日で、明後日からの休日になると人出が増えて撮影が難しくなってしまうためだ。


 岳登は書類に目を通しながら、明日の撮影を想像する。昼間に撮るとはいえ、身を切るような寒さのもとでは、今まで以上にテキパキと撮影をしなければならなさそうだった。


 岳登がイメージを膨らませているなか、唐突にドアが二回ノックされる。ホテルの職員でもやってきたのだろうか。若干不審に思いながらも岳登がドアを開けると、そこには市原が立っていた。明るいグレーの部屋着を着て、手にはタブレット端末を持っている。


「成海、今ちょっと話できるか?」


 市原の態度に、改まった雰囲気を岳登は感じた。とっさに覚えた悪い予感をごまかすために、「何だよ。明日の弁当どうしようとか、そういう用事だったらお断りだぞ」と答える。


 でも、市原の態度は少しも和らがなかった。


「そうじゃねぇよ。撮影に関わる重大な問題が起きてるんだ」


 声色が剣呑な色合いを帯びていたから、岳登は「とりあえず、中入れよ」と、市原を部屋の中に引き入れた。外の喧騒と暖房の稼働音がかすかに聞こえる中、市原が重たい口を開く。


「成海、結論から言わせてもらうわ」


「……ああ」


「今のままだったら、最後まで映画は撮れない。撮れないかもしれないんじゃなくて、撮ることができないんだ」


市原が放った言葉に、岳登は小さくない衝撃を受けた。「……どうしてだよ」と尋ねる言葉がワンテンポ遅くなる。撮り漏らしたシーンはあるものの、撮影はここまで概ね予定通り進んでいる。


「そうだな。色々説明するよりも、まずは現状を見てもらった方が早ぇか」


 市原は手に持つタブレット端末の電源を入れた。いくらか操作した後に、タブレット端末が岳登に渡される。岳登が見た画面には、表計算ソフトが表示されていた。今までの撮影で一日ごとにかかった費用が、表としてまとめられている。


 目を通す岳登。シートを確認するごとに状況が見えてきて、身体の奥が震えだす。


「市原。お前、これって……」


「ああ。この撮影のためにお前が用意した予算は三〇〇万。でも、もう残りは五〇万しかないんだ。これだけの金額、スタッフやキャストの日当二日分だけで消えちまう。要するに予算不足ってことなんだよ」


「……どうして、こんなことになったんだよ」


「お前もそれ見りゃ分かんだろ。一番大きいのは燃料代の高騰だな。車とか外部電源とか、想定の一.五倍の経費がかかってる。他にも居酒屋の使用料とか、急遽必要になった機材や小道具の費用とか。色々足が出た結果がこれだよ」


 市原の説明も動揺した岳登の頭には、ほとんど入ってこなかった。目の前が急に揺らいで見える錯覚さえ起こしてしまう。映画制作にとって、予算の問題は切っても切り離せない。撮影後半になるにつれて予算が足りなくなって、ショットを減らしたり、無理なスケジュールでの撮影を敢行する。そういった現場も岳登は経験してきた。だから少し余裕を持って予算を見積もったのに、現実は想像を軽く超えてしまっている。残り三日の撮影を最後まで行うのは、現状では市原の言う通り不可能と言ってよかった。


「……でどうすんだよ、成海。今のままじゃあと二日で撮りきるしかねぇぞ」


「……いや、それは難しいだろ。ただでさえ、あと三日は朝から晩まで撮影が組まれてるのに。そうでもしなきゃ撮りきれないのは、お前も分かってるだろ」


「じゃあ、最後の一日はタダ働きにするか? 全員完全ボランティアで、日当は目途が立ったら振り込むって形で」


「いや、それは絶対にしたくねぇ。皆それぞれの仕事を全うしてくれてんだ。その仕事に対価を支払わないなんて、俺には考えらんねぇよ」


「じゃあ、本当にどうすんだよ。この危機的状況を解決できる妙案でもあんのかよ」


 途方に暮れるように言った市原に、岳登は考えを巡らす。今の状況を乗り切る手段は一つ。脚本を書き換えることだ。予算が持つ残り二日で、撮れるシーンだけで映画が完成するように、脚本に手を加えるのだ。観客にとってはスクリーンに映るものが全てで、予算不足といった事情は知る由もない。最低限体裁を保つことぐらいはできるだろう。


 だけれど、それは本当に崖っぷちにまで追い詰められた時に取る、最後の手段だ。だから、岳登はまだその手段を取りたくないと感じてしまう。これは葵座があったことを未来に残す大事な映画なのだ。どうせなら脚本も含めて一分の妥協もない映画に、岳登はしたかった。


「……ひとまずこの後にでも、俺から袖口さんに相談してみるわ。金のこととか、何かあったらすぐ相談してほしいって言われてるから」


「そっか。悪いな、こんな状況になっちまって」


「いや、お前は悪くねぇよ。今の状況は誰のせいでもない。現場じゃいろいろ想定してなかったことが起こるから、その度に金がかかるのは仕方がねぇんだ。ていうか、むしろ感謝すらしてるよ。まだ何とかなるかもしれない段階で報告してくれて。これが明後日、予算が尽きた段階で報告されたら、それこそゲームオーバーだからな」


「本当か……? 予算管理ができてない俺のこと、責めたいんじゃねぇのか……?」


「まさか。お前が色々手配してくれてなかったら、今頃撮影できてねぇよ。映画の現場が未経験のお前に、こんな大変な仕事を振って申し訳ねぇと思ってたぐらいだからな」


「まあ俺から『何か手伝えることないか?』って言った結果の今だからな。でも、そう言ってもらえると助かる。ちゃんと制作に貢献できてるって実感が持てて」


「ああ。あと三日だけじゃなくて、それ以降も色々と世話になるからな。引き続きよろしく頼むぜ」


「おう、任せとけ。とりあえず支出で削れるところがないか、もう一回検討してみるわ」


 岳登が了承すると、市原はタブレット端末を抱えて岳登の部屋を後にした。


 一人残された岳登は、パソコンを開く。市原からメールで送られた予算表のファイルをダウンロードすると、そのファイルをメールに添付して、栞奈のメールアドレスに送った。




 翌朝。午前四時半に、岳登は目を覚ました。布団から起き上がると真っ先に窓に向かい、外の状況を確認する。氷点下まで冷え込む夜中に、当然雪は溶けていなかったものの、それでも新たに積もっている様子もなく、岳登は小さく息を吐いた。駅や公園など今日の屋外の撮影は、昼頃から日が沈むまでを予定している。今くらいの雪の残り具合だったら、何とか撮影はできるだろう。


 椅子に座って、今一度この日の香盤表を確認する岳登。すると、充電器に繋がれたスマートフォンが小さく振動した。画面に表示された〝監督、もう起きてますか?〟というラインは、安形からのものだった。


〝はい、起きてますよ。どうなさいましたか?〟


 そう岳登が送信すると、すぐにメッセージには「既読」の表示がついた。


〝相談したいことがあるんですけど、今からお部屋にお伺いしても大丈夫でしょうか?〟


 既読がつくやいなや、安形は返信を送ってくる。午前五時の集合時間までにはまだ少し時間があるし、香盤表は行きの車の中でも確認できるだろう。


〝はい、大丈夫です〟


〝では、向かわせていただきます〟


 そうラインを送ってきてから、ものの二分もしないうちに、安形は岳登の部屋にやってきた。手に握られたいくつもの付箋が貼られた台本を見て、岳登は安形が相談したいことを何となく察する。


「すいません、監督。起きたばかりなのに押しかけてしまって」


「いえ、大丈夫ですよ。それより安形さんこそどうなんですか? ちゃんと眠れてますか?」


「そうですね……。僕も眠りたいんですけど、なかなか眠れなくて……。でも、今日の撮影は何とか持ってくれると思います。寝るのはその後でもいいので」


 安形の目には少しクマが浮かんでいて、岳登は心配せずにはいられない。メイクで隠せる程度のものだったものの、撮影中に万が一のことが起こったらと気が気ではなかった。


 だけれど、安形は気丈に振る舞っていたから、岳登は深く追及することはしなかった。


「そうですか。で、相談とはなんですか?」


「はい。あの、今日はシーン22を撮影するじゃないですか。そこの『舞さんって、東京にいた頃は何してたんすか?』っていうセリフの言い方について、監督の意見を伺いたいなと思いまして」


「なるほど、今はどんな感じで考えているんですか?」


「あっ、はい。今ここでちょっと言ってみてもいいですか? その少し前の『東京ってやっぱ憧れるっすよね』っていうセリフから」


「はい、どうぞ。じゃあ、私が舞のセリフを言いますね」


 岳登もバッグから台本を取り出して、二人は該当するページを開く。安形の台本にはメモがびっしりと書かれていて、相当考えて照という役に臨んでいることが岳登には分かった。


 安形が確認したいやり取りを、二人は台本を読みながらなぞる。安形の口調には適度な軽さと脱力感が見られて、それは北西照というキャラクターを過不足なく表現しているように岳登には思えた。


「……どうですか?」


「いきなり、どうですか? と言われましても……。安形さんはご自身で今の演技どう思ったんですか?」


「僕はここは、もう少し慎重な言い方をした方がいいと思いました。ここは舞が長野に帰ってきた理由にも直結する大事なシーンなので、そこまで軽くしない方がいいのかなと」


「そうですか。では、私の意見を言わせてもらっていいですか?」


「は、はい」


「私は、本番も今と同じような調子で演技をしてほしいと感じました。舞が長野に帰ってきた理由を、まだこの時点での照は知りませんから。変にシリアスな雰囲気にする必要は、私には感じられません」


 二人の意見は対立してしまう。歯切れの悪い返事をした安形は、きっとバツが悪く感じているのだろう。岳登に従わなければならないと思っているのかもしれない。


 だけれど、もしそう思っているとしたら、それは誤解だと岳登は感じる。確かに最終決定権は岳登にあるが、それは立場の違いを意味しない。他のどのスタッフにも言えることだが、監督と俳優は対等な立場にあるのだ。


「でも、これはあくまで私の一意見ですから。参考にするかしないかは安形さんの自由です。どうぞ自分が思うように演技をなさってください。実際に大滝さんを相手にしたときには、また違った印象になりますしね」


「それで本当に大丈夫なんでしょうか……?」


「大丈夫ですよ。少し違うなと思ったら、僕も正直に言いますから。演技は俳優と演出部が話し合って作り上げていくものですよ。安形さんだけに責任を負わせることはしません」


 岳登がそう言っても、安形はまだどこか不安そうな面持ちを浮かべていた。もしかしたらまだ自分に自信が持てていないのかもしれない。


 影が垂れこんでいる安形の表情を慮って、岳登は冷静に言葉を選んで声をかける。



(続く)

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