第21話 どのミニシアターにも
岳登はコンテや演出プランの確認。篠塚は撮影スケジュールや香盤表の作成。夕帆たちは台本の読み込みと演技プランの構築。それぞれのスタッフやキャストが自分にできる準備を進めていると、日々はあっという間に過ぎ、カレンダーも残り一ページとなった。
気温は明け方には氷点下まで下がるようになり、市街地でも雪が降り出すのは時間の問題となったある日の朝。岳登は自転車に乗っていた。三〇分ほど寒さに震えながら自転車を漕いで、岳登は葵座に辿り着いた。集合時間の前にも関わらず葵座の鍵は開けられていて、岳登は身を縮こませながらロビーに入る。
集合時間三〇分前ということもあって、まだ館内に人はいない。暖房がつき始めたばかりで、まだ少し肌寒いロビーで、岳登は持参した水筒のコーヒーを飲みながら、他のスタッフやキャストがやってくるのを栞奈と待った。
篠塚から〝長野駅を出発しました〟というラインが、集合時間の二〇分ほど前に入る。東京組のスタッフやキャストがやってくる前に、葵座には安形や伴戸、市原といった長野在住のメンバーが続々と集まってきた。誰一人として眠たそうな顔はしておらず、緊張を抱えながらも引き締まった表情をしている。そのまま集まった人間で少し話していると、ドアが開いて、篠塚や夕帆ら東京組のメンバーが一気に入ってきた。全員が揃うのは衣装合わせの日以来だったから、岳登は少し懐かしさにも似た感情を抱いてしまう。だけれど、まだ何も始まっていないから感慨に浸るわけにはいかない。
栞奈に案内されて岳登たちは今一度、館内を見て回る。スクリーンはもちろん、チケット売り場の奥にある事務室やそれぞれの映写室も見せてもらう。岳登や篠塚たち一部のスタッフは、先週のロケ打ちで既にどういった空間かは把握していたが、改めて栞奈の説明を聞きながら見ると、また違う場所かのような印象を抱いた。
葵座で働く設定の夕帆や安形たちは、栞奈の話をメモを取りながら聞き、時折質問もしていた。栞奈からの回答を受けて、何度も頷いてもいた。
栞奈による葵座の案内と説明は、開館となる上映開始三〇分前にはあらかた終わった。岳登は映画までの時間を、篠塚や他のスタッフと今できる限りの打ち合わせをして過ごす。他のスタッフやキャストも台本や修正点を今一度確認したりと、準備に余念がない。幸い開館してすぐの時間は観客もまだ入って来ず、岳登たちは時間を映画制作のために使えていた。
でも、上映開始一五分前にもなると徐々に観客も館内に入り始め、一〇時ちょうどになった瞬間には、上映開始を知らせるベルの音が鳴って、スクリーンの照明は一気に落とされた。
間もなくして始まった葵座名物の猫のキャラクターのマナーCMに、初めて観る夕帆や篠塚たちは何を感じているのだろう。
いくつかの予告編を経て始まった映画は、心の病気を患っている男性が主人公の邦画だった。毎日欠かさず、走らずにはいられない主人公。それを演じた俳優の楽しそうにしていてもどこか魂が抜けていて、死の影を纏っている雰囲気に岳登は圧倒される。映画は二つのストーリを代わる代わる映す形で構成されていて、少しずつそれぞれの人生が交差していく展開に瑞々しい感動を覚える。だけれど、常に死の影はあって、それはふとした瞬間に牙を剥いてくるけれど、それでも自分たちは生きていかなければならない。静かな映画から、岳登はそういったメッセージを受け取った。全員が集中を切らさず、スクリーンに見入っているのが感覚で分かる。ただ静かな感動を黙って共有できれば、それで十分だ。それだけの力が、映画にはあった。
映画が終わって、岳登たちがひそやかな余韻を湛えたままスクリーンから出ると、ロビーには栞奈が立っていた。岳登たちに細められた目が向けられている。
「皆さん、映画いかがでしたか?」
栞奈は落ち着いたように聞いていたが、声色から岳登たちがどんな感想を抱いたのか、気になって仕方ないという思いが滲み出ていた。岳登も小さく目を細める。心配に思うことはないと言うように。
「凄く良かったです。静かな映画で、エンタメ的な面白さとはまた違った面白さがありました。俳優の演技や撮影などから死の匂いがかすかに漂っていて、それが僕個人としてはとても好みでした」
「映画ももちろん良かったんですけど、スクリーンの雰囲気も良かったです。葵座って木造ですよね。木造ならではの温かみやアットホームな雰囲気を感じて、映画に集中することができました。今まで私が行った、どのミニシアターにもない雰囲気がありました」
岳登に続いて、夕帆が感想を述べる。岳登も心の中で大いに頷いた。葵座はいつ訪れても、他の映画館にはない居心地の良さがある。
「ありがとうございます。初めて来てくださった大滝さんにそう言ってもらえると、私としても嬉しいです」
「こちらこそ今回は、こんな素晴らしい葵座を舞台に映画を撮らせていただいて、改めてありがとうございます。この葵座の雰囲気を少しでも映像に残せるように僕たちも努力しますので、袖口さん、また明後日からよろしくお願いします」
「はい。こちらこそお願いします。成海監督、スタッフ・キャストの皆さん、改めて良い映画期待してますよ」
さりげなく栞奈からプレッシャーをかけられて、岳登は小さな苦笑を漏らす。それは他の人間から同じように苦笑が漏れているのを、岳登は背中で感じる。でも、ロビーの空気が悪くなることはなく、「はい、がんばります」と岳登は心から言うことができた。
『本日からこちらで働かせていただきます、金子舞です。映画館の仕事は初めてですが、精いっぱいがんばります。皆さん、何卒よろしくお願いします』
頭を下げる夕帆。その手に台本は握られていない。安形たち三人の拍手を受けて恥ずかし気に顔を緩める夕帆を、岳登は貸し会議室の窓際に設置されたモニターの画面を通して見ていた。カメラは四人の姿を一つの画面に収める。その隣にはブームの先にガンマイクを、カメラに映らないギリギリの位置にまで伸ばしている伴戸がいた。
『はい、金子さん。こちらこそよろしくお願いします。改めてようこそ長野葵座へ。職員一同歓迎しますよ。と言っても三人だけなんですけどね』
冗談めいたように微笑む
映像も音声も今回初めて撮ったわりには、よく撮れていると岳登は感じる。望美はともかく、伴戸には信じようとしても一抹の不安は、正直岳登には拭えなかった。でも、伴戸も撮影のためにしっかりと勉強してきたらしい。超指向性のガンマイクは保護材をつけているおかげで、ノイズが少なく聞き取りやすかった。
撮影された映像を見終わると、全員の視線が岳登に向く。率直に言って、現状でも観客に見せることのできる最低限のレベルには達していると思う。でも、それはあくまで「最低限の」という話だ。ここからさらに良いシーンにするためには、まだまだ改善が必要になる。
岳登はスタッフやキャスト陣のもとを振り返った。
「悪くはないと思います。撮影も録音もクリアですし、俳優部の皆さんもキャラクターの造形を掘り下げるなど、撮影に向けて準備してきたことが窺えました」
岳登がよく撮れていることを認めても、貸し会議室の雰囲気はより緩むどころか、かえって引き締まった。きっと誰もがこの後にダメ出しがなされることが分かっているのだろう。
でも、岳登はあくまで改善点を述べるだけだから、表情を険しくはしなかった。
「ですが、まだ始まったばかりなので当然ですが、最高とは言えません。大滝さん、ここは舞が緊張と期待の両方を抱いている場面です。もちろん緊張の方が大きいですが、今の大滝さんの演技は少し緊張に寄りすぎていました。もっと期待というか、楽しみな感じを演技に織り交ぜていただけますか?」
「もっと明るい表情や、はきはきした声で臨んだ方がいいということですか?」
「方向性で言えば。どれほどの塩梅にするかは大滝さんにお任せしますが、次はその辺りをもう少し意識してみてください」
夕帆の返事は、明るくはっきりとしていた。演技の修正は、演じた俳優の否定に直結しない。快活な返事で夕帆はそう示していて、岳登としても演出をしやすくなる。岳登は椎菜と仁川の二人にも、自分が考えている演技の方向性を改めて伝えた。二人はキャリアを積んでいるから、たった少し話しただけでも岳登が考えていることを理解してくれて、岳登としてはやりやすかった。
でも、その一方で岳登が三人と話している間にも、安形は分かりやすく縮こまっていた。まるで自分の演技が全否定されると恐れているかのように。当然修正したいところはあったが、でもそれは微調整のレベルだ。岳登は穏やかな声色で、安形に呼びかける。
安形の返事は消え入るようで、少し軽薄な照を演じた先ほどまでの姿とは、似ても似つかなかった。
「安形さんも基本的には、方向性は先ほどの演技で間違っていません。いい意味での浮いた感じも、狙い通りに出ています。でも、僕としては少しオーバーアクト気味に感じました。特に『金子さんって、彼氏いたりするんですか?』というセリフは、少し小馬鹿にする感じが出すぎていたと思います。北西は純粋な興味で訊いているので、もう少しトーンを落としていただけるとありがたいです」
岳登としては、丁寧に言葉を選んで告げたつもりだ。でも、安形はそれを否定と受け取ってしまったようで、縮こまりながら「それって僕の演技がダメってことですか……?」と、ネガティブな反応を示している。岳登にそんな意図はない。万が一にも怒っていると誤解されないように、岳登はやや表情を緩めた。
「そういうことではないですよ。安形さんの演技がダメなんてことは、まったくありません。ただ僕は、こうしたらもっと良くなるという提案をしているだけです。鵜呑みにする必要はありませんが、少しは聞き入れてもいいのではないでしょうか」
これは映画作りには必要な過程なのだと、岳登は言葉だけでなく、目でも安形を説得する監督ら演出部と俳優部とのコミュニケーションの中で、演技はより磨かれていくのだ。
安形も納得したのか、おずおずとだが頷く。その姿を見て岳登は、場にいる全員に「では、もう一回いきましょう」と告げた。篠塚が「もう一テイクいきます。皆さんスタンバイお願いします」と拡散する。もう一度先ほどの状態に戻っていくスタッフ・キャストたち。
全員の準備が整ったのを確認してから、篠塚が「シーン12、ショット1、テイク2」と、本番さながらにカメラの前でカチンコを鳴らす。岳登は全員に向かって、「よーい、スタート!」と声をかけた。夕帆たち俳優部は、先ほどと同じシーンを始める。モニター画面の中で、岳登の目は自然と安形とその周辺に向いた。安形は、思い上がった言い方をするならば、これから育てていかなければならないのだ。安形がセリフを言う。先ほどはオーバーアクト気味だったが、今度はやや過少気味で、岳登のイメージとはまた違っていた。それを一〇〇パーセント丸写しにする必要はないものの、また修正が必要になりそうだと感じてしまう。やはりカメラやマイクが入ると緊張してしまうのか。
シーンが終わって、岳登は「はい、カット」と声をかけた。少し考えこむ。リハーサルが終わった後にでも、また安形に声をかけようと感じていた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます