第3話 こんなにモテるのにどうしてカレは

 朝子姉さんの口利きで学校の近くのコンビニでアルバイトができるようになった。ほかの学生が部活や塾の勉強にいそしむ時間に私はコンビニで働く。朝子姉さんもそこで二年間働いた。勤務態度や顧客対応で評判が良かった彼女の後任だから決して手を抜けない。10分前にはバックヤードから出て商品の陳列状況を確認したりしている。


「お? 今日も早いねえ」


 陳列棚にスイングポップを張っていた店長が振り返り、ひょいと片手を上げる。


「今日もよろしくお願いしまーす」


 元気に頭を下げる。


 ふと新発売のチョコレートの棚に目が行く。スイングポップが揺れている。


 かわいい丸文字は店長自身が書く。バイトの初日にそれを知った時、店長のホームベースみたいに五角形の顔と丸文字を見比べて吹き出してしまったのを思い出した。


「ああー、また丸文字と俺の顔を見比べてるだろ?」


 はっ、と我に返ると、確かに私は躰を捩りながら必死に口元を押さえていた。それでも指と指の間から、ウククク、と声が漏れてしまう。


「あ、いえ、そういう訳じゃなくて……」


 私は口元から手を剥し、かしこまってうなじを垂れる。出口を失った笑いの波動が指先に伝わって来て、手を左右握り合わせてもじもじする。上目遣いで見上げると店長はダラーンと緩んだ表情で私に見入っていた。


「いいんだ、いいんだ。僕の顔で美浜さんが微笑んでくれるなら」


 店長は頭を掻きながら、本当に幸せそうに緩んでいた。今年32歳だという店長も私のことが大好きなんだ。人気のプリンやヨーグルトを隠していて、これもう期限切れだから持って行って、と退勤前によく私に持たせてくれる。


 本社に知られたら大変なことを私のために平気でやってのける図太さがあるのも、五角形の骨相の特徴だ。


「いいえ、ちがうんです」私は顔の前でヒラヒラと手を振る。「店長の顔が角ばってるからって笑ってるんじゃなくて……」


「か、『角ばってる』? そ、そうか……、やっぱり、オレの顔は……」


 しまった。失言だ‥‥‥。突然肩を落とした店長は、躰が縮んだように見えた。どうしよう、どうしよう。この店長、本当に落胆している。縮んだ分私も申し訳なくて肩をすぼめる。


「あ、店長、落ち込まないで……。わ、私、店長いつも一生懸命だから、とても尊敬して……」


 私は店長に逃げられないように彼の袖を二本の指で摘まんでいた。好意を感じる相手に無意識にしてしまう行為。人になれなれしい私。


「ソ、ソンケイ?」


 店長は誉められた子供のように顔をキラッと輝かせる。


「うん……」


 コクリとうなずいて、相手を上目遣いで見つめる。


「……尊敬して……いるし、愛してるんだよな? そうだろ、美浜さん?」

「あ、て、店長、そういう言葉をバイトに言わせるのは……」


 そう、セクハラだ。そのセクハラが店長の場合は嫌じゃない。かわいいとさえ思ってしまう。経営者でありながら、ときどき人間的な臭いが枠から漏れてくるのがとても好感持てる。


 自動ドアが開き、日課を終えた高校生たちが入って来た。


「こんにちは! いらっしゃいませー!」


 店長は背を伸ばし、顧客に軽く腰を折ると、たちまち仕事モードに戻った。


「いらっしゃいませー!」


 私も急いでレジに入る。


今日も忙しい。ひっきりなしにお客さんが入ってくる。チキンやコロッケなどのサイドメニューは、私がレジに立つ時間に集中して売れるのだと、店長がパソコンのデータを見せてくれた時もある。


「偉いねえ、は」


 レジに立っていると、店長がお祖父さんのような柔和な笑顔を浮かべうなずいている。


「応援してるから頑張りなよ」

「はい、ありがとうございます!」

「ありがとうを言うのは、こっちだよ」


 朝子姉さんの前にも今はもう自立した愛光園のお姉さんがここでバイトしていたと聞いている。とすると「キミたち」というのは児童養護施設愛光園のことだ。店長の理解と励ましの言葉が私には素直に嬉しい。愛光園の後輩のためにも頑張ろうと決意させられる瞬間だった。


 でも、正直言うと内心は複雑だ。いや、店長やコンビニに対してではなく、バイトをしなければならない境遇に対して。


 授業が終わると走って桜坂を下って行く。その時、自分だけほかの生徒が決して行きたがらない異界にゆくような気がするのだ。お小遣いが欲しくてすすんでバイトをするのとはわけが違う。否応なく、自立のためにバイトするのだ。進学を考えるのなら100万円必要だと言われている。今のところ進学は考えていないが、自立するのにだってそのくらい必要かもしれない。3年後の生活のための金稼ぎだ。それは普通の高校生にとってにほかならない。


 普通の高校生──。


 そう。私が普通の家の子どもなら、仲良しの友達と同じ部活に入り、ほかのクラスの友達もでき、先輩もでき、楽しい高校生活を謳歌できたかもしれない。授業が終われば好きなスポーツに汗を流す。好きな楽器にさわれる。カップルで登下校する。だがそんな青春は私にはない。児童養護施設は18才になると自立しなければならないから。自立資金を蓄えなければならないから。


「いらっしゃいませ!」


 同じ高校の制服を着た高校生にも分け隔てなく挨拶をする。クラスメイトにもしっかり頭を下げて「いらっしゃいませ」だ。みんなコンビニの、店長の、大切なお客様だから。


「あれ? 美浜さんじゃん。バイト?」


 アイスクリームを二つ、バーコードリーダーでスキャンして顔を上げると、同級生の川田くんだった。けっこう勉強ができて、吹奏楽部でトランペットを吹いている。ひょうきんな面があって、モテるわけではないのに、いつも女の子に囲まれている。女の子は笑わせてくれる男の子が大好きだ。


「うん、今月からね」

「がんばってね。いつも応援してるから」

「ありがとう」


 彼の後ろにもうちの高校の男子生徒が行列を作っている。一人として例外なく私たちのやり取りを興味深そうに、いや、不安そうに、それ以上に、敵意を持って、見つめている。彼らの視線の濃厚さにたじろいでしまうほど。


 彼の斜め後ろに、そのがっしりした体躯に隠れるように恥ずかしそうに立っている女子がいるのに気づいた。


「あ、谷本さん……」


 教室ですぐ後ろの席に座っている女子。川田くんとおなじ吹奏楽部。楽器は覚えてない。教室では地味で大人しくて目立たない彼女が、放課後はルージュをしている。すごく大人っぽく見える。いい香りが漂ってくるのは錯覚?


「ひょっとして、ふたり……」


 私は人差し指で交互に彼と彼女を指す。


「え? うん、そう」


 川田くんが、てへへへ、と頭を掻く。谷本さんも下を向いてもじもじしている。


「へえー、知らなかった」

「知らなくて当然だよ。だって、オレたち今日からだから」

「そう……、今日からなんだ……」


 そして声をひそめて、


「これ、紙袋にお入れしますか」

「うん、入れといて」


 私より低い声で川田君が答えて、黒くて小さな箱を後ろの生徒たちに見えないように紙袋に入れた。

 

 彼から計算を済ませたばかりのアイスクリームを受け取った谷本さんは、じゃあね、と小さく手を振る。八重歯がかわいい。川田くんの手が彼女の腰に回された瞬間、プリーツスカートに丸いお尻の形が浮き上がり、ドキッとしてしまった。


 羨ましかった。あの二人は私のまだ知らない世界にいる。私にとっての「異界」。どんな世界なんだろう。二人でどんなことを話すんだろう。どんなことをするんだろう。キスだけ……? そんなことないか。だって、あの黒い箱……。使ったことないけど知ってるよ、私……。


 それにしても、男の子の心って何て変わりやすいのだろう。彼はゴールデンウィークの直前に私に告白してきたのだった。それからひと月も経ってないのに、もう別の女の子とつきあっている。そしてもう、あの黒い箱……。女の子ならだれでもいいのかしら……。


 あの時のことを思い返してみる。


 屋上に呼び出されて行ってみると、彼はあらかじめ用意してあった椅子に私を座らせ、いきなりトランペットを吹き始めたのだった。エルガーの「愛の挨拶」。中学の時から吹いているという彼はなかなか上手に演奏したと思う。とても透明感があって、真っ青な青空にスーッと溶け込んでいくような音質だった。ほれぼれするような演奏だった。その後「告白タイム」となったとき、二人は何人もの野次馬に囲まれていた。こんなに多くの生徒の前でお断りするのは忍びなかったけど、やっぱり好きでない人の思いには応えることができない。


「ごめんなさい」と言ったら、「いいんだ、最初からわかってたような気もする」と返ってきた。晴れ晴れとした表情で。きっと愛情を出し惜しみできる性格ではなかったのだろう。告白して思いを出し切ったら、気持ちを切り替えて次の女子にアタックする。そう言う後腐れのない男子も魅力的だな、と私は今思い始めている。


 川田くん、谷本さん、お幸せに。


 谷本さん、明日会ったらもう少女の谷本さんじゃないんだね。 


「あ、あのう、これ……」と、男の人の声。

「はい?」と、私はぼーっとして見上げる。うちの男子生徒だ。見覚えはあるが名前は知らない。

「計算を……」

「あ、す、すみません!」


 慌ててバーコードリーダーを持ち直す。


 そう言えば、「ザル王子」──どうしているだろう。もう一度会いたい思いと、不感症呼ばわりされた屈辱とがごちゃごちゃになって、彼に対する本当の思いがわからないでいる私。もしあの時、川田くんの代わりに「ザル王子」だったら、告白を受け入れただろうか。もし私がフッたとしら、すぐほかの女の子に乗り換えるだろうか。


 あれ? どうして私こんなこと考えているんだろう。何かにつけて「ザル王子」ならどうするんだろう、と考える癖がついてしまった。


「いかんいかん」


 と、声に出して言い聞かせる。


「は? これ、いけない、の?」


 別の男子学生がレジ前でポカンと口を開けて私を見ている。


「ああ、いえ、そうじゃなくて……。ありがとうございます。250円になります」


 くすっと笑われてしまった。そのあと、緩んだ顔でじーっと見つめられてしまった。


 教室を移動するたびにあちこちの教室をさり気なく覗いてみるのだが、「ザル王子」は見つからなかった。いや、春風のような人だったから、廊下ですれ違っても気づかなかっただけかもしれない。


「そんなに気になるんだったら、あのザルを頭にかぶって昇降口に立ってたら? 放課後よりは朝の登校時間がいいかも」


 日曜日の朝、座卓の上に中学生の参考書を開いている朝子姉さんが言った。中高生用の一人一室の寮で一番整理されている部屋。窓から燦燦と初夏の日光が降り注ぐ。鴨居から鴨居へ渡した竿にかけた洗濯物から衣類リンスのいい香りが漂う。(朝子姉さんはなぜか屋上には洗濯物を干さない。)私は日曜の朝食後のお姉さんの部屋が大好きだ。


「そんな変な子がいたら間違いなく全校のうわさになるでしょ。あのザル王子だってあとで必ず返してくれって言ってたんだから、噂を聞いてきっと現れるわよ。やってごらんよ」


 学校の昇降口でザルをかぶった自分の姿を想像する。とたんに、すすっていたレモンティーを吹き出してしまった。鼻から酸っぱい液体が垂れて、広げていたティーン向けの雑誌に落ちる。お姉さんが、「雑誌ぬらさないでよね、ほら」と、ティッシュの箱を差し出す。


「そんなことしたら、みんな私から引いていくって。アイツ危なそうだからって、近づいてこないわよ」


「そうか。百均で買えるんだから、そんなリスク犯したりしないか。彼だってヘンな女子、特にの女子にはに付きまとわれたくないだろうしね。平和主義者だとか言ってたじゃん。女子には興味がないとも」


「私……、ヘンな女じゃないし……」


 口を尖らせると、すかさず長い手が伸びてきてくちびるをつかまれた。


「このかわいいアヒルのくちびる、なんとかせーよー」

「んー、んー……」


 顔を左右に揺さぶるけど朝子姉さんは放してくれない。愛光園のみんなは、職員さんも含めて私のアヒル型くちびるが大好きだ。つかんで来るのはお姉さんと、もう一人、ゆきちゃんだけだけど。


 お姉さんは私の悩み相談を受けながらも、プリントにすらすらと計算式を埋めてゆく。家庭教師の予習をしているのだろう。相手は中学三年生の女の子だと言っていた。高校生なのに家庭教師だなんてすごい。週3で2時間ずつ。時給を訊いたら私の倍もある。やはり持つべきものは頭脳だ。お姉さんの横で雑誌を広げ、「今月の運勢」の一文一文に一喜一憂している自分が恥ずかしくなる。


「湖南高校ってさあ、運動部はほとんど朝練があるの知ってる?」


 お姉さんは落ちかかったメガネのフレームの上から私をのぞき込んでくる。


「知らない……」

「そうよね。いつもホームルーム直前に教室に入って、授業の終了と同時にコンビニにすっ飛んで行く子だんだもんね」

「入学して二か月過ぎたのに、私、高校のこと何も知らないかも……」


 お姉さんは計算式を書き込んだプリントをファイルに挟み込むと、いい?と言って人差し指を立てた。あ、この仕草、ザル王子と同じ……。


「朝練が厳しいのは野球部、バレー部、バスケット部、それにサッカー部かな……」


 目の玉を天井に向けたお姉さんは指を4本折り曲げてから、うんうんとうなずいて続けた。


「毎年最低でも県大会には進出するから。野球部は学期中も夏休み中もほとんど合宿だと思ったらいい。恋愛はご法度。というか、恋愛にうつつを抜かしている時間なんてない。もしザル王子が野球部なら諦めなさい! バレー、バスケ、サッカーは毎朝7時半から朝練。ホームルームに遅れても無罪放免。担任と部活の顧問とで話は通してあるから、決して遅刻扱いにはされない。放課後も6限終了の10分後から練習開始。そんな部活に入っていたら同じクラスでない限りめったに顔を合わす機会なんてない」


 お姉さんは切り捨てるように言ったあと、じっと私を見つめた。私がちゃんと理解しているかどうか確かめるためなのだろう。


「うう……」


 うなってしまった。


 お姉さんの視線が冷え冷えしていたのと語調が鋭かったのが原因かもしれない。が、それ以上に大きかったのは、もう彼には会えないかもしれないという思いだった。胸はときめいたりはしないけど、不感症呼ばわりされた屈辱もまだ残っているけど、会えないと思うとやっぱり寂しい。と、同時に、何でこんなにザル王子に会いたがっているのだろうと、不思議がっているもう一人の自分もいる。


「そういう『世界』に私たちは住んでいるのよ。親に愛されて裕福に暮らしている人たちは自分のやりたいことに精を出す。そんな人たちが頂点にいて、私たちのように親のない子や親と住めない子はずっとずっと裾野。やりたいことなんてできやしない。将来のために汗水流してアルバイト。荒波に削られ浸食されていくのも裾野にいる私たちからよ。太陽のように暖かい親の愛を受け、広くて真っ青な大空を自由に飛び回れる人たちは、私たちの存在なんて知らない。それが『世界の構造』なの。私たちがどれだけ努力しても足掻いても変えることのできないものなの。だから……」


 諦めなさい、とは言わなかったが、私をまっすぐ見つめるお姉さんの目はそう語っていた。


 知っている、私は。お姉さんがこれまでどれほど多くのことを諦めてきたかを。


 中学校のときから成績優秀だったから、県立湖北高校も入れたはずだ。卒業生の大半が有名大学に進学する秀才高校だ。しかしながら湖南高校を選んだ。進学と就職が半々の高校を。お姉さんはすでに中学卒業前に、大きな断念をしたことになる。


 自分は親もいないし、援助してくれる人もいない。なら、まず就職をしよう。就職希望者の多い高校へ行こう。もし真剣に学びたいことができたら、その時大学へ行くなり専門学校へ行くなりしたらいい。まだ中学生だった彼女はそう決断したのだった。


「いやです!」


 私はアヒルの口をさらにアヒルにして、アヒル度200%ぐらいにして首を横に振る。昨日ボランティアの美容師さんに切ってもらったボブヘアがぼさぼさになる。


「諦めたくないの! 私はお姉さんのように聞き分け良くないから、やりたいこととか会いたい人に固執しちゃうの。『初恋』なんかじゃないと思うよ。胸キュンもない。『王子様』でもないかもしれない。でも、もう一度会いたいの! お友達になりたいだけなのに、『世界の構造』がそうなっているからって諦めるのはイヤ!」


 王子様への恋心なんかじゃない。これは「世界」への反抗だった。未熟な私がそんな啖呵を切れるのは今のうちだろう。わかっているよ! 現実はお姉さんの方が数倍よく知っている。


 わかってるんだって、そんなこと!


 彼女はもう三年生だから来年には施設から自立しなければならない。職場はきっと学校が優先的にいいところを紹介してくれるだろう。寮付きの職場。だが、彼女の内心はどれだけ切実だろうか。希望と諦めのせめぎ合い。それが彼女の「世界」なんだ。みなしごの「世界」。足枷あしかせをはめられ、やりたいこともできずにいるのだ。

 

 でも私は思う。それに屈することが果たして「賢明」なのだろうか、と。


 私には──できないよ。


 やりたいことをやりたい。初恋じゃなくても会いたい人に会いたい。そのうち恋が芽生えたら、好きだという気持ちは伝えたい。「不感症」なら、好きな人のために一生懸命なおしたい。したいことはしたい。好きなものは好き。だってしょうがないでしょ? そういう性格に生まれちゃったんだもん。性格からは逃れられない。


 性格は運命! 運命には従うしかない。性格を抑圧しようものなら人の破滅なのだ!


 顔じゅうが熱くなってきた。


「ほらほら……。またサキの孤独な闘争が始まった‥‥‥」


 お姉さんが人差し指で涙をすくいあげてくれた。



 



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