第31話 さよなら、お姉さん!

「あれ? 中川くん」

「へへへ、オレも来ちゃったよ」


 真っ白のワンボックスカーのドアが開いて助手席から降りて来たのは、同じクラスでサッカー部の中川くんだった。


「あ、大輝だいきがお世話になってまーす」


 エンジン音が止まり、運転席から降りて来たひょろっと背の高い男性が片手を上げる。春はもうそこまで来てるけど吹く風はまだまだ冷たい。それなのに中川くんもこの人もジーンズにTシャツという軽装。その二つの顔を見比べ口がぽかんと開いてしまった。


「あははは、言わなくてもわかるよ。双子みたいだって言いたいんだろ?」

「はあ……」


 言いたいことを先取りされてしまい、次の言葉が出てこない。まだ、「はじめまして」も「おはようございます」も言ってないのに。


 朝子姉さんから、職場の「中川さん」という人が引っ越しを手伝ってくれると聞いていた。まさかその人が同級生のお兄さんだとは知らなかった。


「じゃ、こっちお願いしまーす!」


 ガラッと三階の窓が開く。朝子姉さんが半身を乗り出し、喜々として手を振っている。朝の陽光を受けてキラキラ輝いている。新しい出発の朝にふさわしい笑顔だと私は思った。


「今、行くから!」


 すごくよく通るバリトンだなと思って振り向くと、手を振る大輔さんの顔もアサヒを反射するように輝いている。車を降りて来た時よりもかなり紅潮している。肌の細胞一つ一つが生気に漲っている感じ。


 ──え? このふたり‥‥‥。


 直感でわかった。


 わかった瞬間、どうか今度こそはうまくいって欲しい、と発作的な祈りが溢れてきた。


 ゲンジ先輩とは新年を迎える前にすでに破綻していたらしい。彼は私に対してだけじゃなく、いろいろな女性にストーカーまがいの行為を繰り返していたと聞く。そういう噂だ。でも、私にはわかる。彼は悪人ではないのだ。実際、警察に訴えられるほどのこともしていないし。ただ──、とても素直な人なのだとおもう。その素直がちょっと度を過ぎているというか‥‥‥。


 朝子姉さんのことが好きだったから、いつも彼女と一緒にいた。秋までは大学進学も視野に入れていた人だから、教室で、そして部活引退後は放課後の図書館で、お姉さんと額をつき合わせて勉強していたそうだ。彼女の方は進学はあきらめていたから、自分のための勉強はしない。教室で習ったことや問題集の内容を噛み砕いて彼に手取り足取り教えてあげた。それがもともと勉強の好きな彼女にとっては理想の居場所となった。


 二人とも素直だから、自分の感情に早いうちに気がついた。素直だからそれを表現した。お姉さんが本来人前での感情表現が苦手であることをゲンジさんはよく知っていたから、お姉さんが笑ったりはにかんだりすると、自分が彼女にとって特別であると感じた。実際、特別だったのだろう。


 肉体関係に至るまでそう長いことかからなかった。放課後、誰もいなくなった教室の片隅で──なんて大胆なこともあったようだ。(お姉さんがそれとなく話してくれたのだ。)


 車好きのゲンジさんだから、大手自動車販社の求人情報への反応は電光石火だった。会社の方でも彼のことが気に入ったらしい。体力にひいで、情熱家かつ努力家であり、体育会という組織社会にも慣れ、ルックスもまあまあ。


 内定が出たとたんにゲンジさんは変わった。有名会社のエンブレムで人の心は変わるのだ。


 お姉さんとの関係はぎりぎり維持しながら、明らかに彼女よりはレベルの高い女子を狙いだした。男子に人気があり、いつもみんなの中心にいて、クラス委員もやってたりする、の女子。ちょっと反応がいいと、すぐ後を追いかけ回す。けっこう細かいところに気づく男子だから、言い寄られた女子の方でも悪い気はしなかったんじゃないかと思う。


 けっこうことにも長けていたようだ。クリスマスイブのサッカー大会のことが思い出された。小中学生だけでなく、ゆきちゃんとたっくんにまで気を使っていたではないか。後になってお姉さんは「演技よ」と吐き捨てたのだが。


 ──女の子に気に入られるためならあのくらいのことはお茶の子さいさいよ。

 ──女の子って‥‥‥。

 ──決まってるじゃない。アンタのことよ。


 ついこの間の会話だった。ショックだった。お姉さんにとってはもっとショックだったと思うけど。


 お姉さんはゲンジ先輩のことけっこう気に入ってたと思う。あちこちの女子に手を出していたことが明るみになった時かなりショックを受けていた。でも、うじうじ悩んでいる彼女ではなかった。この男はダメだと思ったら、果敢に切り捨てる決意と勇気には驚嘆したものだ。


 ──そうよ。施設を出たら一人で世間を渡って行かなきゃならないんだから、このくらいの勇気を持たなくては!


 私もそう決意させられた。


 でも、朝子姉さんだって女だ。だらしない男は切り捨てたものの、毎夜毎夜部屋で一人で泣いていたのを私は知っている。


 ──大輔さんとはうまくいってくれるといいな‥‥‥。


 私は強く強く願った。そして祈った。


「中川先輩はね、湖南高校サッカー部の伝説になってる人なんだ。鬼キャプテンとしてね」


 脇から補足説明をしてくれたのはジュンくんだった。朝子姉さんの新しいカレシの登場でジュンくんがいることさえすっかり忘れていた。


 彼は「オレのこと忘れていただろ」と責めるような目つきで私を見ると、打って変わったように優しい目つきになり、私の頭を優しくナデナデしてくれる。


「お、鬼だったんですか?」


 振り返って大輔さんを見上げると、テヘヘヘへと頭を掻いて、はにかんでいる。その表情、たっくんにそっくりだ。

 

 こんな優しそうな笑顔とひょろりとした体躯からはとても「鬼」を連想することなどできなかった。


 この時見た彼のはにかみは、私たち高校生が持っている思春期特有のそれではなかった。厳しい上下関係のある社会の中で訓練され身についた、礼儀としての、作法としての要素が多分に含まれていることが伝わって来た。


 ふだん優しい人だけど内面的な強さと厳しさを持った人。──そんな人なら朝子姉さんをしっかり導いてくれるだろう。


「よかった!」


 お姉さんの前途は明るいはずだ、きっと。よかった、本当によかった。


「え? 鬼でよかったのか?」


 ジュンくんが大輔さんをちらちら見ながら、腑に落ちない顔で頬をポリポリ掻いている。


 荷物の積み込みはあっという間だった。男性は布団袋やら衣装ケースなど、大きめの荷物を二つずつ、私と朝子姉さんは靴やワレモノの入ったスポーツバッグを一つずつ運び入れたらもう終わり。ベッドや机や洋服ダンスなどの家具は施設のものだから荷物の総数は少なくて当たり前なのだけど、積み込みに要した時間はたったの20分足らず。そのあっけなさに全員がしばし物足りなさと空しさに呆然としてしまった。


 お姉さんが出発する時、愛光園の子供たちと職員のみんなで見送った。


 これでお別れというわけじゃない。明日、部屋の整理を手伝いに行くと約束した。職員さんも定期的に様子見に訪ねることになっているし、私も時間を作ってちょくちょく行くつもりだ。お姉さんがいつ来てもいいように、部屋のタンスには彼女のパジャマが置いてある。早速週末にはお姉さんが私の部屋に泊まりに来る。一緒の布団で寝る約束になっている。


 最後のお別れをしたわけじゃないのに、お姉さんがいなくなった部屋で私は一人で泣いた。畳の上に正座して。明日になったら会えるのに。週末になったら一緒のベッドで寝れるのに。心にすきま風が吹いて鼻の奥にしんしんと沁みた。そして、


 ──どこにいるの‥‥‥?


 と思った。


 朝子姉さんはしっかり勉強したから、立派な会社に就職した。住む寮だってある。今頃、大輔さんと仲良く部屋の整理をしているはずだ。彼女はそこにいるだろう。そう、そこにのだ。でも、


 ──どこへ行ったんだろう‥‥‥。


 と思った。


 不安に打ちひしがれた彼女の心が、たった今彼女が出て行ったばかりのこの畳部屋に転がっているような気がしてならないのだった。まだ愛光園に留まっていたい幼い心が。18歳になったけど本当はまだまだ子どもの彼女の心が。しかし、私の目にはそれが見えない。どこにいるの? どこへ行ったの?


 やがて、それは自分の心なのだと悟った。将来が不安で不安でしょうがない私の心が、お姉さんが出て行ったばかりのこの部屋に漂っている。空っぽになってしまった部屋が見事に私の心と共鳴しているのだった。


 キューっと胸を絞られるような孤独感。そして不安感。負の感情がデコボコな形をなし、気管支をふさいでいる。呼吸が苦しい。私は両手で胸を押さえ、深呼吸してみる。空気を限界まで吸い込み、一滴残らず吐き出す。それを何度も反復する。それでも空気が足りない。


 目が霞む。耳が遠くなる。


 ああ、私は宇宙に放り出されたんだ。広大な空間にたった一人。お父さんもお母さんもいない。私は天涯孤独の身。この不安、どこかへ消え去れ! この孤独、誰かいやして!


 階下からたっくんのやんちゃな声が聞こえてきた。


 とたんに際限なく広い真空をさまよっていた魂が私の肉体にスポンと落ちてきた。


 目を開けるとお姉さんが残して行った大きな細長い鏡があった。私が映っている。私がそこにいる。私の魂はこんなに若くて美しい肉体を住処すみかとしている。みんながかわいいと言ってくれる顔。男の子に視線に撫で回される魅力的な躰。


 ──ウソだ‥‥‥。


 うずくほどに寂しい心がこんなに美しい形をしているなんてウソだ。こんな顔と躰を見てほしいんじゃない。本当は不安で不安でしょうがない私の心をわかってほしい。バイトでもしなきゃ、クラスの中心になって騒いでいなきゃ崩れて来そうな私の心を慰めてほしい。


 ──ジュンくん‥‥‥。


 たった一つの希望の名を呼んでみた。


 すると、ジュンくんのお母さんの夏帆さんが私の左肩に、お父さんの薫さんが右肩に優しく手を置いてくれた。その温かみを私は確かに感じている。貞利博士にミツエさん。愛理にこのみちゃんもいる。みんな仲良く目の前の鏡に映っている。真ん中に泣き虫の私がいる。


 「ジュンくん」と呼ぶだけで私がこんなにたくさんの人の愛に包まていることがわかった。園長の里美先生に田口さん。あんなに小さいゆきちゃんとたっくんまで映っているではないか。みんなみんな私の強い味方だ。


 真純と美丘だって、私が私である限りこれから先もずっと親友でいてくれるだろう。


 不安じゃない。私の魂はみんなの愛に包まれている。


 きっと朝子姉さんもそれを確信したから、施設から自立できたんだ。お姉さんの自立でセンチメンタルになっているのは私だけ。なんて恥ずかしい子なの、サキは‼


 もっと前向きになれ! 美浜咲!


「ジュンくん‥‥‥」


 畳の上に投げ出してあった携帯電話を拾い上げ、愛しい人の声を聞く。


「あの状態のサキを一人残して帰れるわけないだろ。愛光園の真ん前にいるよ。降りて来いよ!」

「あの状態って‥‥‥。そんなに私ひどい顔してた?」

「‥‥‥いや、それでも、かわいかったけどな」

「もう! ジュンくんったら!」


 嬉しくてうずうずするのに、怒ったふりをする素直じゃない私。


「海、見に行こうよ。 朝日にきらめいてきれいだぞ!」


 朝日よりジュンくんの声の方がきらめいている。


「えー、寒いじゃん」

「コート着て来いよ。 それから……」


 ジュンくんは突如として声を低めた。


「ブラとパンツは脱いで来い」

「え? ど、どうして?」


 私の声も低くなる。周りに人の耳がいないか臆病な小動物のようにきょろきょろ確かめる。


「オレがじっくりと温めてやるからさあ」

「あ……、いやん……」


 とたんに下腹部がゆるみ、声が漏れてしまった。


 私は部屋で身支度をすると、猛スピードで階段を一段抜かしで走り降りてゆくのだった。


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