第21話 私なんていない方が
夕食はいつも5時から9時までの間に、各自都合のいい時間に食堂で摂る。炊飯ジャーからご飯、お鍋から吸い物をよそい、ラップのかかったおかずを電子レンジでチンする。デザートはたいていミカンかバナナか半分に切ったリンゴ。たまにプリンやヨーグルトになる。食事の時間はまちまちだから、居室のテーブルが混雑することはない。私がバイトが終わって園に帰宅するのが8時20分ごろ。シャワーを済ませてたいてい一人でテーブルに向かう。ゆきちゃんとたっくんはもう部屋に入って寝ている時間だ。
その時間は私にとって一番孤独な時間だ。ドラマなら主人公の向かいにお母さんやお父さんが座っているものだ。弟や妹がいる時もある。そんな場面は私の半生で一度たりともなかった。ときどき、料理担当の職員さんが「どう、おいしい?」なんて声をかけてくれることもあるけど、基本的には一人。さびしい食卓。
小中学生がだらしない格好で畳に寝そべりテレビを見ている時もある。いっしょの居室にいるけど彼らはテレビの中の世界に没頭して私には関心を示さない。「私、その人が犯人だと思う」とか、「○○って最近離婚したんだよね」とか、知っている限りのドラマ情報とか芸能界情報を動員して話しかけてみるが、梨の
今日はクリスマスイブ。特別な日だから集会室での夕食となる。フローリングに高い天井。朝なら高窓から日光がふんだんに注がれる。広いから、卓球テーブル5,6台はおけると思う。
いつもならみそ汁やカレーの匂いが漂ってきそうなところだが、なんてったって今日はクリスマスイブだ。細長い会議用の机を寄せ集め、きれいなテーブルクロスで覆い、長い長いバンケットテーブルを縦に二列こしらえた。30人余りの子どもたちが余裕で座れそうだ。
その上にはカーネル・サンダー氏の笑顔が描かれた四角いボックスと、これまでに愛光園では見たことのないスヌーピーのマグカップが整然と並んでいる。食べ盛りの子どもたちを配慮してだろう。各列の真ん中にバケツサイズのカップがドデーンと置かれ、フライドチキンが山盛りになっている。コーラもジュースも今日はボトルのサイズが大きい。
「うわー、すっげぇー!」
「キャー、おいしそう!」
「こんな豪勢なの初めてよ、私!」
チキンバケツの周りから席が埋まって行く。特等席を奪われた子供たちは仕方なくその周りの椅子を引いて座る。だが、そこからは手を伸ばしてもチキンには手が届かない。彼らは一様に残念そうな表情だ。
「誰かお金持ちの人の援助ですかぁ?」
ませた女子中学生の声が上がる。
たしかに、こんなに贅沢なイブは私の知る限り初めてだ。篤志家からの支援があったに違いない。
「みんな、いつも明るく頑張っているからよ!」
料理担当の職員さんがみんなの前にお皿を置きながら、嬉しそうに語尾を上げる。
いつも渋顔の田口さんも、今日ばかりは嬉しそうだ。みんなのマグカップに飲み物を注いで回る担当だ。
「みんな、感謝していただこうな!」
その時田口さんと私の視線が合った。彼の意味ありげな視線で私にはピンと来るものがあった。え? ひょっとして──鍼灸師の「おじいさん先生」? ミツエさん? ほんと? そう言えば一週間くらい前、二人が園長先生の部屋で話し合っている場面に遭遇した。職員さんに頼まれてお茶葉の缶を園長先生のお部屋に届けに伺った時だった。確かクリスマスの話をしていたと思う。
言葉にしたわけじゃないのに、田口さんはコクコクとうなずいた。
愛光園で高校生は私と朝子姉さんだけ。今日はそこにゲストのゲンジ先輩が加わっている。考え方も行いももう大人の私たちはテーブルの一番隅の椅子を引く。私とお姉さんが隣り合って座り、ゲンジ先輩が向かいに座る。
前方に簡易舞台が設置されている。舞台と言っても床と同じ高さで、ただ紙テープで仕切ってあるだけだ。その真ん中には大きなクリスマスツリーがピカピカと輝いている。
舞台の隅に大きな楽器が立てかけられていた。チェロだ。え? 職員や子供たちの中にチェロを弾ける子がいたっけ? 思い当たらない。それとも町の音楽家がゲストで招かれているのだろうか。
舞台から見ると私たちは一番後方になる。
園長先生のお言葉あった後、田口さんが乾杯の音頭を取った。
「メリー・クリスマスぅー!」
「メリー・クリースマース!」
有名大学卒業のエリートより、少年少女の方が発音が垢ぬけている。
みんな一斉にチキンにかぶりついた。いつもぼーっとしているトシくんも、表情の乏しいダイキくんも、人と目を合わせようとしないマオちゃんも、どこにでもいる標準的な少年少女の顔で、というのはおいしいものを食べることが何よりも優先!という顔で、貪欲に、一生懸命、肉に顔をうずめていた。
サッカーの後、私とお姉さんはシャワーで汗を流してきた。熱めのシャワーを浴びた私たちは、顔はピンク色の火照り、体中ホカホカしている。ゲンジ先輩も職員用のシャワールームを使わせてもらったようだ。湿っぽい髪の毛が蛍光灯の光を受けてキラキラ輝いている。おたがい制服姿か体操服姿しか知らない私たちが私服で向き合っているだけで、胸がワクワクしてくる。
ふだん園内では長いズボンを穿いているお姉さんは今日は珍しくキュロットパンツに黒のストッキング。あれ? お姉さん、こんな衣装を持ってたっけ? 驚いた。あれ? もっとぽっちゃりしていたはずなのに、脚が細くなっている。いつのまにダイエットしたのかしら? もう一度驚く。
私もプリーツのミニスカート。いつかジュンくんとデートするかもしれないと思ってネット販売で購入したものだ。生足に自信があるからストッキングは穿かない。セクシー下着愛好会で提供された試作品をこっそり穿いてきた。スカートの下がスケスケのセクシーショーツだなんて、誰も気づいていない。スカートが短いから気を付けなくちゃ。
そっか。このみちゃんってこういうスリルを楽しんでいたのかも。
「今日は二人ともすっごくかわいいね」
ゲンジ先輩は「二人とも」と言いながら私の方だけを見て言った。
「へえー、スタイルいいんだね。制服の時は全然気づかなかったけど‥‥‥」
彼の視線がニットに浮かんだ二つのふくらみを這い回る。お姉さんのじゃなくて、私のだ。
早くも油でギラギラになっている男のくちびるが不潔なものに感じられた。チキンやポテトを頬張りながら、感じていた彼の視線にもいやらしいものが含まれている。
ちょっとまずいな……。
ゲンジ先輩の今日の訪問目的は私にあるんじゃないだろうか。狙われている、と感じて、ミニスカートから伸びる脚をしっかり閉じた。今日こそ何かおぞましいことが起こるんじゃないかと、不安感に襲われた。
三年生の教室では先輩と朝子姉さんはカップル認定されているそうだ。私も部活のない定期テスト期間中に二人が学校から肩を並べて帰るところを何回か目撃している。バイトでもないのに夜遅く帰って来たこともあった。その日、私が部屋をノックしても開けてくれなかった。女としての私の勘では、その日お姉さんは処女を捨てたんだと思う。その日を境に彼女はすっかり大人びてしまったのだった。私がセクシーショーツをあげると、とても喜んでいた。きっと先輩とデートする時に穿いているのだろう。
ゲンジ先輩が、校舎の三階からわざわざ私の教室に降りて来て、廊下に呼び出されたことがあった。夏休み明けだったと記憶している。特別な用があったわけでもない。ただ差し障りのない話をして、さりげなく週末に何をしているのかとか、バイトのあいている日を訊いてきのだった。朝子姉さんの妹分の私とも仲良くしておきたいんだろうな、ぐらいに思っていた。さり気なく半袖から露出した腕を触ってきた時は、ちょっと!と警告したかったけど。
バイトの終わる時間に外で待たれていたこともある。丁寧に断って、店のバックヤードに戻り、念のため朝子姉さんに迎えに来てもらったのだった。
普段、ゲンジ先輩はいい人なのかもしれない。だって、サッカー部員にも慕われているし、なんてったって朝子姉さんのカレシだし。でも、私にとっては要注意人物なのだ。ストーカーの傾向も持ち合わせているようだ。
朝子姉さんは市内の優良会社への就職先が決まっている。適当に勉強していれば卒業できるし卒業後も一応安泰。心に余裕ができたぶん、心優しく頼りがいがあるゲンジ先輩と関係を深めていきたいと思っているんじゃないだろうか。
ゲンジ先輩も秋には早々と就職を決めていた。大学進学は諦めたらしい。時間の余裕が生まれた分お姉さんとの時間を増やしたらいいと思うのに、増えたのは私へのアプローチの回数だ。
「あっ……」
突然現実に引き戻された。
テーブルの下で私とゲンジ先輩の脚が触れ合ったのだ。細いテーブルを二列に並べただけの幅だから、向かいの人の脚に当たることもあり得る。実際前の方では向かい合う中学生どうしふざけて蹴り合っているのが見える。しかし、今のゲンジ先輩は明らかに故意だ。そしてなんらかのメッセージを含んでいる。ねっとりと粘り気のあるメッセージ。こっそり隣のお姉さんの様子をさぐる。大丈夫。気づかれてない。私は丸椅子を少し後ろにずらせ、できるだけ脚を引く。
チキンに満足した中学生たちが、集会室の前で出し物を演じている。女子がタンバリン片手に「赤鼻のトナカイ」を歌うと、鼻を真っ赤に塗った男子が三人で踊りだすのだった。部屋中が湧きたつ。職員さんがゲラゲラ笑っている。ゆきちゃんとたっくんもしゃしゃり出て踊りだす。朝子姉さんも手拍子を取ながら「おっかしい!」と甲高い声を上げて舞台に見入っている。お酒でも飲んだかのようにみんな陽気だ。
「ふっ!」
突然肩を掴まれびっくりした。振り返るとゲンジ先輩だった。いつ移動してきたのだろう。舞台に夢中で全然気づかなかった。丸椅子に座った私の背中にぴったりと躰を押しつけて先輩は立っている。左右の肩甲骨の間に出っ張った熱いものを感じた
「‥‥‥っ!」
処女の私だってこれが何であるのかは知っている。慌てて背を伸ばし5度くらい前屈させる。この大きなものを退けるためだ。
舞台に気を取られている朝子姉さんはこの事態にまだ気づいていないようだ。
ゲーム大会が始まった。小学校低学年以下の子供たちが舞台上で商品獲得に向けて飛び上がったり、走ったり、転がったり、逆立ちしたりしている。舞台上の子どもたちも朝子姉さんも職員さんたちもそっちに気を取られて、ゲンジ先輩の行動には気づいてない。
肩を掴んでいた彼の手が、下着のラインをたどったり、二の腕をなでたり、脇の下に侵入して来たりする。肩を揉むふりをして指先を胸元にサワサワと這わせている。
「や、やめてください……」
後ろのゲンジ先輩だけに聞こえる声でささやく。
「だって、サキちゃん、オレの気持ちに全然気づいてくれないから……」
耳元でささやかれる。同時に耳たぶを噛まれる。
「ひぃっ!」
中庭サッカーの時は子供たちのお兄さんかお父さんみたいに頼りがいがあってカッコよかった先輩が、みんなの目を盗んでセクハラまがいのことをしている。いずれこんな状況に陥るような予感は前々からあった。でもそれがどうして今日なの。どうしてお姉さんのすぐ背後でなの? 私は激しく当惑する。
「や、やめてください……」
「サキ、俺さあ……」
「わ、わたし、ちょっとトイレに!」
彼の手を払い落とし席を立った。その瞬間、ミニスカートの裾から手が忍び込んできてお尻を触られた。
「きっ……」
とっさに口元を押さえその場を離れる。お姉さんが不思議そうな顔つきで私たちに振り返った。
「ゲンジ、こっちにおいでよ……」
朝子姉さんは私が座っていた椅子を自分の隣にずらしポンポンと手で叩いた。私はみんなに顔を見られないように出入り口を目指す。ちらっと振り返ると、口をポカンと開けていた先輩がしぶしぶ丸椅子に腰を下ろすところだった。お姉さんがへらへらと力なく笑っている。
「お姉さん……」
知らないふりして、お姉さんはすべてをお見通しだった。彼女の顔つきと若干猫背になった姿勢には、また一つのことを諦めた女の気配が漂っていた。その時私は悟ったのだった。ダイエットしたのではなく、痩せたのだ。いや、萎れたと言ってもよかった。ゲンジ先輩が愛光園を訪問した目的もきっと知っていたのだろう。
「お姉さん、ごめんね……」
トイレに飛び込むと洗面台に両手をついて激しく泣いた。鏡に映った自分の姿が疎ましかった。男子に躰を触られて悔しいのではない。何もしなくても、ここにいるだけで朝子姉さんの夢を握りつぶしてしまう私が憎たらしいのだった。多くのことを断念してきたお姉さんにまた諦めさせてしまう悪い女が私。大好きなお姉さんには幸せになってもらいたい。心の底からそう思っている。でも、そばにいるだけで彼女を傷つけてしまう。私なんていないほうがいいんだ。どうしたらいいのだろう。
「親に捨てられた子は悪魔の子」──いつのころからか、私の心に刻印されている言葉。心無い級友にそう言われたのだろうか。レディコミで読んだのだろうか。──わからない。それは、美浜咲という存在の根源にNOを突きつけるカミソリのような言葉だ。今後も周りの人からもNOを突きつけられるだろうか。そして私自身もみんなにNOを突きつけ続けるのだろうか。不幸になるのが宿命?みんなに不幸を与えてしまうのが宿命?
「私を悪魔の子にしないでください……。周りの人に幸せを分け与えられる人にしてください……」
いつのまにか口に出して祈っていた。どこから湧き上がってくるのかわからないまま、一生懸命祈っていた。教会に行ったことなんてないから祈り方も知らない。でも、神さまに必死に訴えかけていた。すると、やはり彼の名前がくちびるからこぼれ落ちるのだった。
「ジュンくん……」
ジュンくんの胸元に飛び込みたかった。彼に慰められたいと思った。私の神さまはジュンくんなんだ、と思った。
「本当に神様がいらっしゃるなら、ジュンくんに会わせてください‥‥‥」
ひとしきり泣いてから涙を拭く。ハンカチをポケットに入れトイレを出た。廊下を右に進んだら集会室だ。クリスマスキャロルが聞こえる。ガラス越しに園児たちの盛り上がっている様子が見える。
集会室に背を向けて歩きだす。目の前の階段を上がって3階の女子フロアーを目指す。自分の部屋で少し心を落ち着かせたかったのだ。一人になればジュンくんと一緒にいられるから。「結婚しよう」と言ってくれた彼は、きっとこの世で唯一、私の存在にOKしてくれる人。気の済むまで彼の姿を想像しよう。彼の笑顔を想像しよう。彼の言葉を想像しよう。そうすることで私は彼といられる。彼に包まれていられる。
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