第27話 二つ返事で
舞の部屋での撮影は段取り通りにスムーズに進み、予定終了時刻の一五分前には全てのシーンの撮影を終えていた。それはスタッフ・キャスト全員が高い集中力を持って臨んだからで、撮影が終わった後の部屋はいくばくかの達成感が漂っていた。岳登としても、思い通りのシーンを撮ることができた手ごたえがある。とはいえ、いつまでも余韻に浸っているわけにはいかない。今日はまだ閉館後の葵座での撮影が控えているのだ。液体ゼリーでエネルギー補給をして、岳登は頭を切り替えた。
夕帆や和花が一足先にホテルに戻っていくと、残ったスタッフは総出で部屋の片づけを始める。まず細々した小道具類を入れてきたのと同じ段ボールに入れていき、次に家具や家電を協力してレンタル会社のトラックに積んでいく。
カーペットやカーテンを外して、最後に簡単な掃除をすると、部屋は数時間前の何もない状態に戻った。さっきまでセットを組んで撮影していたのが嘘みたいに。もう二度と訪れない部屋に小さく礼をすると、後ろ髪を引かれるような思いさえ岳登は味わった。
ホテルに戻って次の撮影までの二時間あまりは、夕食を食べたりコンテを確認したり仮眠を取ったりしているとあっという間に過ぎ去った。
栞奈から準備を始めていいという連絡があったときには、もうスタッフやキャスト全員が葵座の隣のオフィスに集まっていた。既に時刻は夜の九時を過ぎていたから、岳登たちに残された時間はあまり多くない。焦って失敗をしないように、それでも急ピッチでセッティングを進める。撮るのは二シーンだけだったけれども、誰にとっても余計な時間をかけている場合ではなかった。
休憩を挟めたためか、昼間の撮影に続き、夜中でも全員が高い集中力を保ち続けてくれて撮影はあっという間に進んでいく。安形たち他のキャストもうまくリフレッシュできたのか、溌溂とした姿勢で演技に臨んでくれていた。撮影はミスもトラブルもNGもないまま順調に進んでいく。少しずつ現場が一つになり始めてきた実感を岳登は得ていた。
「ではこのシーンは埋まりで、本日の撮影は以上になります。お疲れ様でした!」
岳登からの「OK」を受けて、篠塚が現場全体に呼びかけたのは、日付が変わる一五分前のことだった。二シーンで七ショット、しかもそのうちの一つは映画のターニングポイントとなる極めて重要なシーンだ。それを三時間足らずで撮り終えられたことで、館内には充実感が生まれていた。
全ての撤収を終えて、榎の運転する車に乗りこんでようやく、岳登は内心で安堵の息を吐いた。先ほどのシーンは、今回の撮影期間での一番の山場と言ってもよかった。だからまだ折り返し地点も過ぎていないのに、岳登は一仕事終えたような気にもなっていた。
朝急いで撮影スケジュールを変更してから、日付が変わった今まで、途中少し仮眠を取った以外は今日もずっと動きっぱなしだった。だから、それなりに疲れて部屋に戻ったら、歯も磨かずにすぐにベッドに倒れ込むように寝てしまうだろう。
移動中の車の中で岳登はそう考えていたのだが、その予想とは裏腹にいざ自分の部屋に戻ってみても、眠気が岳登に襲ってくることはなかった。撮影中の興奮状態を引きずってしまっているのだろう。なんとか目を開けたくなるのを我慢して、眠れと自分に念じ続けて、それでもしびれを切らして目を開けたとき、スマートフォンの時計は目を瞑ってからまだ一時間も経っていなかった。
岳登はスリッパを履いて部屋の外に出る。館内にある自動販売機で、ホットココアでも買って飲もう。糖分を補給すれば頭も次第に眠くなってくれるはずだ。
三階に到着すると程よく照明が落とされた廊下に、ちかちかとした明かりが漏れている一角を岳登は見つける。そこには自動販売機が三台並んで立っていた。ソフトドリンクが二台と、その奥にアルコールが一台。岳登は真ん中の自動販売機で、ホットココアを買った。手にしてみると、熱すぎずじんわりとしたぬくもりがある。
ふたを開けて飲んでみると、砂糖をたっぷり含んだ甘ったるい味が舌を包んだ。カカオの味もしっかりして、素直に美味しいと感じられる。口を離すと、岳登は天井近くの壁に向けて一つ息を吐いた。かすかな甘い匂いが、暖かな空気に溶けていく。
「あれ? 成海監督、どうしたんですか? こんな時間に」
いきなり自動販売機コーナーの入り口から声がして、岳登は一瞬びくついてしまう。そこに立っていたのは秋代だった。きっと寝間着だろう、黒いジャージに身を包んでいる。
「いや、ちょっと眠れなくて。飲み物でも飲んで、気を紛らわそうかなと」
「そうですか。実は私もです。葵座での撮影での高揚感凄かったですもんね。私、まだ落ち着けてなくて」
秋代の声はどこか弾んでいた。岳登も「そうですね」と頷く。現場に渦巻いていた熱気に未だに当てられているのは、岳登も同様だった。
秋代は岳登と同じ真ん中の自動販売機で、コーンポタージュスープを買っていた。心と頭を落ち着けるために暖かく甘い飲み物をという思考に、岳登は共感を抱く。口をつけると、秋代も岳登と同じように、上方に向かって息を吐く。薄暗い廊下の中で、二人がいる一角だけが唯一明るかった。
「伊豆原さん、改めてですけど今日はありがとうございました。舞の部屋のセット、生活感があってとても良かったです」
自分の隣に立つ秋代に、岳登は声をかける。労を労おうという計算づくではなくて、本心から出た言葉だ。秋代もほっとしたような表情を見せている。
「ありがとうございます。でも、私の力だけじゃあの部屋はできていませんから。成海監督をはじめセッティングに協力してくれた全員のおかげですよ。あと快く家具や家電を貸してくださったレンタル会社さんにも、もう一度お礼を言わないとですね」
「そうですね。それと今日は申し訳ありませんでした。当日の朝になって予定を変更して、伊豆原さんに大きな負担をかけてしまって」
「そんな。成海監督が謝る必要なんてないですよ。朝は猛吹雪だったんだから仕方がなかったじゃないですか。確かにセッティングにかけられる時間は少し短くなってしまいましたけど、でも私は全然気にしてません。映画やドラマを見て、映画作りにはトラブルが付き物だってことは、何となく分かってましたから」
映画と現実は違う。岳登は一瞬そう思ったけれど、穏やかな表情をしている秋代を見ると、言葉は喉の奥に引っ込んだ。もともと撮影に参加してほしいと依頼したのは、自分の方なのだ。部屋のセッティングだけでなく、大道具や小道具に至るまで美術を一手に引き受けてくれている秋代には、頭が下がる思いがしている。
「それに実際に映画の撮影に参加してみて、気づいたことも数えきれないほどありますしね。スマホじゃないカメラを通すとこう見えるんだとか。撮影が終わっても、仕事やYouTubeに多くのことを還元できそうです」
秋代は撮影後のことを見据えていて、岳登は少し寂しくなってしまう。もともと和花に紹介されるまでまったく接点のなかった自分たちなのだ。この撮影が終わったら、あと会うのは葵座での上映会ぐらいで、その後は二度と会わない可能性だってある。
岳登はここにきて初めて、撮影後のことを明確に意識した。同じスタッフやキャストはもう一度だって集まれない。映画の撮影は常に一期一会だということが、『青い夕焼け』のとき以来久しぶりに身に染みた。
「あの、伊豆原さん。もしも、もしもの話ですよ」
「何でしょうか?」
「もし今回の映画がきっかけで、誰かにまた『映画の美術を手がけてほしい』って言われたら、伊豆原さんはどうしますか?」
「そうですね。そのきはぜひ『よろしくお願いします』と言いたいです」
秋代は即答していたから、岳登は一瞬驚いてしまう。映像の美術の仕事はカバーする範囲も広く、体力も多く使う。その大変さに辞めていく人間も、岳登は東京で何人か見てきた。だから思わず、「本当ですか?」という言葉がついて出る。でも、秋代はコーンポタージュの缶を握ったまま、澄ました表情を岳登に向けていた。
「本当ですよ。正直なところ、私最近ちょっと悩んでたんです。仕事をいただくのは嬉しいんですけど、このまま何年も同じ仕事を続けていくかと思うと不安になることもあったり、YouTubeもここ最近はあまり再生回数が伸びなくなって、本音を言えばちょっとマンネリ化していたんです。だから今の日常に何か変化がほしい。今回映画の美術の仕事を受けさせていただいたのも、そんな思いがきっかけでした」
「って申し訳ないですよね。皆さん必死なのに、私だけがこんな軽い気持ちで」そう恥ずかし気に付け足す秋代を、岳登は否定しなかった。動機がどうであれ、映画制作を支えてくれているのは紛れもない事実だ。
「いえ、そんなことないですよ」とフォローを入れる。「で、いかがですか? 映画の制作に参加してみて、何か変化はありましたか?」と、話を繋げることも忘れなかった。
「はい。もうありすぎるほどありました。仕事ではお客様の要望を聞きながらインテリアを考えていくんですけど、カメラにどう映るのかとか俳優さんがどう動くのかなんて考えもしませんから。多くの人が関わって一つのセットを作っている実感があります。もちろん考えることややらなければいけないことも多くて大変は大変なんですけど、普段の仕事やYouTubeとはまた違った充実感があって、ものすごくやりがいを感じています」
「それは依頼した僕としても嬉しいです。でも、本当に大丈夫なんですか? こんなこと言いたくないですけど、この現場以上に予算も人も少なくて、大変な現場なんていくらでもありますけど……?」
「それはまだ経験してないので、私には分かりません。成海監督が言うからには、きっと現実のことなんだろうと思います。でも、私はそれでも『大丈夫』だと言いたいです。もちろんそれ相応のお金はほしいですけど、それでも映画の制作には、他のどの仕事でも味わえない達成感や喜びがありますから。二つ返事で『お願いします』と言いたいくらいです」
「それが成海監督の次回作の現場だったら、最高なんですけどね」。さも当然のように秋代が言うから、岳登は秋代の顔から視線を外してしまう。ホットココアをもう一口、口にする。
岳登の次回作の予定は、今のところ全くない。この映画を最後に、もう映画を撮らない可能性の方が高いだろう。でも、秋代はそんなことは知る由もないから、謝ったり否定することは岳登には憚られた。ただ「検討させていただきます」とだけ答える。秋代も短い返事以上に、言葉を重ねることはしなかった。
自動販売機の眩い光に照らされる二人。時折する短い会話が、岳登の頭と心を少しずつ静めていっていた。
(続く)
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