第13話 恩返しをさせてください



 カレンダーのページも変わって、涼しい風が吹き始めた九月のある日。岳登はチャコールグレーのソファに座って、目当ての人物がやってくるのを待っていた。


葵座の隣にある建物に、岳登は初めて入る。二脚ある机の上には多くのファイルが並び、その手前に二人掛けのソファが向かい合って置かれている様子は、岳登に何かの映画で見た探偵事務所の内観を思い起こさせた。


 岳登がどうにか書き上げた脚本と企画書を栞奈に渡したのは、一昨日のことだった。事前に何も連絡しなかったにも関わらず、栞奈は快く脚本と企画書を受け取ってくれた。連絡先も交換したけれど、その翌日にさっそく電話がかかってきたときは、さすがに岳登も驚きを隠せなかった。お互いのスケジュールを調整して、会って話すことが決まったのが今日の七時だ。きっと栞奈の用件は一つだろう。良い返事も悪い返事も両方想像できて、岳登はオフィスのあちこちに視線を移し、落ち着かない時間を送っていた。


 ドアが引かれたのは、約束の七時を数分ばかり過ぎた頃だった。待ち望んだ栞奈の登場に、岳登は思わず立ち上がる。


「すいません。お待たせしてしまって」と言う栞奈の手には、脚本と企画書が抱えられていて、岳登は緊張で喉が裏返るような感覚がした。


 ひとまず座って、出されたお茶を飲むように促されて、その通りにする岳登。でも、一口飲んだだけでは、緑茶は岳登の喉を潤さなかった。


「成海さん。本日はわざわざお越しいただきありがとうございます」


 普段と変わらぬ柔らかな物腰も、岳登の緊張を和らげることには繋がらない。今日はいつもの世間話とは訳が違う。葵座で映画を撮るための第一関門を突破できるかどうかが、これからの会話にかかっているのだ。


「早速ですが、企画書と脚本読ませていただきました」


 世間話を挟むことなくいきなり用件から話を切り出した栞奈に、岳登はせめて歯切れのいい返事をしようとした。でも、不安に思う心が声を細く頼りないものにさせる。


 自信がないわけではない。でも、それと栞奈がどう受け取ったかは別問題だ。


「正直な印象を言っていいですか?」と確認されて、岳登はますます縮こまってしまう。映画を撮ろうという監督の態度にはまったくふさわしくなかった。


「一昨日、最初に脚本を読ませていただいたときに、素直に面白いと感じました」


 栞奈の口から出たのは、岳登が一番欲しかった言葉だった。他の人に読まれたのは初めてだったので、『面白い』と言われて不安はいくらか軽減される。


 でも、その言葉を完全に鵜呑みにするほど、岳登はピュアではなかった。東京にいた頃、制作プロダクションに企画を持ち込んで『面白い』とは何度も言われたものの、それが実現した試しは片手で数えるほどしかない。


 目の前の相手が信じられないことに申し訳ないと思いつつ、「本当ですか……?」と声が出る。おそるおそるといった岳登の問いかけに、栞奈は小さく微笑んで応えた。


「はい、本当です。お世辞じゃありません。東京で追っていた夢を諦めて長野に帰ってきて、ひょんなことから葵座で働き始める主人公。これは成海さん自身の経験が投影されてるんですか?」


「は、はい。まったくないとは言えないですね」


「やっぱりですか。私、映画館で働く描写がいいなと思いまして。決して楽しいだけじゃなくて、稀にですけど嫌なこともある。その塩梅が絶妙で、こういう経験私にもあったなって思い出しましたから。これは誰かに取材したり、話を伺ったりしたんですか?」


「はい。映画館で働いている知り合いが何人かいたので、話を聞かせてもらいました。中にはもう辞めちゃった人もいたんですけど、それでもためになる話をたくさん聞くことができて。その中のいくつかは、実際に脚本にも盛り込んでいます」


「なるほど。だからリアリティがあったんですね。それに一癖ある観客の方と交流しながら、主人公が少しずつ前を向けるようになるプロットもいいなと思いました。言ってしまえばシンプルなんですけど、それでも確かな力強さを感じました」


「ありがとうございます。この映画で僕が一番伝えたいのはミニシアターという場の素晴らしさなので、それを際立たせるためにできる限りシンプルな話にしてみました。お気に召していただけたようで嬉しいです」


「はい。それと私がこの脚本で一番好きだなと思ったのは、映画が全てを解決する魔法のアイテムになってないことですね。映画を観終わった後も、観る前にあった問題は依然としてあり続ける。でも、そっと背中を押してくれるような、もしかしたら何かがいい方向に変わっていくんじゃないかって、含みを持たせている。その感覚が素敵だなって思いました」


「それは僕もこの脚本で一番意識したところですね。映画をただ観ただけで変わることって、ないと思うので。結局は観た人がその後にどんな行動を起こすかだと思うので。映画そのものは世界を変えることはできないんですけど、それでも観た人の何かを変えるきっかけには間違いなくなります。それが映画や映画館の持つ力だと僕は信じています」


「そうですね。私もそう願いながら葵座の経営を続けているので、その気持ちよく分かります。成海さんの純粋な思いが詰まった、いい脚本だと感じました」


「ありがとうございます」礼を言いながら、岳登は徐々に手ごたえのようなものを掴み始めていた。ここまで具体的に好きな個所を挙げたということは、栞奈は本当にこの脚本を面白いと感じているのだろう。ようやく岳登は信じることができる。


 栞奈が改めて岳登の名を呼ぶ。岳登も背筋を伸ばして姿勢を正した。


「ぜひこの脚本を映画にしてください。映画にして、葵座の姿をずっと先に残してください」


 それは今の岳登が最も必要としていた言葉だった。キャストもスタッフも、まだほとんど決まっていない。それでもキャラクター以上に映画の主役である葵座の使用許可が出たことに、飛び上がって喜びを表現したくなる。優しく細められた栞奈の目に、込みあげてくるもの。それに名前をつけるなら使命感だった。


「袖口さん、ありがとうございます! 必ずいい映画にします! 葵座の、映画館の素晴らしさを存分に伝えられるような、そんな映画にしてみせます!」


「はい。成海さん。こちらこそよろしくお願いします。私たちにできることがあったら何でも言ってくださいね。全員で喜んで協力しますから」


「はい!」岳登の返事はいつの間にか溌溂とした、歯切れのいいものに変わっていた。のしかかる責任やプレッシャーを、映画制作を大きく前進させることができた喜びが上回る。


「では、成海さん。まだ不確定要素も多いと思いますけど、ここからは映画の制作に向けて、少し具体的な話を進めていきましょうか」


「はい。お願いします」


「まず撮影時期なのですが、企画書には一一月もしくは一二月と書かれていますね?」


「はい。既に何人かの方には声をかけているんですけど、今からキャストやスタッフを集めるとなると、早くてもそれくらいの時間はかかるかと」


「そうですか。現時点で引き受けてくれそうな方はいらっしゃるんですか?」


「正直、まだほとんど決まっていません。何分急な企画ですから。東京にいた頃の知り合いにも手伝ってもらって、今は色んな方に連絡を取っている段階です」


「なるほど。キャストやスタッフが決まり次第撮影に入ると。企画書によると撮影期間は一週間ほどを予定しているようですが、大丈夫ですか?」


「……大丈夫とは?」


「撮影期間、短くはありませんか?」


「それは大丈夫です。僕が今まで入った現場でも、三日や四日しか撮影期間がなかった映画もありますから。この脚本は映画にすれば七〇分ぐらいで収まると思いますし、事前に段取りを入念に組んでおけば、一週間で撮り切ることは十分に可能だと考えています」


 岳登にそう説明されても、栞奈はまだ少し不安そうな面持ちを見せていた。撮影はもっと時間のかかるものだと考えているのだろう。確かにそれは間違っていないが、それでも一つの場所で展開されるシーンをまとめて撮ったり、別のシーンでも同じアングルなら立て続けに撮ったりと、撮影時間を短縮できる方法はいくつかある。でも、『青い夕焼け』の時は撮影に二週間かかったから、一週間というのは岳登にとっても未知の領域だ。だからこそ不安を解消するために、準備はいくらしてもしすぎることはない。


「袖口さん、大丈夫ですよ。葵座でのシーンは昼なら日の出から開館するまでに、夜なら閉館した後に撮りますから。営業の邪魔はしないと約束します」


「はい。それは分かってますし、それほど心配はしていませんけど、企画書に記載されている『製作費:約三〇〇万円』というのは……」


「それはキャストやスタッフへの日当や宿泊代、交通費。機材のレンタル料金や、撮影場所にお支払いするお金や衣装代。その他諸々を合わせて算出した費用です。キャストとスタッフを合わせても、基本的には一〇人程度の現場になると思うので、一週間の撮影ならこれくらいみておけば足りるかなと」


「それも何となく分かってます。かの『カメラを止めるな!』も、同程度の製作費で作られた映画らしいですし。でも、この三〇〇万円はどうやって用意するんですか? もう当てはあったりするんですか?」


「袖口さん、以前言いましたよね。僕、二〇〇万円や三〇〇万円なら出せない金額じゃないって。クラウドファンディングなどはしません。全て僕の懐から出したいと考えています」


「いや、でもそれだと成海さんが生活していくお金がなくなってしまうのでは……?」


 栞奈が抱く疑念は、岳登にも想定できた。岳登だって映画の制作に自分の貯金をつぎ込み、それなのに思ったような成果を得られず、ひもじい思いをしている監督を何人か見てきている。自分がそうならないという保証はどこにもない。

でも、岳登は「いいえ、そんなことはありません」と、首を横に振った。


「実は袖口さん、この三〇〇万円というのはもともと僕のお金ではないんです」


「どういうことですか? まさか借金とかですか……?」


「いいえ、違います。この三〇〇万円は、実は父から相続した遺産なんです。去年亡くなってしまった父から」


 栞奈は一瞬言葉を失った。でも、岳登が心を痛めることはない。金は取っておくよりも、使うためにこそあるものだ。


「……いや、それじゃますますダメじゃないですか。だってそのお金は、お父さんが成海さんのために遺したお金でしょう? だったら成海さんのために使うべきじゃないですか」


「いや、僕はいいんです。今の給料でも暮らしていくこと自体はできますし、映画だって観れますから。だから僕よりも葵座のために父のお金を使わせてください。お願いします」


「成海さん、お気持ちは嬉しいんですけど、さすがに三〇〇万円を全て一人で出すのはやりすぎですよ」


「大丈夫です。父の遺産は正直それ以上にありますから。三〇〇万円出しても、まだ手元には残るくらいです」


「いや、そういう問題ではなくてですね……」


「袖口さん」岳登はためらっている様子の栞奈に、はっきりと告げた。企画や脚本はあっても、先立つ物がなければ何も始まらない。


「ご存じかもしれませんが、父は生前、特に倒れる前は葵座に足繫く通っていました。父は映画が、映画館で観る映画が大好きだったんです。だから自分が遺したお金が葵座のために使われるなら、きっと本望だと思うんです」


 返事に詰まる栞奈。もしかしたら智紀と面識があって、その顔を思い浮かべているのかもしれない。


「袖口さん、以前にも言いましたけど、僕は葵座で生まれて初めて映画を観ました。ここで観た映画が、僕が映画製作の道へ進むきっかけになりました。そして、それは父に連れていってもらったからです。だから、お願いです。僕だけじゃなく父が受けた恩義の分まで、葵座に恩返しをさせてください」


 岳登は今一度頭を下げる。誠意が伝わるように深く。栞奈が「頭を上げてください」と言うまでに少し間があった。数秒とは思えないほど長い間を経て、岳登は頭を上げる。栞奈の表情からは、先刻までの固さは消えていた。


「分かりました。製作費は成海さん持ちでいきましょう」


 ようやく理解を得られたことに、岳登は「ありがとうございます」と応えながら、内心で安堵の息を吐いていた。これで制作上の最大の問題は、ひとまず解消されたことになる。


「ただし、成海さんが出すのはこの企画書に書かれている通り三〇〇万円までにしてください。それ以上はさすがに成海さんの生活にも響いてくると思いますので。もし、製作費が三〇〇万円を超えそうになったら、なるべく早い段階で私に相談してください。一緒に資金調達の方法を考えましょう」


 栞奈が提示してきた制限は、岳登の懐具合を考えてのものだろう。それが分かったから、岳登も素直に頷いて制限を吞んだ。栞奈に迷惑をかけないためにも、何とか三〇〇万円以内で映画を完成させなければならないと、思いを新たにした。



(続く)

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