第23話 よーい、スタート!



「では、さっそく本日撮影する最初のシーン、シーン5の段取りを始めていきます。監督、よろしくお願いいたします」


「はい。皆さん、改めて監督の成海岳登です。本日から七日間、タイトなスケジュールでの撮影ですが、改めてよろしくお願いします」


『よろしくお願いします』


「では、さっそくシーン5の段取りですが、まず舞さんがスクリーンから出てきて、そちらの長椅子に座ります。そして、映画の余韻を味わっているうちに自然とまた涙が出てきます。そうしたら、あちらの事務室から美里さんが舞さんのもとにやってきて声をかけます。その間、照さんと宗太郎さんは……」


 岳登は身振り手振りを交えながら、キャストに芝居の大まかな動きを説明する。ここはリハーサルでも確認していた箇所だったから、夕帆たちにも分かりやすかったのだろう。特に疑問を挟むことなく、頷いてくれていた。


「では一度、シーンの頭からお芝居通させてください」


 篠塚がそう言うと、四人は説明されたとおりの初期位置についた。スクリーンの中にいる夕帆にも聞こえるように、岳登は大きめの声で「よーい、スタート!」と指示を出す。


 岳登の声を受けて、夕帆がスクリーンから出てきて、シーンは始まった。長椅子に座った夕帆はまだ涙は流していなかったが、今は流れを確認することが目的だから、本番で涙を浮かべてくれれば岳登には構わない。岳登はモニターを通して、四人の動きを確認する。四人は概ね岳登のイメージ通りに動いて喋ってくれていた。カメラに映るのは、監督である岳登の演出と実際に演じる俳優の個性が混ざり合った「演技」だ。


 だから、岳登は「はい、カット」と言って、シーンを終えると迷わず「OK」と言うことができる。一回でOKが出たことで、かすかに安堵する館内。岳登がふと振り向くと、挨拶の後も残って撮影を見学していた栞奈が、慎ましげな表情を浮かべていた。


「それでは、まずショット1から撮影していきます。お芝居は冒頭からシーンの終わりまで通しでお願いします。では準備よければテストやらせてください。はい、テスト!」


 段取りの確認に加え、カット割りの整理も終え、待機場所から戻ってきたキャストが初期位置につくと、篠塚が高らかに発した。それに応えるように、スタッフたちも『テスト!』と声を合わせる。気合いが漲った声に、岳登も毅然とした表情で「よーい、スタート!」と言うことができた。


 篠塚が画面の外でカチンコを鳴らし、本番前のテストが始まる。スクリーンから出てきて、長椅子に向かっていく夕帆を、望美が車椅子に座った状態で市原に車椅子を引かれながら、カメラに収めていく。


 長椅子に座り、星名が用意したキーライトに照らされる夕帆。椎菜とセリフのやり取りをするのを、カメラに映らないギリギリの位置にガンマイクを構えた伴戸が捉える。


 スムーズに演技を行っていく夕帆たち。モニターを通して見た画は、自分が思い描いていた通りのもので、修正を施す必要は、岳登には感じられなかった。


「はい、カット! OKです! 次から本番でお願いします!」


 岳登の承認を受けて、篠塚が「では、次から本番で行かせてください。各部署準備お願いします。よくなったら声ください」と改めて声をかける。キャストは再び元の位置に戻っていき、各部署は本撮影の準備を始める。全員の準備が完了すると、館内の緊張はにわかに増していく。少し鳥肌が立つ感覚を、岳登は『青い夕焼け』以来、七年ぶりに味わった。


「はい、それではいきます! 回してください!」


「回りました!」


「シーン5、ショット1、テイク1!」


 篠塚がカメラの前でカチンコを打ち鳴らす。館内に漂う緊張が密度を高め、ピークに達する。岳登は息を一つ呑んで、「よーい、スタート!」と七日間に及ぶ撮影の口火を切った。


 夕帆が三度スクリーンから出てくる。数分前のテスト撮影のときよりも、身に纏う雰囲気が明らかに深まっているのを、岳登は画面越しでも感じた。放心したような表情を見せて、長椅子に座る夕帆をカメラはバストショットで捉える。観ていない映画を思い出すかのように、しばし壁を見つめる夕帆。すると、頬を光るものが伝った。その表情に岳登は監督でありながら引きこまれていく。撮影初日の最初のシーン。そこでいきなり涙を流す難易度は、決して低くない。一応目薬も準備していたのだが、夕帆の高い集中力と想像力を目の当たりにして、そんな心配は無用だったと岳登は知った。


『今の映画良かったですよね。私も事前に観させていただいた時、思わず泣いてしまいましたから』


 段取り通り椎菜が歩み寄ってきて、カメラの外から夕帆に声をかける。顔を上げた夕帆の顔は、斜めから照らされているキーライトの効果も合わさって、岳登でさえも息を呑むほど綺麗だった。まだ撮影は始まったばかりなのに、既にこの映画は名作になるという予感すら抱くほどに。


『はい。学生時代っていいこともありますけど、当然そればかりではなくて。大変なこと辛いこともあって、苦しいときもあると思うんです。今の映画を観て、自分が学生だったときのことを思い出しました』


『そうですよね。青春がキラキラしてるなんて、大人の勝手な幻想ですもんね。あの、私は特に先生の言葉がグッときたんですけど』


『『信用します。信頼します』ってところですよね。あそこは私も一番感動しました。こういう言葉を先生から言われたかったなって』


 二人のやり取りは続いていく。夕帆の表情は、迷いを感じさせつつもどこか清々しさもあって、岳登の目指しているところに十分達していた。口にするセリフもよどみなく、夕帆の実力と今日に向けて積んできた準備のほどを、岳登は察する。


『そ、そんな。私この辺で失礼させていただきます。今日はありがとうございました』


 夕帆は立ち上がり、カメラに映る範囲外にまで歩いていった。シーンが終わった合図だ。


 夕帆がカメラからはけたのを確認してから、岳登は「カット!」と声を出す。それを篠塚がより大きい声で「はい、カット!」と拡散すると、館内には岳登を窺うような雰囲気が流れた。全員の視線が集中している状況にも、岳登は怖気づくことはない。次に言う言葉は決まっていた。


「OK!」


 迷う必要はなかった。その言葉を聞いて、全員の緊張の糸が少しだけ緩められた感じが岳登にはする。撮影はファーストカットが一番難しい。最初の勘所を無事乗り越えられた安堵が館内には漂ったけれど、すぐに次のショットへ向かっていったので、岳登は咎めなかった。


「はい、このカットOKです。次、ショット3の準備します。キャストの皆さんは楽にお待ちください」


 篠塚がそう言って、撮影部は次のショットへの準備を始めた。次のショット3は、夕帆と椎菜を真横から捉えるツーショットだ。当然カメラや照明の位置も設定し直さなければならない。素早く動く沼田や星名たち。設定を確かめる中で、岳登は端に寄って待機している俳優部の姿を垣間見た。夕帆が台本から顔を上げて、少し得意げに微笑んでいた。




 夕帆と椎菜のシーンの次に、椎菜と仁川のシーンを撮って、さらに葵座の外観にカメラに収めると、あっという間に開館前の葵座を使用できる時間は終わった。寒さに震えながら葵座の実景を撮った岳登たち撮影部は、逃げるように葵座の隣のオフィスに駆けこむ。


 そこでは撮影の合間に着替えていた夕帆たちが、暖かいお茶を飲みながら待っていた。荷物はオフィスの端、カメラに映らない位置に避けられている。


 岳登たちも市原からペットボトルの暖かいお茶を貰い、束の間の休息を取る。葵座が開館して撮影ができなくなった今、次の撮影場所はこのオフィスだった。


「シーン11、ショット1、テイク1」


 篠塚がカチンコを打ち鳴らす。モニターを見つめるように、「よーい、スタート!」と岳登が言う。今日三シーン目の撮影開始の合図だ。


『では、皆さんもご存じだと思いますが、改めて本日から新規採用になったスタッフを紹介します』


『本日からこちらで働かせていただきます、金子舞です。映画館の仕事は初めてですが、精いっぱいがんばります。皆さん、何卒よろしくお願いします』


『はい、金子さん。こちらこそよろしくお願いします。改めてようこそ長野葵座へ。職員一同歓迎しますよ。と言っても三人だけなんですけどね』


『支配人をやらせてもらっています、工藤宗太郎です。ちょうど先月スタッフが一人辞めて、人手不足になっていたこのタイミングで金子さんを迎えられて、とてもありがたく思っています。これからどうぞよろしくお願いします』


『アルバイトの北西っす。大学の三回生っす。金子さんが来てくれて、仕事も分担できるようになるから、めっちゃ嬉しいっす。これからよろしくお願いしまっす』


『はい、お三方ともこれからよろしくお願いいたします』


『あの、いきなりなんすけど、金子さんって彼氏いたりするんすか?』


『えっ、いや、あの、それは……』


『ちょっと北西君。そういうこと訊くのはよくないよ。ただでさえ金子さんは、今日が初日で緊張してるんだから』


『そうっすね。金子さん、すいませんした』


『えっ、いや、大丈夫です』


『金子さん、挨拶はこれくらいにしてさっそく葵座を案内しますね。覚えていただくことはたくさんありますから』


『は、はい。お願いします』


「……カット」


「はい、カット!」篠塚が歯切れのいい声で現場全体に告げる。それとともに、オフィスにはどこか微妙な空気が流れ始めた。少しでも撮影をスムーズに進めるために、岳登はすぐに判断を下す。必要だと分かっていても、やはり心苦しい。


「……もう一回お願いします」


「はい、もう一回お願いします! 皆さん、再度準備のほどをお願いします!」


 篠塚がそう伝えると、スタッフやキャストたちからは明快な返事が聞こえた。まだ撮影は始まったばかりだから、気落ちしている者は一人を除いていない。


 そして、スタッフやキャストが再度準備をするなかで、岳登はそのただ一人のもとへと向かっていった。他のキャストに声をかけられながら、安形の表情には早くも焦りの色が見えていた。


「安形さん、今よろしいですか?」


「は、はい。すいません。監督が思い描いている通りにできなくて」


「そんな、いきなり謝らなくてもいいですよ。先ほどの安形さんの演技は、大意は間違っていませんでしたから。ただ、ちょっと修正していただきたい個所についてお話してもいいですか?」


 岳登が極力丁寧に声をかけても、安形は怯えた表情を見せていた。返事も消え入るように小さい。別に岳登は安形の全てを否定したいわけではないのに。


「安形さん、初対面の女性を前に、照はどれくらい緊張すると思いますか?」


「えっと、そんなに緊張しないと思います。照はちょっと傍若無人なところがあるので、初めて顔を合わせた舞にもさほど遠慮はしないんじゃないかなと。よそよそしくせず距離感を詰めた方が、相手も嬉しいと思っている節があります」


「そうですよね。照は自分に自信があって、初対面の相手とも距離を詰めることを負担に感じない人間です。その観点から見て、さきほどのご自身の演技はいかがでしたか?」


「そう言われると、まだ遠慮があったように思います。もっと自分の興味関心に忠実なはずなのに」


「はい。なのでそれを踏まえて、次はもう少しメリハリのある演技をお願いします。ここは照が初めて喋る重要なシーンなので、もっとキャラを見せるよう意識しても大丈夫です」


「分かりました。やってみます」


 理解したように頷く安形を、岳登は信じたいと思う。きっと次こそは、よりシーンに合った演技をしてくれるだろう。


 機材のセッティングが完了して、望美たちから「OKです!」という声が飛ぶ。岳登は再びモニターを見つめた。「シーン11、ショット1、テイク2」と、篠塚が再びカチンコを鳴らす。「よーい、スタート!」と、部屋中に聞こえるように岳登は告げた。


 先ほどと同じシーンを、ほとんど変わらない様子で演じる夕帆たち三人。安形も少し声を高くして、調子のよさを演出している。それは岳登のイメージそのものではなかったが、それでもテイク1と比べると、シーンは円滑に進んでいる。夕帆が最後のセリフを言い終わって、「カット」と発する岳登。続けて「OK」と言うと、何回かテスト撮影と本番を繰り返したからか、オフィスには一つ肩の荷が下りたような雰囲気が生まれた。次のショットである夕帆のワンショットを撮るため、セッティングを変更する望美たち撮影部。


 岳登は安形にふと目をやった。息を吐くその表情には、まだ少し固さが残っていた。



(続く)

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