第23話 公開プロポーズ
集会室に戻ると、あんなにたくさんあったフライドチキンが綺麗に平らげられていた。バケツの中を覗いてみたがひとかけらも残っていなかった。その代わり各自の前に置かれたカーネル・サンダー氏の笑顔の上には鶏の骨が山になっていた。
職員さんと中学生が協力してテーブルを拭いている。窓が開けられ換気したようだが、まだフライのにおいがうっすらと残っている。
舞台の中央には二つの譜面台とひとつの椅子が用意されていた。
ジュンくんが舞台に上がると、隅に立てかけてあったチェロのネックを掴み、中央の椅子に座った。長い脚で挟むと、大きかった楽器が小さく見える。慣れた手つきで五本の弦をはじきながら、弦の下の方にある金色のネジを回している。
私はびっくりして立ちすくんでしまった。だって、ジュンくんが楽器を演奏するなんて全然知らなかったから。高校のみんなの認識は、「牧村潤君といえばバレーボール」だ。いや、バレーボールだけじゃない。陸上でも鉄棒でも何でも来いのスポーツ万能の男子として知られている。
そのジュンくんがチェロ演奏だなんて‥‥‥。
私は例の自傷行為を始めた。頬と腕とを盲滅法につねりまくる。痛い。現実だ。ジュンくんが「おいおい、また始まったか?」という呆れた目つきで見ている。私は「えへっ」と舌を出す。
愛理さんも、携えてきたケースからフルートを取り出した。息を吹き込んで細い指を動かすと、湖南高校吹奏楽部のフルートより音がいい。芯があり艶がある。ビブラートのかかったフルートなんて初めて聞いた。
ジュンくんのチェロと音合わせを始める。集会室にこれまでにはなかった文化的な、アカデミックな雰囲気が漂いだした。
「はい、みなさーん、注目、注目ぅー!」
田口さんが口を「田」の形にしてパンパンパンと三度手を打つ。フライドチキンの興奮の冷めやらぬ小学生たちはなかなかおしゃべりをやめようとしなかったが、年上のお兄さんたちに注意され徐々に波が引いて行った。
「今日のスペシャルゲストを紹介します。牧村潤さんと愛理さんでーす!」
パラパラと拍手が起こる。
「そしてあちらにいらっしゃる方々は、本日のフライドチキンのスポンサーの方々でーす」
田口さんが指し示す方向を見ると、出入り口に牧村一族がたたずんでいた。
「拍手ぅー!」
バリバリバリと嵐のような拍手に続き、ゴオーと地響きのような歓声が巻き起こる。
「ごちそうさまでしたぁー!」
「ありがとうございましたぁー!」
「お正月にもひな祭りにもお待ちしてまーす!」
若い歓声に、博士ご夫妻も、医院長ご夫妻もご満悦の様子だ。4人はあらかじめ用意された特等席に腰を下ろした。
フルートとチェロの二重奏が始まった。
一曲目はモーツァルトのオペラの二重唱を編曲したものだそうだそうだ。軽快で人懐こいこのメロディーはどこかで聞いたことがある。主旋律はおもにフルートが担当する。伴奏を担当しているチェロもフルートの波に浮き上がるようにしてメロディーを担当する場面があった。
二人とも高校生だし、楽器はあくまでも趣味だ。音大への進学など考えていない。だから音程がときどき狂うのはしようがない。それでも二人の演奏は息がぴったり合い、聴衆に感銘をもたらした。
そのあと、子どもたちにもなじみが深いクリスマスキャロルが二曲続いた。壁に寄りかかって聞いていた私は、ふと集会室の一番後ろ、朝子姉さんとゲンジ先輩のいる方へこっそり目をやった。
肩を並べて座っていた。照明が落とされているからあまり良くは見えなかったのだけど、朝子姉さんはくちびるを嚙み、目を真っ赤にしていた。誰かが話しかけようものならとたんに泣き崩れそうな顔つきだった。ゲンジ先輩は体裁の悪そうな顔をして舞台を見つめている。とても私が近づいて行けるような雰囲気ではなかった。
「朝子姉さん、ごめんなさい……」
クリスマスキャロルはこんなに幸せに満たされているのに、私はどうしてこんなに悲しいんだろう。悲しくて、寂しくて、情けなくて、申し訳なくて……。楽しいはずのクリスマスなのに心が晴れないのは、やはり私が「悪魔の子」だからか。「悪魔の子」には神さまの祝福が届かないのか。
演奏が終わった時、私の頬は濡れていた。ジュンくんがお辞儀をして舞台から降りて来る。緊張から解放されたのか、ほっとした顔でこちらに歩いてくる。私は彼の胸の中に飛び込んだ。彼の愛に救ってほしかった。彼に慰められたかった。
ジュンくんが片手で(もう片方の手はチェロのネックを握っていた。)背中を抱いてくれた時、みんなの注目の中、声を上げて泣いてしまった。それは、喉がヒクヒクして、いつまでも収まらなかった。
「サキ……、どうしたんだ?」
私は彼の胸にうずめた顔を「何でもない」と左右に振った。彼のワイシャツに涙がしみ込んだ。子どもたちが、不思議そうな顔つきで私たちに注目しているのが背中で感じられる。
「よし、わかった。なら……」
ジュンくんは私の手を取り舞台の中央に上がった。
私は子供のように両手で顔を覆っていた。自分が舞台に立っていることなどにまったく頓着せず、ただ肩を震わせて泣きじゃくっていた。ジュンくんは椅子に座りチェロを構える。そして弾き出したのだ。──エルガーの「愛の挨拶」だった。
──また、この曲……。
学校の屋上で川田君に告白される時も、この曲だった。
CMやドラマで使い古され、すっかり耳に馴染んでいるはずの曲が、この世で一番美しい音楽に聞こえた。そして、私の悲しみにこんなにぴったり寄り添ってくれる曲があるだなんて、とても信じられなかった。そしてその曲をジュンくんが弾いているのだ。きっと彼は5か月の間私に伝えたかった思いを込めて弾いているのだろう。その思いはどうしても埋めることができなかった心の空白に注がれ、今や溢れだそうとしていた。それでも私は貪欲に彼の音を吸収した。
──悪魔の子なんかじゃないよ、私は。だって、ほら、ジュンくんが心を込めてチェロを弾いてくれているじゃない。
私の悲しみの涙は喜びの涙に変わっていた。憧れのジュンくんが私のために音楽を奏でてくれる。嬉しい。幸せ。
5カ月という期間は空白ではなかったと知った。土にまかれた種がいきなり芽を出すのではない。根が土壌に深まった分、広く張った分、太陽に向かって伸びることができるのだ。ジュンくんの愛がこんなに深まっているのに、私を求めてこんなに伸びているのに、私は何も知らないでいた。
正直言うと、入学以来、私はジュンくんのことばかり考えていたのだった。私のことが好きなのだろうか。関心がないのだろうか。きらいなのだろうか。──考えても考えても選択肢を絞り切れず、結局、次の日も、そのまた次の日も同じことを考えているのだった。彼の「結婚しよう」を何度も疑った。本気なの? 気まぐれ? それとも頭にザルを被せたように、ただのからかいだったの? そこにもやはりいくつもの選択肢が生じた。それが多すぎて、絞り切れず、いつもそのことを考えるはめになった。要するに私の心はいつもジュンくんでいっぱいだったのだ。私の愛の根も土壌の奥深く伸びていたのだった。
それを躰のサイドから後押ししたのが牧村博士の│
ジュンくんのことを考えると、満開の女体が反応した。乳首が、子宮が、膣が、クリトリスが疼いた。その切ない疼きは、ジュンくんへの思いを躰の奥底まで打ち込む役割をした。ただの「好き」が容易に「抱かれたい」という深い思いに変貌した。私にとっては驚異的な変貌だった。それほど、5か月の期間は意味深い期間だったのだ。
舞台の真ん前に座っているミツエさんと目が合った。「セックス」も「おまんこ」も女の幸せのキーワードだとおっしゃった彼女。そう、処女はセックスに対して罪悪感を持つ必要はないのだ。もっともっと、ジュンくんとのセックスを想像しよう。ミツエさんは正しい。──今は全身全霊でそう実感できる。
曲が終わると、聴衆から心のこもった拍手が送られた。
ジュンくんは立ち上がって、楽器を脇に寝かした。そして、みんなが注視しているなか、私の前にひざまずいた。私は優しく手を取られた。中学生たちの目が星のように輝きだす。胸の前に手を握り合わせて、ジュンくんのくちびるからどんな言葉が漏れでるかをワクワク期待している。
「サキさん、愛してる」
そのささやきは集会室の一番後ろまで届いたであろう。それほど透明で純度が高い声だった。手の甲にキスが落とされた。
「すっげー! ほんまもんの愛やでー!」
「私、感動ぉー!」
「いいなー、羨ましい!」
「お幸せにぃー!」
あちこちから歓声が上がった。田口さんが柄にもなく目を潤ませている。やがて集会室が大きな拍手に満たされた。
「あらまあ、園内でこんなことがあっていいのかしら……」
美里園長は当惑気味だったが、牧村一族が感動に濡れている様子を見て顔をほころばせた。
「交際してほしい。そして、18歳になったら、結婚してほしい」
「は、はい……」
嬉しいはずなのに、この瞬間を待っていたのに、バカな私は突っ立ったまま泣きじゃくってしまった。本当に今日は泣いてばかりだ。両手で目を覆うが涙が次から次へと流れ落ちてくる。顔が泥のようにぐちゃぐちゃになる。何泣いてるの、サキ。ジュンくんが困惑してるじゃない。嬉しいなら笑って。ほらほら、笑うのよ。ジュンくんの胸に飛び込みなさい。──もう一人の私が、泣き虫の私に促す。
顎がひょいと上げられ、くちびるが塞がれた。ジュンくんとの初キスだった。
愛理さんのフルートが「愛の挨拶」を奏でる。それに合わせて貞利博士とミツエさんが英語で歌う。薫さんと夏帆さんも続く。
あとで知ったことだが、「愛の挨拶」には本来歌詞はない。この時の歌詞は貞利博士がワーズワースの詩を一部改作したものだそうだ。それを家族のみんなで歌える背景にはただならぬ教養の深さがあるに違いない。
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