第17話 今年いっぱいで



 外に出るにも羽織るものが必要になってきたある日、岳登は葵座に向かっていた。

キャストやスタッフは篠塚の助けもあり、一昨日全員が決定している。だから、今日は改めて栞奈に報告に行くのだが、それでも岳登の足取りは重かった。それは、今朝から降り続いている雨のせいだけではなかった。


 葵座に到着して、チケット売り場のスタッフに用件を告げると、栞奈は一分もしないうちに出てきた。岳登が来ることは昨日の時点で伝えてある。それなのに、栞奈の表情には今日の空のように暗い雲が漂っていた。努めて平然と振る舞っている栞奈の様子が。岳登に現実を突きつける。今日は一〇月三一日だった。


 二人は葵座の隣のオフィスに入ると、ソファに向かい合って座った。一緒についてきたスタッフが温かいお茶を淹れて、二人のもとから去っていく。小さく聞こえる雨が地面を叩く音。途端に流れる気まずい空気。


「成海さん、今日はわざわざありがとうございます。雨、大変じゃなかったですか?」


「は、はい。僕は普段車で通勤してるんですけど、駐車場から会社に入るまでのわずかな間にも、傘を差していても濡れてしまうような雨でした」


「そ、そうですね。午前中は特に強く降ってましたもんね」


 気まずさから交わされた会話は、何の中身もなかった。自分たちの周りだけがひどく淀んでいるように、岳登には思える。


 これ以上余計な話をしても息が詰まるだけだから、岳登は意を決して本題を切り出した。


「袖口さん。昨日電話でお話しさせていただいた通り、映画『ミニシアターより愛を込めて』の、全てのキャストとスタッフが決定しました」


「はい。存じ上げております」


「では改めて、決定したキャストとスタッフの名前を記載した撮影稿をお渡しします」


 岳登は持参したバッグから冊子の形になった台本を二部、ホチキスで留められた数枚のプリントを一部取り出して栞奈に渡した。栞奈が読む用に一部、もう一部は予備兼葵座のスタッフが目を通す用だ。


 栞奈がプリントを手に持ったことを確認して、岳登も同じように目を通しながら続ける。


「では、改めて今回のキャストやスタッフについて説明させていただきます」


 そこから岳登はキャストやスタッフの来歴やプロフィールについて簡単に説明を始めた。一人ずつ出演したり、関わった作品を挙げながら話していく。もちろん榎や伴戸、和花や秋代など参加作品がほとんどないキャストやスタッフもいたが、起用理由を交えて説明する岳登に、栞奈は口を挟まなかった。時折頷きながら理解を示してくれていて、岳登としてもいくらか話しやすい。


「以上が映画『ミニシアターより愛を込めて』の主要キャスト及びスタッフです。厳しいスケジュールだったため、全員が第一候補というわけではなく、また自主映画の制作に初めて加わるキャストやスタッフもいますが、全員力のあるキャストやスタッフだと僕は考えています。このキャスト及びスタッフで、少しでも面白く印象に残る映画を作っていきます」


 岳登は一度小さく頭を下げる。キャスティングやスタッフィングは自分たちに一任されていたが、それでも栞奈の承認は必要だろう。


「了解しました。いい映画を作ってください。期待しています」と言われて、岳登にかかるプレッシャーはさらに大きくなる。栞奈はまだどこか浮かない表情をしていた。


「ありがとうございます。では、この後のスケジュールについて簡単に説明いたします。まず一一月の一三日と一四日を使って、衣装合わせとホン読みを行います。主要キャストやスタッフが最初に集合する機会なので、一三日の衣装合わせには袖口さんにもご参加いただきたいのですが、よろしいですか?」


「はい。もとよりその日は予定を開けてあります」


「ありがとうございます。そして、一二月に入ると四日と五日にリハーサルの期間を設けています。ここは貸し会議室を使用しますが、四日の午前中には雰囲気を掴むためにキャストやスタッフ全員で、葵座で一本映画を観る予定です。実際の営業時間よりも少し伺うことになりますが、よろしいでしょうか?」


「はい。それくらいなら全然大丈夫です」


「ありがとうございます。そしてその翌日、一二月六日から一二月一二日までが本撮影の期間になります。葵座でのシーンは主に開館前や閉館後の営業時間外に行いますが、スケジュールが押してしまったりどうしても時間内に撮りきれない場合は、撮影が営業時間にずれこんでしまうかもしれませんが、大丈夫でしょうか?」


「はい。なるべく早くに言っていただければ、こちらでもできる限り対応します。でも、貴重な上映の機会を削りたくはないので、できれば予定通り撮ってください」


「はい。葵座に不要な迷惑をかけないよう最大限努力します。そして、撮影後ですが編集に少なくとも一ヶ月はかかるので、完成及び葵座での上映は一月中旬以降になってしまいますが、それでもよろしいですか?」


「は、はい。大丈夫だと思います」


 歯切れの悪い返事に、岳登は栞奈が抱えている事情を悟ってしまう。栞奈が次の言葉をなかなか言わなかったので、オフィスにはより重たい空気が漂う。まだ雨が降っている外の方がマシだと思ってしまうほどに。


「……成海さん、隠したり先延ばしにしても仕方がないので、正直に言いますね」


 決心を固めたかのように切り出した栞奈に、岳登は息を呑む。現実を真正面から受け止める必要が、岳登にはあった。


「まず成海さん。クラウドファンディングが不成立に終わったのはご存知ですね?」


 岳登は頷く。葵座改修工事のためのクラウドファンディングは、先週の締め切り時点で一七〇万円ほどしか集まらず、プロジェクト不成立となっていた。目標金額の三〇〇万円に達せず不成立となった場合は、全額が寄付者に返金される設定になっているため、葵座の手元には一円も入っていない。


「私も何度も銀行に頼み込んだり、一度会っただけの人にも声をかけたりするなど、手は尽くしました。でも、今日まで融資を受けることはできず、カンパも一五〇万円ほどしか集まらず。改修工事に必要な五〇〇万円を用意することは、どうしてもできませんでした」


 その先は聞きたくない。岳登は思わず、栞奈から目を背けそうになってしまう。


 でも、栞奈は血を流すような思いで、現実を話しているのだ。岳登だって拒否するわけにはいかない。


「このまま老朽化が進んだ施設で営業していくことは、お客さんの安全を考えたらどうしてもできません。なので、葵座は今年いっぱい、一二月三一日をもって閉館いたします」


 岳登だって、その言葉を想像していなかったわけではなかった。改修工事ができない以上、栞奈の判断は妥当と言えるだろう。


 だけれど、頭ではそう分かっていても、心のどこかで納得したくない自分もいた。岳登にとっては初めて映画を観た映画館で、学生時代も何回も通った、実家の次に馴染み深い場所なのだ。閉館するなんて想像もしたくない。でも、映画を作ると決まった以上、岳登に出せる資金はもうほとんどなかったし、声を荒げたり涙を流したりしても、何も解決しない。


 苦し紛れに「そう、ですか……」と言うだけに留める。こうして感情を押し殺しているとき、自分はつまらない大人になってしまったんだなと岳登は思う。


「……はい。なので『ミニシアターより愛を込めて』が、完成した状態で葵座の営業期間中に上映されるのは、かなり難しいと思われます。一〇〇パーセント不可能ではないですが、成海さん、映画の編集はそんなに短時間で終わるものではないですよね……?」


 尋ねてきた栞奈に岳登は目を伏せる。でも、それは頷いているのとほとんど同義だった。


 映画の編集はただ単にシーンとシーンを繋げて、劇伴をつければ完了するというものではない。ショットを繋げるだけでも毎回確認する手間がかかるし、さらにカラーコレクションと呼ばれる画面の色を調整する作業や、音声などを聞きやすいように調整する整音などの作業もある。それらすべてを岳登は仕事が終わった後の時間で、一人で行う予定だ。はっきり言って、七〇分の映画を三週間足らずで完成させるのは、限りなく困難に近い。予算は既にカツカツで、新たに編集担当を雇う余裕もない。


 絶望感が岳登を襲う。たとえ完成しても、葵座で上映できないなんて。


 目を合わせられない岳登に、栞奈の言葉も澱む。


「それと成海さん。これはまだお話していなかったことで、とても言いづらいのですが……」


 そう前置きをしたからには、良い話であることはあり得ない。岳登は目線を上げられなかったけれど、それでも栞奈が苦渋に満ちた表情をしていることは察せられた。


「実は、葵座の土地を買いたいと言ってくださってる方がいるんです。まだ完全に決まったわけではないのですが、来年の二月を目途に買い付けの話は進んでいて、ここはもうすぐ私たちの土地ではなくなるかもしれないんです」


 それが何を意味するか、岳登にも分からないわけではない。でも、一縷の望みにかけて栞奈に尋ねてみる。


「で、でしたらその方が葵座の経営権を引き継いで、改修工事を行い、来年以降も葵座が営業を続けるという可能性は……」


「……いいえ。先方はそうは考えていないようです。その方というのは首都圏や主要地方都市にオフィスを持つ企業の社長さんで。葵座の土地に、新たに自社のオフィスを建てたいとおっしゃってるんです」


「つまりそれは……」


「はい。話がまとまったらの場合ですが、葵座は遅かれ早かれ取り壊されてしまうことになります。それはもしかしたら、土地の所有権が移ってすぐかもしれません。映画館という建物は、オフィスには向きませんから」


 岳登はしばし言葉が出なかった。葵座が跡形もなく無くなるなんて想像したくもないけれど、巨大なショベルカーが葵座に向けて、その先端を振り下ろしているところを思い描いてしまう。栞奈の口ぶりからだと、話はもうかなり進んでしまっているように感じられる。自分にその状況を覆せるだけの力があるとは、岳登には思えない。


 いや、それでも。


「袖口さん、どうにかならないんですか? その方に葵座の経営を続けてもらうことは、できないんですか?」


「それは私もお話ししました。でも、その方の意思も固く……。状況はいいとは言えません」


「そんな……」岳登は再び言葉を失う。葵座の取り壊しが避けられない未来に思えてしまう。


 だけれど、栞奈は「ですが」と言葉を繋いでいた。


「土地の所有権が移るのは、最短でも二月からです。つまり一月中は、葵座は土地も含めて私たちのものです。ですから、閉館後に一日だけ上映会という形で葵座を開け、完成した『ミニシアターより愛を込めて』を上映したいと私は考えています」


 それまで閉ざされていた道が開けたような感覚が、岳登にはあった。たとえ一回限りでも観てもらう機会があるのは、監督冥利に尽きる。


 本当は今すぐ栞奈の手を握って、喜びを表現したい。でも、疑問が岳登の脳裏をかすめた。


「袖口さん、大丈夫なんですか? 施設だったり設備だったり。もう閉館した後なんですよね……?」


「それは大丈夫です。閉館したとはいえ、施設も設備も必要最低限ですけど、ちゃんと残しておきます。成海さんは何の心配もせず、映画作りに集中してください」


「でも、話が変わって、それよりも前に葵座がなくなるような事態になったら……」


「それだけは私が絶対に阻止します。私にだってプライドがありますから。おそらく一月下旬になる上映会で『ミニシアターより愛を込めて』を上映して、そこで葵座はおしまい。それまでは私が絶対にもたせます」


「だから、成海さん」栞奈は目に力を込める。岳登も上げた目を、栞奈から逸らさなかった。


「映画、絶対に完成させてくださいね。葵座があり続ける一月中には必ず。改めてですけど、葵座があったことを映画に焼きつけてください。葵座がなくなっても、映画は残りますから」


 そう栞奈は力強い目をしたまま言う。並々ならぬ想いに当てられて、岳登も「はい。任せてください」と頷いた。まだ映画は撮り始めてすらいない。でも、一月中という締切が設定されたからには、何とか撮りきって、血反吐を吐いてでも完成させなければならない。岳登は自分にそう言い聞かせる。使命感と責任感で、胸は燃えたぎっていた。



(続く)

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