第14話 できることがあったら
「は、はい。そうですか……。いえ、ありがとうございます。また何かあったらよろしくお願いします」
学習机に座りながら岳登は電話を切った。漏れたため息が、寝室の温い空気に溶けていく。冷房要らずの過ごしやすい夜が岳登をさらに落ちこませる。パソコンの画面には、作成途中の撮影スケジュールが映る。とはいえ、まだ葵座以外の撮影場所は決定していない状況では、書きこめることは多くなかった。
栞奈の了承を得て映画制作がスタートしてから、気がつけば一週間が経っていた。でも、その間キャストやスタッフは一人も決まっていない。撮影期間は篠塚の都合に合わせて一二月上旬に決まったが、急な企画なので他の人間のスケジュールを抑えるのが難しく、交渉は難航している。
その間にも撮影場所の候補地と交渉をしたり、必要になる衣装や小道具等を書き出したりと、することは山ほどあったが、それでも何一つ決まらないとなると、岳登は早くも焦ってしまう。撮影期間は動かせない。早く最初の一人が決まって、自分を安心させてほしい。そんな思いが、岳登の中では日を追うごとに大きくなっていた。
撮影スケジュールの作成にも行き詰まり、岳登はパソコンを閉じる。ひとまず息抜きでもしようと、椅子から立ち上がったその瞬間だった。スマートフォンが着信音を鳴らしたのだ。
発信者は「大滝夕帆」。紛れもない主演候補の一人だ。岳登はすぐにスマートフォンに飛びつく。そして、祈るような気持ちで通話ボタンを押した。
「もしもし、岳登? ごめんね、こんな夜遅くに」
夕帆は少し申し訳なさそうに切り出していたけれど、そんなことは岳登には気にならなかった。たとえ夜の一一時を過ぎていたとしても、非常識だとは思わない。
「ああ。全然いいよ。俺もそんな眠くなかったし」
「そう。ならちょっと話せそうだね」
夕帆が息をついたのが、電話越しにでも岳登には感じられる。一人きりの寝室に緊張が現れ始めていた。
「改めて、この度は私に映画出演のオファーをくださりありがとうございます。しかも主演。めったにない機会だから、とても感謝しています」
かしこまった口調の夕帆に、岳登は息を呑んだ。次の言葉を聞きたいような、聞きたくないような相反した感覚を持つ。
「今回検討した結果、私大滝夕帆は映画『ミニシアターより愛を込めて』
夕帆の口から出た言葉に、岳登は手を叩きたくなるほどの喜びに駆られる。もちろん他にも主演候補は検討していたものの、夕帆は第一候補だったから、嬉しさと同時に安堵感も覚えた。七年というブランクはあるが、多少なりともお互いを知っているので、きっと撮影もしやすいだろう。
「ありがとうございます。いい作品にできるように、力を合わせてがんばりましょう」
岳登も少し丁寧に返すと、どちらともなく笑いが漏れた。たくさんある懸念事項のうち一つが解消されたにすぎないが、それでも岳登は心強く感じていた。
「はい、がんばりましょう。ってこういうのもなんだかちょっと懐かしいね。『青い夕焼け』のときに戻ったみたい」
「ああ、そうだな」
「あのときの岳登は、野心にギラギラと燃えてたもんね。『俺がこの国の映画界を変えてやるんだ』みたいな? そういう気概が雰囲気から発せられてた」
「そっか。夕帆はそんな風に感じてたのか。俺はただ目の前の撮影を完了させる、映画を完成させることでいっぱいいっぱいだったんだけどな」
「まあそれも何となくは感じてたけど。でも、やむを得ない理由とはいえ、映画製作から離れた岳登がこうしてまた戻ってきてくれたこと、私は嬉しいよ」
夕帆だって鈍くはない。岳登に何があったのか、感づいているのだろう。それを深く訊き出そうとしない配慮が、岳登にはありがたかった。
「ああ。じゃあさ、一二月の撮影期間はもちろん、その前に衣装合わせとかリハーサルもしたいなって思ってるから、その日は開けといてくれよ。また追って連絡するから」
「うん。分かってるって。私も色々仕事があるから、なるべく早くね」
他にもいくつか用件を伝えたところで、二人の電話は終わった。岳登は背もたれによりかかりながら両手を挙げる。主演が決まったことで、映像も少しずつ鮮明にイメージできるようになってきた。まだ不確定な個所の方が多いものの、それでも何とかなるという気が湧いてくる。岳登は台本のスタッフ表を開いて、キャスト欄の「金子舞」の下に「大滝夕帆」と打ちこんだ。まだ白紙が目立つがそれでも声をかけ続ければ、徐々に決まっていくはずだ。
パソコンを閉じる岳登。今日は比較的よく眠れそうだと思った。
夕帆が主演を引き受けてから半月ほどが経った。吹く風にも少しずつ寒さが混じり始めるなか、映画『ミニシアターより愛を込めて』のキャストやスタッフは、少しずつ決まっていた。撮影に
その日、岳登は久しぶりに信濃劇場を訪れていた。撮影準備で忙しい中、映画館に来ることができたのは、この日が祝日であることが大きい。
入場が開始される一五分前に到着してチケットを買う。中に入ると見えてくる売店、チラシ置き場、テレビ。流れる予告編は一新されていて、その下にはまだ葵座のクラウドファンディングのチラシが置かれていた。現在の総額は一五〇万円といったところ。増加ペースはまさに亀の歩みで、終了まで一ヶ月を切った現状では、達成はかなり難しい。
階段を上って辿り着いた二階のロビーには、誰もいなかった。スクリーンの入り口もまだ閉められている。でも、前の映画が終わったばかりだから、当然だろうと岳登は意にも介さない。椅子に座りながら少し待っていると、スクリーンの入り口が開いて、中から市原が出てきた。今日もオーバーオールを着ている。
「おお、成海。久しぶりだな」
市原は岳登を見かけると、すぐに話しかけてきた。今二階のロビーに自分たち以外の人間はいないからだろう。岳登も「ああ、久しぶり」と応える。
「悪いな。最近あまり来れなくて」
「いいよ。お前だって色々忙しいんだろ。また来たい時に来てくれればいいよ」
理解を示してくれて、岳登は胸がすくような思いがした。ここ数ヶ月、信濃劇場には葵座以上に行けていないから、申し訳ない思いがあった。
「ところでさ、あの話って本当なのかよ」
「……あの話って?」
「朝倉さんから聞いたぜ。お前が葵座を舞台に映画を撮るって話」
岳登は驚きを隠せなかった。でも、栞奈には映画を撮ることは口外しないでくださいとは言っていないから、信頼できそうな朝倉に話していたとしても不思議はない。だから朝倉経由で市原に話が伝わっていても、おかしくはないのだ。
「……市原。お前、それ他の人に言ってないだろうな」
「ああ、言ってねぇよ。あまり大っぴらにすると、人が集まって撮影に支障が出たりしそうだからな」
誠実な目に嘘は感じられなかったから、岳登は市原を信じることにした。
上映開始時間が近づいているというのに、まだ階段を上がってくる人の気配は見られない。それは少し寂しくもあったが、二人に秘密の話をする機会を与えてもいた。
「そうだよ。俺は葵座を舞台に映画を撮る。もう葵座の許可は取ってあるからな」
改めて宣言した岳登に、市原はかすかに色めきだった。目も口も分かりやすく緩んでいる。
「うっわ、マジかよ。本当に映画撮んのかよ」
「何だよ。映画撮ればいいって言ったのはお前だろ。お前が言ってくれなきゃ、俺はまた映画を撮るなんて発想抱いてなかったかもしれないんだから」
「そっか。そうだよな。なぁ、もう主演とか決まってたりすんのか? 誰来る?」
「言っとくけど、お前が知ってるような有名どころじゃねぇぞ。予算は限られてるんだから」
事実を述べているだけなのに、岳登は夕帆に申し訳ない思いを抱いてしまう。夕帆の主演作は『青い夕焼け』ただ一つだ。だから有名ではないと言えばそうなのだが、もっと言い方があるだろうと思ってしまう。市原も「そっか。まあそれもそうだよな」と頷いていたから、岳登は少し胸が痛む心地がした。
「なぁ、映画の制作は順調かよ。もう脚本はできてんのか?」
「ああ、脚本はできてるよ。キャストやスタッフも少しずつ決まってきてる。まだ未定のところも多いけど、どうにか予定している撮影期間に撮り始められるように、今準備してるところだ」
「そっか。ひとまず全部のキャストやスタッフが決まって、無事に撮影を始められるといいよな」
岳登も頷く。人集めは今の最重要課題だ。まだ連絡が返ってくるのを待っている候補者も何人かいる。映画を観て帰ったら、また慌ただしい日々が始まることだろう。
だからこそ、その前に今だけは映画を楽しまなければ。
でも、スクリーンに向かいたい岳登のもとから、市原は離れなかった。市原だって次の上映など仕事がありそうなのに。
「なぁ、成海。俺にも何か手伝えることねぇかな」
その申し出がどの想定とも違っていたから、岳登は目を瞬かせてしまう。
「俺だってさ、葵座には昔よく通ってたし、今もたまに行くようにしてる。俺だって葵座には恩があるんだよ。だから、どうにか葵座を舞台にしたお前の映画の役に立ちたい。俺にできることがあったら何でもするからさ」
懇願するような市原の口調に、岳登は頭を回す。エキストラに入ってもらおうかとも思ったが、市原はそれでは満足しなさそうだ。かといって俳優として出すにも、残りのキャストに市原が演じられそうな役どころはもうない。もちろん専門的な仕事は何の経験も積んでいないから、無理だろう。
どうしたものか。岳登はしばし考える。そして、一つの役割を思いついた。
「なぁ、めちゃくちゃ裏方でもいいか?」
「ああ。何でも言ってくれ」
「だったらさ、制作事務やってくれよ」
「制作事務?」
「ああ。撮影許可を取ったりとか、交通の手配をしたりとか、あと台本の印刷や諸々の予算管理とか。正直、俺と助監督の二人でもやらなきゃいけないことが多すぎてさ。だから、そこをお前に手伝ってもらえると嬉しいんだけど」
「えっ、マジかよ。責任重大じゃんか」
今度は市原が目を瞬かせる。想像以上に大きな役割を与えられそうで、戸惑っているのだろう。でも、今の岳登は猫の手でも借りたい状況だった。いくら篠塚と仕事を分担しているとはいえ、これほどまでに準備が必要になるとは思ってもみなかった。『青い夕焼け』のときは別に制作事務がいたから、映画制作の大変さを改めて思い知らされる日々だ。
「どうしたんだよ。何でもするんじゃなかったのかよ」
「いや確かに何でもとは言ったけど、思った以上に何でもすぎたというか……。もしかして俺に、面倒な事務作業を一任させようとしてないか?」
「別に一任しようってわけじゃねぇよ。正直そこまでは任せられねぇし。でも、俺たちももっと演出プランとか考えたりしたいからさ。少しでも手伝えてもらえたらなと思ってる。もちろんそれなりにギャラは出すからさ、頼むよ」
岳登は小さくだが手を合わせて頼み込んだ。市原一人でもいるといないのとでは大分違う。軽く頭を掻く市原。二階に上がって来る者はまだいない。
「頼みこんでるのは俺の方なのに、逆にお前から頼みこまれたんじゃ、やるしかねぇか」
「本当にか?」
「ああ、もちろん。俺の方から手伝わせてほしいって言ってるわけだからな。まあ分からないことだらけだけど、できる限りやってみるよ」
「そっか。ありがとな。じゃあ、映画が終わった後にでも助監督の連絡先教えるから。詳しいことはそいつから色々教わってくれ」
「ああ。じゃあ、また後でな。お前の映画がいい作品になるよう、微力ながら協力させてもらうわ」
「人数が少ないから、微力じゃ困るんだけどな」
そう言って小さく笑いあうと、市原は「じゃあ俺、仕事しなきゃだから」と一階へ向かっていった。ほしかった制作事務が一人確保できた。これで岳登にかかる負担も少しは軽減されそうだ。
市原の後ろ姿が見えなくなってから、岳登はスクリーンに入った。少し前目の席を選んで座る。そのまま上映開始時間になるまで、他の観客はついぞ一人も入ってこなかった。貸し切り状態は嫌いではないが、どうしても経営は大丈夫なのかと、岳登は心配になってしまう。
もっとミニシアターに限らず、映画館が賑わってほしい。そんな思いを予告編を見ながら、岳登は抱いた。
(続く)
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