第22話 クランクイン
リハーサルは岳登たちが、葵座を訪れた翌日も続いた。全てのシーンを確認することはできなかったが、それでも岳登は手ごたえを感じていた。夕帆も椎菜も仁川も岳登の想像以上の演技をしてくれていて、岳登は明日から始まる撮影に期待を抱く。沼田や伴戸といった撮影スタッフも、それぞれの十全に役割をこなしてくれている。撮影に当たって不安要素は一つもない。
そう岳登は言いたいところだったが、正直まだ心配は完全には拭いきれない。その最たるものは安形だ。安形はとうとう最後まで、岳登が求める水準にまで達しはしなかった。学生映画には出ているはずなのに、カメラの前だとまだ緊張してしまうのは、キャストやスタッフたちが気心知れた仲間ではないからか。もちろん安形がカメラに慣れていないことは織り込み済みだが、でもリハーサルでの安形は悪い意味で、固くなってしまっていた。岳登が合間合間に声をかけても、上手くできない自分を責めてしまってさえいた。他のキャストのフォローも十分には耳に入っていない様子で、リハーサルが終わった今、岳登にできることと言えば、安形が本番に強いと祈ることぐらいだった。
机に座って、明日からの香盤表や撮影スケジュールを今一度確認する。岳登は自分の家ではなく、長野駅近くのホテルの一室にいた。同じホテルには、篠塚や夕帆をはじめとしたスタッフやキャスト全員が泊まっている。撮影に向けてやり取りを密にする必要があり、岳登だけが離れた家にいては都合が悪かったからだ。
岳登が香盤表から目を離して、缶コーヒーを飲みながら一息ついていると、タイミングを見計らったかのように、スマートフォンが振動した。画面には「袖口さん」と表示されている。スマートフォンを手に取って、耳に当てる岳登。栞奈の落ち着いた声は、電話越しでも変わることはなかった。
「夜分遅くにすみません。成海さん、今お電話大丈夫ですか?」
疑問形から電話を始めた栞奈に、岳登は快く「はい、大丈夫ですよ」と答える。夜の九時くらいだったから、まだ寝るような時間でもなかった。
「いよいよ明日から撮影開始ですね。どうですか、成海さん。緊張してますか?」
「そりゃちょっとは緊張しますよ。僕にとっては映画の現場というだけでも、五年ぶりなんですから。しかも監督で。自分から言い出したこととはいえ、今日はドキドキしてなかなか眠りにつけなさそうです」
「そうですか。私もドキドキしています。葵座が映画になる日が来るなんて、先代の支配人から経営を引き継いだときには想像もできませんでしたから。どういう風に映されるのかと考えると、私が撮影するわけでもないのに、胸が高鳴ります」
「そうですね。昨日も言いましたけど、葵座の魅力を映像に映せるように、精いっぱい撮らせていただきます。安心して僕たちに任せてください。良いスタッフとキャストが揃ってますので」
「はい。どう撮るかは、もともと私が口出しできることじゃないですし、成海さんたちに全てお任せします。私が何も言わなくても成海さんたちは素晴らしい映像を、映画を撮ってくださるはずですから」
栞奈に改めて言われて、岳登の身はより引き締まった。自分たちには葵座を、良く撮る責任がある。それが朝早くや夜遅くに葵座を開けてくれる栞奈たちに報いる、唯一の方法だ。岳登は小さく笑みをこぼす。栞奈もかすかに笑ったのが、岳登にはそれとなく伝わった。
「成海さん、改めてありがとうございます。葵座を舞台に映画を撮ると言ってくださって」
「急にどうしたんですか、袖口さん。まだ撮影は始まってないんですよ」
「いえ、今でなければ言う機会はなかなかないので言わせてください。私、成海さんが葵座を舞台に映画を撮るって言ってくださったとっき、嬉しかったんです。閉館に向かっていってしまう葵座を、どうにかして残す方法を探ってましたから。物理的に葵座を残すことはできませんでしたけれど、それでも映画の中には残すことができる。観れば葵座の姿を再び思い出すことができる。その機会を与えてくださった成海さんには、感謝してもしきれません」
「いえいえ、袖口さん。お礼を言うのは僕たちの方ですよ。袖口さんが撮影許可を出してくれなかったら、この映画の話は始まらなかったんですから。それに、明日からの撮影にも最大限協力してくださって。僕たちの方こそ、どれだけ感謝しても足りないくらいですよ」
まだ何もできていないのに、感謝を伝え合う二人。傍から見れば遜り合っているように見えるかもしれないが、少なくとも岳登にとっては紛れもない本心だ。好きな葵座で映画を撮ることができて、これ以上に嬉しいことはないと感じる。
「成海さん、改めて明日からまたよろしくお願いします。良い映画を作ってください」
「はい。スタッフ・キャスト全員の力を合わせて、良い映画を作ります」
岳登が断言したのは、栞奈だけでなく自分にも言い聞かせるためだった。自分たちが作るのはただの映画ではない。葵座があったことをこの先ずっと残すための、大事な映画だ。そう思うと、岳登は武者震いさえしてくる。
電話を切ると岳登は、今一度撮影スケジュールに目を通した。七〇分の映画を一週間で撮りきる。予備日はない。だから、幾度にもわたる入念な確認が必要だった。
撮影初日の朝。岳登が起き出したのは、朝の四時半だった。当然窓の外は暗いし、いくら昨夜早く眠りについたとしても、頭はまだ眠気に支配されている。だから、岳登は昨日買っておいたペットボトルのコーヒーで眠気覚ましを、惣菜パンでエネルギー補給を図った。支度をして最後に再び香盤表に目を通す。夜までびっしり詰まったスケジュールを目の当たりにして、今日十に全てを撮りきらなくてはならないと思うと、背筋が伸びる感覚がした。
ホテルのロビーに岳登が降りると、既に先発組のスタッフは全員揃っていた。篠塚と市原と伴戸。誰も彼も初日特有の緊張感に包まれていて、眠そうな顔はしていない。協力して機材を車に積みこみ、榎の運転で葵座へと向かう。葵座がある道枝商店街に車は入れない。なるべく葵座の近くの道路に車を停めて、岳登たちは荷物を持って葵座まで歩く。まだ夜明けを迎える前の空気に、わずかな時間でも岳登たちは身体を震わせていた。
四人が葵座に到着すると、既に館内の照明はついていた。栞奈が早起きをして、葵座を開けてくれたのだ。四人は感謝しながら、葵座の中に入る。まだ暖房をつけ始めたばかりなのだろう。館内は寒かったが、それでも撮影が始まる頃には十分に暖かくなっているはずだ。岳登たちはもう一度、今日の撮影場所を見て回る。事務室やスクリーンは一昨日訪れたときと何も変わっていなくて、予定通りに撮影できそうだった。
岳登たちが到着して二〇分後。次発組である望美と星名の撮影部、それに機材の積み込みのためにホテルに戻っていた市原が葵座に機材と共にやってきた。栞奈へ挨拶をしてから、望美と星名は機材のセッティングを行う。打ち合わせ通りに照明を組み立てたり、カメラの設定を調整する二人に、岳登と篠塚も一緒になって逐次確認をする。夕帆たち俳優部がやってくるのは、約三〇分後。それまでに最初のセッティングを完了させる必要があった。
次に和花や秋代といった美術部が衣装や小道具を持ってやってきて、今回の待機場所兼更衣室になっている葵座の隣のオフィスへと向かっていく。そして、岳登が葵座に到着してからおよそ一時間後。最後に夕帆たち俳優部がやってきた。今いる全スタッフとキャストを一度集合させ、改めて栞奈への挨拶を行うと、俳優部は衣装に着替えるために隣のオフィスへと向かっていく。寒かった館内は待っている間に、すっかり暖まっていた。
「各部署準備よろしいでしょうか? まもなくキャストの方入られます」
待機場所からの電話を受けて、篠塚が岳登たちスタッフに告げる。「OKです」と、それぞれのスタッフが応える。篠塚は待機場所に折り返しの電話をかけて、俳優部を呼びこんだ。夕帆たち俳優部は、和花や秋代といった美術部と一緒に館内に入ってきた。ウインドブレーカーを脱いで、夕帆たち四人は一列に並ぶ。衣装を着ているところを改めて見ると、自分のイメージ通りだと岳登は感じた。
「皆さん、おはようございます。では、さっそく紹介させてください。まずは金子舞役・大滝夕帆さんです。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」夕帆が簡単に挨拶をすると、衣装合わせのときのように、他のスタッフやキャスト全員から暖かい拍手が飛ぶ。顔を上げた夕帆の表情は穏やかで、余計な緊張はしていないように岳登には見えた。
「続きまして、北西照役・安形創羽さんです。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」短い挨拶でも安形の声はどこか上ずっていて、緊張を隠しきれていない。でも、初めて自主映画の現場で撮影を行うから、無理もないだろうと岳登はさして問題視しなかった。緊張を軽減させるための方策は撮影しながら考えるが、きっと何とかなるだろうと自分に言い聞かせる。
「続きまして、
「よろしくお願いします」
「続きまして、
「よろしくお願いします」
椎菜と仁川はさすがに多くの撮影や舞台を経験しているからか、声には落ち着きが見られて、岳登は頼もしく感じる。微笑む余裕さえ二人にはあった。
「それでは、成海組『ミニシアターより愛を込めて』クランクインです! 皆さんよろしくお願いします!」
『よろしくお願いします!』意識しなくても、自然とスタッフやキャストの声は揃う。まだ朝の七時前だというのに、誰もがはきはきとした声を出していた。いよいよこれから撮影が始まる高揚感に、館内全体が包まれていた。
(続く)
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