第30話 今日も撮影を
「安形さん、もしかしてまだ不安ですか?」
優しくかけたはずの言葉。でも、目をしきりに瞬かせる安形には、切迫感を持って届いてしまったようだった。
「……それは、はい。否めないです。何度もNGを出して他の方々に迷惑をかけてしまったら、僕のせいで映画が完成しなかったらと思うと、不安でたまりません。ぐっすり眠ることなんてできないです」
「そうですか。でも、安形さんは今日まで立派に、北西照という役を演じてこられたじゃないですか。僕としても不満はありませんし、もう少しだけでも自分に自信を持つことは難しいですか?」
「は、はい……。すいません。でも、今まで演じてこられたからって、同じように今日もできるとは限らないじゃないですか。きっと撮り終わるまで、いや撮り終わってからも実際に完成した映画を観るまで、不安はなくならないんだと思います」
安形が吐露した心情は、岳登にもよく理解できた。自分たちは、今までになかったものをゼロから作り出そうとしているのだ。今の段階では、完成できるかどうかは、これからの自分たちの頑張りにかかっている。映画を作るということはそうした不安と戦うことだと岳登は思う。
岳登は安形から目を逸らさない。たとえ安形が自分の顔を見ていなくても、目を離してしまったら、伝わるものも伝わらないと思った。
「安形さん、まず一つ言っておきます。映画は必ず完成します。安形さんがどのような演技をしても、私たちが絶対に映画を完成させます」
自分で口にしておきながら、どの口が言ってるんだと岳登は感じてしまう。現状では予算不足で最後まで撮りきれるか分からないというのに。
でも、そういった事情をおくびにも出さないように、岳登は目と言葉に力を込めた。安形の目も再び岳登に向く。
「それに、不安なのは安形さんだけじゃありません。皆口に出さないだけで、同じような不安を抱えていますから。もし不安がまったくない人間がいたとしたら、それは過信や慢心をしている状態です。そんな人間、正直私は心の底から信じることはできません」
そう話す岳登に、安形は無駄な言葉を挟まなかった。
「ですから、私は不安を感じている安形さんのことを信頼しています。創作に不安はなくてはならないものですから。不安があるからこそ、それを軽くするにはどうすればいいか、もっと良いものを作るにはどうしたらいいか、考えが働きますからね。ですから、安形さんも不安を完全になくそうだなんて思わないでください。でも、不安に苛まれすぎてもいけないので、少しでも軽減できるよう考えたり、動いたりする必要はあります。動くのを止めてしまったら、あっという間に不安に飲みこまれてしまいますからね」
夜が明ける前とあって、外からは車の走行音も聞こえず、部屋は実に静かだった。それが二人の間に流れる空気に、信憑性を持たせる。
「ですから、安形さん。今日も撮影を続けましょう。不安を撮影素材に変えられるように。少しでも映画を完成に近づけられるように」
強く言い切ることで、岳登は噓偽りのない思いを伝えようとした。一拍置いてから「はい。分かりました」と答える安形。じっと岳登に向けられた双眸は、仕方なしに言っているわけではなさそうだった。
岳登も頷いたところで、机の上のスマートフォンが振動する。篠塚から〝先発組、全員集合しました〟とラインが来たのだ。気がつけば集合時間まではあと五分を切っている。岳登は「では、そろそろ現場の方に向かいたいんですけどよろしいですか?」と安形に尋ねた。頷いて部屋から出る安形。
岳登が荷物をまとめて部屋を後にした時にも、安形はまだドアの側に立っていた。「監督、今日もよろしくお願いします」と改まったように言っている。その口調に迷いは見られなくて、岳登も気を引き締めながら「はい、よろしくお願いします」と答えていた。
全員が葵座に到着して段取りを組んだ頃には、既に夜は開けて外は清々しい明るさに包まれていた。岳登たちはさっそくテスト撮影に入る。今日は舞と照のシーンからの撮影だ。舞はチケット売り場に座って、照は売店に立っている。三スクリーンとも映画を上映中で、観客がなかなか来ない時間帯という設定だ。暇を持て余した照が舞に話しかけるところから始まる、何気ないけれど重要なシーンである。
「はい、カット! OKです! 次から本番でお願いします!」
篠塚が現場全体にそう告げると全員が頷いて、本番への態勢を整え始める。
テスト撮影は一回で終わった。夕帆も安形も満足できるような演技をしていて、岳登としては「本番もその調子でお願いします」くらいでかける言葉は十分だった。全ての部署の準備が整ったことを確認して、「はい、それではいきます! 回してください!」と篠塚が言う。「回りました!」と望美が応えて、モニターの画面にも録画が開始された表示が浮かぶ。
「シーン22、ショット1、テイク1!」と言って、カメラの前でカチンコを打ち鳴らす篠塚。応えるように岳登は「よーい、スタート!」と発した。館内の空気が、一瞬にしてより引き締まる。
『舞さん、東京ってやっぱ憧れるっすよね』
『どうしたの、いきなり』
『いや、だって何でもあるじゃないっすか。スタバにライブハウスにカラオケに。映画館の数もこっちよりずっと多いでしょうし』
『それ全部長野にもあるけどね』
『まあ、いいじゃないっすか。あっ、そういえば舞さんって昔東京にいたんすよね。舞さんって、東京にいた頃は何してたんすか?』
舞は言葉を詰まらせる。演じる夕帆の表情も雲がかかっているように曖昧で、それは岳登がイメージした通りでもあった。
『……ま、まあね。色々だよ』
『ふーん、そうっすか』
安形がセリフを言い終わったところで、館内には何とも言えない沈黙が流れる。編集で必要になるから、シーンが終わっても数秒はカメラを回したままにしておく必要がある。「はい、カット」と岳登は言う。全員の視線が自分に集中するなか、岳登は次の言葉を発した。
「OK」
岳登の声を拾って、「はい、このカットOKです!」と篠塚が現場中に拡散する。館内の緊張状態は少し緩み、いいスタートを切れたという感覚が辺りに漂い始める。
「次、ショット2の準備します。キャストの皆さんはお楽にお待ちください」と篠塚が言うと、撮影部は次の夕帆のワンショットに向けて準備を始める。その傍らで、台本を今一度確認している夕帆と安形に岳登は進んで声をかけた。
「大滝さん、安形さん。よければ今撮影した映像、確認してみますか?」
岳登の呼びかけに二人も応じて、三人はモニターのもとへと向かっていく。岳登はモニターを操作して、画面に今しがた撮影したシーンを流した。改めて見ても今撮ったシーンへの注文は、岳登には見当たらない。アングルや照明の出来も良く、観客が自然に観られるシーンになっていた。
「大滝さん、今日もいい演技をありがとうございます。悩みや迷いを抱えている舞のキャラクターが、うまく表現されていると思います。次のショットもこの調子でお願いします」
確認を終えて、岳登は夕帆を労った。二人でいるときはタメ口で話しているのに、現場では敬語を使っていることは少しこそばゆい感じがする。でも「はい、了解しました」と答える夕帆の表情は竹を割ったように爽やかで、気負いは感じていないようだった
「それと、安形さん」
岳登の呼びかけに、安形は「は、はい」と緊張したように応える。OKだからそこまで委縮する必要はないのにと、岳登は小さく微笑みかける。でも、それは安形の緊張を和らげることには繋がっていなかった。
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。今の演技、基本はあっけらかんとした感じを保っているんですけど、少しシリアスめいた表情も帯びていて、いい演技でした」
「あ、あの、すいません。朝出発する前に監督と相談したのに、監督が提案する通りにやらなくて。で、でも僕はやっぱり少しはシリアスな感じもあった方がいいと思ったんです」
「どうして謝るんですか? 安形さんの演技にOKを出したのは私なんですよ? 実際、カメラを通して見てみると、大滝さんとのやり取りの中で、北西の切実に東京に憧れる思いが表現されていて、安形さんの認識は正しかったと感じました。私のイメージを超える演技をしてくださって、感謝しています」
「は、はい」と応えた安形の返事は、今度は若干の照れくささを帯びていた。岳登に褒められて、戸惑ってすらいるのだろう。横では夕帆も安形に優しい目を向けている。
安形を否定する者は、この現場にただの一人もいなかった。
「大丈夫です。安形さんは役者ですよ。ちゃんと自分の意図や考えを演技に反映させられる、立派な役者です。私が監督をしていてよかったなと思うのは、全員の力で今みたいなイメージを超えるシーンが撮れた時ですから。その全員には安形さんもちゃんと入ってるんですよ。次のショットは安形さんはカメラには映りませんけれど、それでも今のような感じでもう一度お願いします」
「はい!」安形の表情は、いい具合に引き締まっていた。緊張もありながらも、自信も確かに存在している。そんな理想的な表情だった。
話が終わったことを察したのか、「じゃあ、私たち立ち位置に戻りますね」と夕帆が言って、二人は岳登のもとから離れていった。撮影部のセッティングも終わって、篠塚が改めて「それでは、再び本番いきます!」と告げる。カチンコが鳴らされてから、「よーい、スタート!」と、岳登は極めてポジティブな声色で発した。
(続く)
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