第22話 援軍登場


 3階に上がるとすぐに園長先生のお部屋がある。何度か入ったことがあるがとても広い。応接間と事務室とプライベートルームに分かれている。私の部屋は廊下の突き当りの右側。左側が朝子姉さんの部屋。


 園長室を通り過ぎようとすると扉の向こうから声が聞こえた。たくさんのお客さんが応接間で歓談している様子が伝わってくる。


「あっ、ミツエさん……」


 そう、あの上品な話し方。ピーンと張りのある声は明らかにミツエさんだ。ぼそぼそとささやくような声は「おじいさん先生」に違いない。


「じゃ、そろそろ下りてみましょうか」とドアのすぐ向こうから美里園長の声が聞こえたかと思うと、キィーと音がしてドアが開いた。


 ドアの隙間から美里先生の秘書も務めている職員さんが顔を出す。私がいることに気づいた職員さんは「あら」と小さく驚いた。奥に振り返り、美里先生に無言で問いかけている。


「おやまあ、美浜咲さん、どうしたの? みんなと一緒じゃなかったの? あらあら、目を真っ赤に腫らして何があったのかしら……」


 先生は慌てて出てきて、私を胸に抱いてくれた。よしよし、と幼児にするように頭を撫でてくれる。いつもならここで鼻の奥がグズグズ鳴り出して、うわーっと嗚咽するところだ。だが、今日はお客様がいる。それも尊敬する「おじいさん先生」とミツエさんだ。取り乱すわけにはいかない。眉間と喉の奥とお腹にぐっとありったけの力を入れて耐える。


「ゆきちゃんとたっくんに虐められでもしたのかしら。まあ、それは後からお話を聞くことにして……。サキさんにね、ご紹介したいお客様がいらっしゃるの。きっと元気が出ると思うわ」


 だからちょっと入って来いと言われた。涙の痕がわからないように、私はうつむき加減に中に進んだ。


「こちらね、牧村先生ご一家でね……。牧村貞利博士と奥様のミツエさん」


 もうご存じよね、と言い添えて、美里先生は丁寧に指をそろえた右手をおふたりに向けた。


「ようこそいらっしゃいました」


 私は目じりの涙を人差し指で払い、丁寧に頭を下げた。子どもみたいにべそをかいているところを見られてしまって、恥ずかしい。



 目を上げた瞬間、神さまを感じた。神さまっているんだ。本当に私の願いを聞いてくださるんだ……。


 長いソファーの一番むこうの隅に、なんとジュンくんが座っていたのだった。


「あら、サキさん、今日は素敵なスカート穿いて……。本当にお綺麗よ」


 ミツエさんがソファーから立ち上がり、腕を広げて歩み寄ってくる。そして、暖かく抱いてくださったと思ったら、宝物にでも触れるように、私の頬を撫でてくださる。ジュンくんの突然の登場に加えて、ミツエさんの優しい言葉。信じられないくらい嬉しくて、危うく涙腺崩壊になりそうだった。


 私は牧村博士に向き直り、ぺこりと頭を下げる。 


「お世話になってます。お蔭様で腰の方、とても調子がいいです」


 すると「おじいさん先生」は、うほほほほと笑ってから、「私のはりの威力を発揮するのはこれからですよ、サキさん」と静かな声で言った。いえいえ、もう十二分に発揮されています、と喉元まで言葉が出かかったが、場所柄控えた。だって、性感が高まったことなど口にできるわけない。特にジュンくんの前で。


それはそうと、「おじいさん先生」は博士だったんだ。ただの優しい鍼灸師じゃなかったのだ。専門家中の専門家。権威中の権威。博士の優しさに甘えて、いままであまりにも失礼な態度を取って来たのではないだろうか。


「それから、こちらが息子さん御夫婦でサンライズ鍼灸院をなさっている牧村かおる先生と奥様の夏帆なつほさん」


「はじめまして、美浜咲です」


 勢いよく頭を下げると薫先生も、うほほほほ、と笑ってから「長い付き合いになりそうです。よろしく」と低い声で言った。素敵なバリトンだ。声楽でもやっていらしたのだろうか。この方がジュンくんのお父さま……。ちょっと緊張する。顔はあまり似てないようだけど、落ち着いた佇まいの中に茶目っ気をのぞかせる雰囲気はジュンくんと共通だ。


「わたくし、エステティックサロンをやっておりまして、サキさんにもぜひ一度施術をさせていただきたいと思っていたところです」


 この方がジュンくんのお母様……。高校生の私にも敬語を使ってくださる。物腰が柔らかくて上品だ。それに若い。綺麗。セクシー。ジュンくんと結婚したらこの方が姑さんになるんだ。


それにしても、「長いつきあい」?「私にも施術」って? 私にはそんな資格なんてないし。第一、私のことを誰から聞いたのかしら。ここにいるみんなが、私に会いに来たように感じるのはなぜ? 買い被りすぎなのだろうか。


「はい、とてもうれしいです。エステでしたら、していただくより、教えていただきたいです。お母様の下で」


 エヘヘへ……。「お母様」とお呼びしてしまった。「いつでもいらっしゃい」と言ってくださったのは、いつでも教えてくださるということだろうか。


 ジュンくんってお母様似なんだ!


「そして……、こちらはもうご存じね。高校が一緒なんですものね。牧村潤さんと愛理さん」


 制服姿のジュンくんはいつものように片手を上げて、やあ、と言った。相変わらずキラキラ輝いている。私のことをほっぽらかしにしておいて、その輝きはあまりにも妬ましい。


 私の心は相反する二つの思いで引き裂かれそうだった。一方は、今すぐジュンくんの胸の中に飛び込んで大声で泣きたい思い。もう一方は、「結婚しよう」なんて言っておいて一度も電話してくれないし、会いにも来てくれなかったことに対する恨み。そう、恨みなのだ。憎たらしい!


 そんな心理状態にもかかわらず、


「久しぶりね、ジュンくん」


 涼しい顔で、いつも友達にするように胸の前に手を上げヒラヒラと振った。

 

 ただし、声は反オクターブ落とした。


 私の心は最終的に「恨み」に傾いたようだ。7月に「おじいさん先生」のお宅で会ったきり。今日はもうクリスマスイブ。5ヶ月間のご無沙汰を私は恨んでいる。その思いを声を落とすことによって込めたつもりだけど、女の子のことに鈍感そうなジュンくんにどれほど通じただろうか。


「私とは、はじめまして、かな……」


 やはり制服姿の愛理さんがソファーから身を乗り出し、手を伸ばしてきた。


「ええ、初対面……ですよね? は、はじめまして……」


 彼女の手を握ると、ぎゅっと握り返され、大きく上下に振り回された。


「あなたとなら仲良くできそう。ジュンくんのこと、よろしくね。ニャンニャーン!」


「え? ジュンくんのこと? あ、はい。ええ、よろしくお願いします」


 愛理さんとは直接的な面識はない。ただ、ジュンくんと廊下で話しているのを一度だけ見たことがある。あの人がジュンくんのカノジョ人か。綺麗な人だな、と思っていた。そばで見ると一層美しい。すらっと背が高いし、肌が白くてきめこまやか。鼻筋がスーッと通り、高校生とは思えないほど大人びた雰囲気をまとっている。その人に「ジュンくんをよろしく」と言われた。え? ジュンくんはあなたが独占したいんじゃないんですか?


 それに、「ニャンニャーン」だなんて……。


 みなさんの前でこなれすぎじゃありません?


 しかし、どうしてジュンくんと一緒に愛理さんがここにいるの? 同じ歳だから兄妹ではないはず。従姉妹? 遠い親戚? それとも許嫁いいなずけ? ──わかならい。


「じゃ、そろそろ潤さんと愛理さんの出番ですね」園長先生が若い二人を促す。「じゃ、サキさん、わるいけど……」


 二人を集会室に案内してほしいというのだった。


 部屋で一人になりたくて上がって来たのに、お客様をご案内してまた集会室に下りていくことになってしまった。まあ、いいか。一人ぼっちでジュンくんの姿やジュンくんと仲良くお話しする場面を想像することより、本物のジュンくんと一緒にいたほうがずっといいに決まっている。下に下りてまたゲンジ先輩と顔を合わすのは嫌だけど。朝子お姉さんにも顔が合わせずらいけど、ジュンくんと一緒なら乗り越えられそうだ。彼が守ってくれるから。だって、私に「結婚しよう」って言ってくれた人だから。


 ジュンくんと肩を並べて階段を下りる。一歩遅れて両手を後ろに組んだ愛理さんがついてくる。


「本当に、もう腰の方は大丈夫なの?」


 ジュンくんの暖かい視線を浴びせてくれる。思わずくちびるの端が上がってしまう。だって、本当に心配そうな顔するから。愛理さんが気になって後ろを振り向くと、おおらかな笑顔で私たちを見守っていた。それは私とジュンくんの仲を認めてくれる笑顔だった。


「うん、大丈夫……」


 と言ったとたんに私は階段を踏み外し、パタン、という大きな音を出してしまった。彼の胸にしがみつく。そう、「男の性感帯だよ」と言われた胸に。


「ほらほら、キミは躰が華奢だから。僕につかまって」


 ジュンくんの右手が私の右手を握ってくれる。左手は後ろに回され私の腰骨をしっかり支えてくれる。腰の括れからヒップに移行する、女の子にとっては本来異性にはあまり触られたくない部分だけど、なんか……とてもいい。大事なところがしっかり守られている安心感。


 後ろが気になってまた振り向く。愛理さんは私とジュンくんがこんなにも距離を縮めていることが全然気になっていないようだった。それどころか、もっとくっつきなさいよ、とでも言いたそうな顔をしている。やっぱり、二人がつき合っているといううわさは周りの女子たちの早とちりだったんだ。


 疑いは氷解! ──てことでいいんだよ、ね? 


「母さんがね、キミを今夜うちに招待したいって言うんだよ。クリスマスだから。園長先生にも許可を取ってある。来てくれるよね?」


 ジュンくんは頭を掻きながらおずおずと言った。その表情、私には理解できる気がする。5か月も私をほったらかしにしておいた良心の呵責だ。彼を見ているとなんか無性に意地悪をしたくなってきた。


「招待してくださったのはお母さまよね? じゃ、お伺いするわ。ジュンくんの招待ならちょっと考えないといけないけど……」


 私は、フン、と鼻息を吐いてあらぬ方を見やった。後ろで愛理さんがクククと笑ってジュンくんの横腹を指でつついてきた。


「ほーら、ジュン、反省しないといけないよね」


 愛理さんは「ジュン」と呼びつけにした。


「いくら牧村家の流儀だからって5か月も放っておいたのよ。それで最近の女子高生が心穏やかだと思うの? サキちゃんは貞淑だからよかったけど、違う女子だったらとっくにほかの男のモノになってるわよ」


「牧村家の流儀って……」


 やっぱりジュンくんの意志ではない大きな力が私たちには働いているのだった。


 愛理さんが続ける。


「まあ、それは後から説明することにして。今日はジュンのお宅、行きなさいよ。サキちゃんを招待したいのは、夏帆さんよりジュンなんだからさあ」


 きっといいことあるわよー、と愛理さんは意味深なウインクまでした。ん? ジュンくんのお母さまのことを「夏帆さん」と呼んだ。この瞬間だけよそよそしく距離を置いたという雰囲気ではなかった。愛里さんってジュンくんの何なの?


 桜坂でジュンくんに初めて会った時から感じている大きな流れに、私はやはり今でもぐいぐいと押され、目的地へと流されているのを感じているのだった。「結婚しよう」と言われたのも、5か月も会ってくれなかったのも、すべて計画的になされているように思う。「牧村家の流儀」とやらがそこにどう関係しているのかも関心がある。私の直観では、園長先生も何らかの形で協力しているようだ。さらに、牧村博士にも、ミツエさんにも、愛理さんにも、ひょっとしたらジュンくんのご両親にも、それぞれ与えられた役割があるように感じられるのだ。要するに、みんなグルだ! 


 錯覚だろうか?


 

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