第42話 フミカの独白 その1
「オレさあ‥‥‥」
一年前のことだった。
テーブルの向こう側の陽介先輩がスプーンでコーヒーをかき混ぜながら、言いよどむ。太い指でつまむティースプーンが滑稽なほど小さく見えたのを思い出す。
ファミレスの広い窓の外では、花の散りきった桜の木に緑の葉が吹き出ている。
「なによ。相談したいことがあるって言うから来たのに‥‥‥」
私は彼のコーヒーカップの中で白いミルクが拡散されていくのを眺めながらブラックコーヒーをすする。芳醇なコーヒーをミルクなんかで生臭くして飲むヤツの気が知れない、と思っていた。
「はっきり言ってくれなきゃ、いくらこのフミカ様でも、相談に乗ってあげられないじゃない?」
学校前にコンビニがあったことは知っていた。でも、生徒たちと学校の外で顔を合わせたくない私は、めったに入ったことがなかった。そこの店長が大学時代の先輩の舟木陽介だということは2週間前に知ったばかりだった。
「恋してるんだ‥‥‥」
陽介先輩のくちびるがピクピク震えている。ホームベース型のいかつい顔をしているのに心はヤワだ。大学時代から変わってない。かわいいのが好きで、彼の店のハート型のスイングポップはみんな彼の作品だ。大恋愛の末、私の親友と結ばれたが、5年前に離婚。その後脱サラし、コンビニを始めたと聞いている。
「いいじゃない。30過ぎたって恋ぐらいするわよ。私はギリギリ29だけどね。で、誰なの?」
私は肘をついてテーブルに乗り出し、上目遣いで彼を見る。キミだ、なんて言われると大いに困ってしまうけど、一応その準備も心の片隅でしておく。
「ああ、わかった。先週一緒に飲んだスナックのママさんでしょ? 向こうは先輩にけっこう気がありそうだったけどね‥‥‥」
んなわけない。歳の差を考えろなんて怒鳴られそうだ。
「こ、こ、高校生‥‥‥なんだ」
「はあ?」
目の前にハート形のスイングポップが揺れた。私をあざ笑うように。
「オマエんとこの高校の‥‥‥」
「う、うちの高校⁈ ママさんじゃなくて⁈」
「バ、バカ‥‥‥、ママさんなんかじゃなくて‥‥‥、湖南高校の、い、い、一年セー‥‥‥」
「い、い、イチネンセーエ⁈ う、う、うちの高校のぉ⁈」
声が裏返り陽介よりも派手にどもってしまった。フミカ様が驚愕のあまりどもるなどということはめったにないのに。カフェのお客さんが一斉にこっちに振り向いた。
「一年生って、せ、先輩‥‥‥」
まだ15か16ではないか! 32のおっちゃんが、それもバツイチのおっちゃんが、家庭を営んだことのある中年オヤジが(『中年』と呼ぶにはちょっと早いか)、自分よりも半分しか生きてない女の子に恋などできるものなのか⁈
「かわいいんだ‥‥‥。気立てもよくてさあ……」
そうか。陽介先輩はカワイイのが好きだったんだ。先輩の顔がピンク色のスイングポップに見える。性的嗜好もロリコン趣味ってとこか。わかる気がする。スイングポップがだんだんピンク色のショーツに見えてきた。
「とにかく一生懸命働くんだ。健気にさあ……。彼女目当てのお客さんがめっきり増えてねえ‥‥‥。オレも店にいると彼女のことばかり見つめている。彼女が店にいるととても心がなごむ。いつまでもいっしょにいたくなるんだ。前の女房の時はこんなしあわせ感ってなかったなあ‥‥‥。その子、親がいなくてね。ほら、愛光園ってあるじゃん。あそこの子なんだ‥‥‥」
陽介先輩は病気なんだ。その証拠に顔が真っ赤じゃないか。熱があるに違いない。くちびるだってわなわな震えてるし。そう。恋というのは病気なのだ。向かいに座った私の躰をすりぬけ、そのうつろな視線はずーっと遠くの、想像の中の女神さま、16歳のアフロディーテを見つめていた。
そんなことがあってから、私は11HRの美浜咲を注視するようになった。32歳のおっちゃんのもじゃもじゃと剛毛の生えてる魂を揺すぶる子って、いったいどんなJKなのかと。
その結果──、
私もコロリと罹患してしまったのだ。
保健室と11HRとは歩いて30歩の距離しかない。どこの教室も廊下側の窓は下3分の1はミストがかかっているが、私ほどの身長があれば上の透明部分から教室がのぞける。
美浜咲は教室の真ん中の席だった。座席配置表など見なくても、あれが噂の美浜咲だってことはすぐわかった。
美人──とは言えないだろう。やはり「かわいい」の部類だ。背筋がピンと伸びているから、座っている時はほかの女子と大して差はないのだが、立つとどうしても背の低さが目につく。でも、彼女の場合、それがプラスに働いているようだ。周りが彼女より背が高いから、彼女の黒目勝ちの目はつねに上目遣いになる。それがなんとも言えずかわいいのだった。艶のある漆黒のボブカット。色白の肌のうえにくっきりとした虹型の眉毛が描かれ、長めの睫毛が目に妖しげな陰翳を落としている。それに何といってもあの真っ赤な、ぽってりしたくちびる。そんなパーツの総合体として、躰の全体からはオーラが四方に発散されている。休み時間に廊下からのぞくだけでもはっきりとみとめられる濃密濃厚オーラだ。
その日以来、毎日11HRの教室をのぞくようになった。休み時間などはドアが開いているから、そこからもっと堂々と見たらいいと思う。しかし、それができないのだ。このフミカ様にもできないことがあるとは。
──悔しい。
いや、そんな野蛮な気持ちではない。
──恥ずかしい。
そう。生まれてから今日まで、ほとんど抱いたことのないような気持に私は支配されていたのだった。彼女に見られることが恥ずかしいのだった。
ある時、廊下で彼女とすれ違いそうになった。職員室から保健室に戻るときだった。彼女は二人の仲の良い女子に取り囲まれてた。三人とも胸に教科書を抱き、楽しそうにおしゃべりをしながら歩いてくる。きっと実験室か実習室に移動するところだったのだろう。
──あと10メートル‥‥‥。あと5メートル。
3人の女子は近づいてくる。彼女の、まだ少年っぽさを残した脚が交互に踏み出されるのがなんともかわいい。真っ白なソックス。スカートがひらひらと揺れている。一年生だから保健室詰めの私のことは知らないのかもしれない。
あと3メートルほどになったとき、私の右手は保健室の引き戸に伸びた。
慌てふためいて牙城に駆け込み後手で扉を閉める。そのまま大きな深呼吸を一回。女子たちのおしゃべりが背後を通り過ぎていくのを聞いている。
どうしてだろう。自分で自分がわからない。私だって教員なんだから堂々と声を掛けたりしたらいいじゃないか。美浜咲との記念すべき初顔合わせになったかもしれないのに。何をそんなに恥ずかしがる?
朝日がふんだんに差し込み温められた保健室が日向の匂いがあふれている。昼の陽光にからだが温められ、意識が朦朧としてくる。否応なく官能が高まる。新しいシーツに覆われたベッドに飛び込む。美浜咲のセーラー服を軽く盛り上げた丸い乳房を想像する。ひらひら揺れるスカートに隠されている真っ白な太腿を思い描く。私はひとりでに息を荒くしてしまうのだった。
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