セーラー服の下は桜ふぶき

千戸大路

第1話 桜坂の王子様

「ほらほら、つかまえて! あー、すり抜けちゃった!」

「サキちゃん、こっちの木の方がいいよ。ほら、たくさん散ってくる」


 朝子姉さんとふたりで桜の花びらを追っていた。アスファルトも土もきのうの雨を吸っているから、花びらは地面に落ちるとぬれてしまう。なんとしても空中でとらえたい。


「そうだ。花びらでしおりを作ろう!」


 と、指をパチンとならす朝子姉さん。


「愛光園の図書コーナーの本全部に一枚ずつはさんでおくのってどう?」


 と、お姉さんに顔をくっつけんばかりの私。


「うん、いいね! そうしよう!」


 入学式まで待てない私は、真新しい紺色のセーラー服に身を包んで県立湖南けんりつこなん高校の正門に続く坂道にいた。これといった目的があったわけではない。ただ、高校の制服を着て、高校の正門をくぐって、校舎と校庭をぐるっと一周できればそれでよかったのだ。


 両側に何十本ものソメイヨシノが植わっているから「桜坂」と呼ばれている。正式な名前じゃない。同じ名前の坂が近年あちこちにできてるみたいだ。


 まちでは桜の名所として評判のスポットだ。ふだんは生徒たちと教職員の車以外は入って来ない細い私道だが、この季節には近所の親子連れや、夫婦、カップルなどが咲き誇る桜を見上げながらぶらぶらと上り下りするのだった。


 私たちは子どものようにピンクの花びらを追う。


「一本の桜の木からいったい何枚の花びらが落ちるんだろうね」


 朝子姉さんがとらえた花びらをポケットにさらりと落としながら言った。振り返ると髪の毛にもピンク色の花びらが乗っている。


「それ掛ける木の本数……。気の遠くなるような数の花びらが落ちるんだよ。そのうち私たちが空中キャッチできるのはほんの数枚だけ」


 偉大な真理を悟ったような感動にひたって言葉をはなつ私。いつもよりトーンが高い。空が真っ青だ。


「残念だけど、それが世界の構造だよ」


 大人ぶった口調のお姉さんが背の低い私を見下ろす。


「へえー、お姉さん『世界』なんて言葉、使うんだ?」


 ちっちゃなちっちゃな花びらを集めている私たちにはあまりにもふさわしくない言葉だと思った。


「高校生だもん。もう三年生……」


「私も、そのうち『世界の構造は……』なんて言うようになるのかなあ?」


「サキちゃんは言わないよ、ゼーッタイ!」


「あら、どうして?」


「そんな言葉、似合わないから。アンタには『初恋』とか『王子様』とかいう方がお似合い」


「もう、お姉さんたら、いつも私を子ども扱い!」


 ベーッと舌を出してやった。舞い散る花びらが口に入って来そうで慌てて引っ込める。


 おしゃべりしながらもけっこうたくさんの花びらを集めた。初めて着た制服のポケットを桜の花びらで満たす。なんか、これからの高校生活を象徴しているようにも思え、胸がワクワクしてきた。そんな時だった。


「キャッ!」


 上ばかり見つめて花びらを追っていたら、何か黒くて大きなものにぶつかった。鼻がつぶれ鼻血が出るかと思った。同時に何か出っ張ったものが左胸を直撃しすごく痛い。思春期の女の子にしかわからないこの激痛。


「イッターい」


 私は胸を押さえてしゃがみこんでしまい、手のひらにのせていた花びらが濡れたアスファルトにハラハラと散る。


「あ、ごめん!」


 桜の花びらのように降ってくる声。胸を押さえて見上げると、黒い詰襟を着た男子生徒が目をぱちくりさせながら見下ろしている。切れ長の目。困ったように頭を掻いている。黒の布地に一枚だけ張り付いたピンクの花びらに目が行く。


「いや、これ……、必要かなと思ってさあ……」


 うずくまった私におずおず彼が差し出したのは、


「ザル?」


 そう、ざるだった。流し台で野菜や果物の水きりをするやつ。百円ショップで売ってるようなプラスチックのもの。赤と青の二つ。


 受け取ろうと思って手を出したら、カポッ、と頭にかぶせられた。赤と青、二つ重ねたザルを。ははは、私の頭にピッタリ。


「あっ、キミ、気が利くねえ!」


 朝子姉さんが満面に笑顔をたたえ駆け寄ってくる。ポケットからあふれた花びらがひらひらと舞い落ちる。春のそよ風になびく柔らかな髪。私も三年生になるころにはあのくらい髪が長くなるだろうか。私にかぶせられたザルの青い方を手に取ると、自分の頭にかぶせた。ピッタリだ。情けないけど、ふたりともザルがよく似合う。


「五分刈り。……ということはキミ……、一年生?」


 中学生は市内一律五分刈りという肩ぐるしい田舎町に住んでいる私たちだった。


「はい。……あ、いや……。入学式前だからまだ一年生にもなってない。中三? ですね、正確には。アハハ……」


「そうか、まだ中坊か。じゃ、この子と同じだね」


 指を差されてドキッとする私はなぜか立ち上がらなければならないような気がした。乳房の痛みを押しやって意地で背筋を伸ばす。彼の視線がほんの一瞬だけ私に注がれた。目が合ったと思ったらすぐにスッと逸らされ……。


 え? 一瞬で嫌われた?


「同じクラスになったら、この子の面倒よく見てやってね。おっちょこちょいな子だから」


 お姉さんは私がかぶった赤いざるをポンポンと叩いた。


「はい、じゃあ、同じクラスになったらという条件つきで……」


 長身の中坊クンは私をちらっと見おろした。その面倒臭そうな仕草。やっぱり嫌われている……。まだ一言も話してないのに? でも、あなたの腕、さっき確かに私のオッパイに当たったよね? 女子高生のオッパイに触れておいて、嫌うなんてひどいじゃん! JKブランドのオッパイだよ!


 私は頭からザルを脱ぎ、じっと彼の瞳をのぞく。むっとほっぺたを膨らませて目に力を入れる。どんなに無理して背伸びしても、彼の喉仏のどぼとけにまでしか届かないけど、それでもこぶしを強くにぎり、ありったけの眼力を込めて下から見上げる。


 しかし……。


 切れ長の目からのぞく瞳は暖かそう。そして……、こんな片田舎の町のどこから現れたのだろうと不思議になるほど高貴な雰囲気を身にまとっていた。


 敵意は一瞬にして和らいだ。


 ぶっきらぼうだけどきっと優しい人なんじゃないかな。眉毛が凛々りりしいし、鼻筋がすっきりと通っている。あの五分刈りが伸びたら、きっと素敵な男子だ。イヤだ、どうしよう、私……。顔がほてってくる……。


 やっぱり朝子姉さんの言うとおりなんだ。早くも「王子様」「初恋」といった言葉が胸の中で桜の花びらのように渦を巻いているのだから。


「同じクラスじゃなくてもさあ、彼女の面倒、見てほしいんだけど……。ほら、こんなにかわいい子だし……。」


 朝子姉さんが私の肩に手を回し、彼の前に押し出す。


「あ、ちょ、ちょっと、お姉さん……」


「ほら、見てよ。中坊くん!」


「中坊くんって……。僕、一応もう高校生になるんだし……」


「この子ってね、ほら、眉毛だってこんなにくっきり長いし、くちびる、こんなに赤いんだよ。信じられるぅ? リップ塗ってるんじゃないよ。のくちびるよ、地のくちびる! ほっぺたなんてこんなに血色がいいし、それに、見てよ。このツヤツヤの髪の毛……。お化粧なんてしなくてもこんなにキレイなの」


 朝子姉さんが、背を屈めて頬をツンツンと指でつついてくる。


「いやあ、お断りします。だってこの子、男子にモテそうだから」


「はい?」


 意外な言葉が返って来て、お姉さんは豆鉄砲を喰らったような顔をする。私も乳房の痛みが飛んで行った。


 そう。よく知ってるわね。私ってモテるのよ。幼稚園の時からね。だって、底抜けに明るいし、茶目っ気もあるし、頭もいいし。それになんてったってかわいいのよ。笑顔も澄まし顔もプク顔もムー顔も……。なーんちゃって。ヘヘへ……。


 で、でも。──なんでモテそうだとお断りなのかしら。この男子、きっとかわいい女の子にトラウマかコンプレクスみたいなものを持っているにちがいない。けっこう端正な顔しているのに、かわいそう……。


「僕、一人の女子をめぐっての争奪戦ってうんざりなんですよ。中学で経験してるし。クラスが違ったら、この子のことはクラスの男子に任せてください。僕は女子になんて興味ないし、なにしろ平和主義者ですから。あ、それに……」


 これは重要なことだとでも言うように王子は人差し指をピンと立てた。次の瞬間その指先が「キミ……」と私の鼻先に向けられる。そしてツンと澄ました高貴な雰囲気が大雪崩おおなだれのようにゴーっと轟音ごうおんとともに崩れ去ったかと思うと、瞬時に、ニターっとオジサンチックないやらしい表情に激変する。


「……不感症っぽいよ」

「ふ、不感症⁈」


 お姉さんは頓狂とんきょうな声を出し私を見た。「不感症」というレッテルを私のどこに張り付けようかとからだ中をなめるように見回す。


 私の方は戸惑っている。「不感症」って……えーと、えーと……。なんだっけ? 目の前をヒラヒラと舞う桜の花びらが無知な私を嘲笑あざわらっている。


「そう、おっぱい触られても感じないやつ……」


 詰襟クンは腕組みして不遜に私を見下ろす。その視線の先にあるのは私の胸のふくらみ。私はまだジンジンとうずくそれを両腕で隠す。


「はあ? お、お、おっぱ‥‥‥」


 だが、高い位置から見下ろされると、丸くて柔らかいものの全体が見透かされているような気がする。イヤだ、このオジサマ、なんてエッチなの?


 私は前に交差した両手で自分の胸をつかむ。そうつかんだのだった。だって、ぎゅっと握っていなければ、この王子モドキに赤外線カメラで透視されているような気がしたから。


「そういう女子ってすぐ飽きられるんだよね……」

「はあ? ちょ、ちょっと‥‥‥」

「‥‥‥ということで、僕はこれで失礼しまーす」


 きびすを返して坂を下って行こうとする詰襟クンの腕に私はひしとしがみつく。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 しがみつくのは、躰が小さい私が人を呼び止める時のクセなのだ。


「は?」


 振り向いた瞬間に彼の腕がまた胸の丘にれる。


「あなたねえ、初対面の女の子に不感症だなんて、ひどすぎない? 根拠もないのに?」


 ボブカットの髪の毛が揺れるように首を傾け、思い切り語尾を上げる。背の高い男子にはこの角度で首を傾げるのが一番かわいく見えることを私は知っている。言っておくが、侮辱されて怒っているわけではない。むしろこの機を利用して私の印象を彼にしっかりと刻み込んでやろうと思ったのだ。今思えば、この時から、生意気なこの男子に気があったのかもしれない。


「根拠は──それだよ」


 彼の指先が、彼の二の腕に押し付けられた私の胸を指した。ピッタリと男の子の躰の一部に押し付けられた行儀悪い私のおっぱいを……。 


「あら……、イヤだ……」


 慌てて彼の腕を解放し、一歩後ろへ退く。両腕で胸を隠し、なぜか脚までよじってしまう。恥ずかしくて目が上げられない。


「オマエさあ、高1にしては胸が大きいのに、全然感じてないんだろ? そういうのを不感症っているんだろ?」

「ひど……」


 言葉が出ない。ただ低い位置からひたい越しににらみつけるが精いっぱい。頬がカッカと火照ほてってくる。


 アンタだってまだ五分刈りのくせに、女の子の胸の何を知って生意気な口を叩いているのかしら……。


「まあ、いいさ」


 その瞬間、私は彼にあごをつままれた。そう、顎を……親指と人差し指でつままれたのだ。彼の顔が降りてくる。え? こ、これって……、これって……。


 真っ青な大空を背景にした彼のルックスは本当に素敵だった。まさしく「王子様」の名にふさわしい。私は、その次に来るものに期待し、心臓がバクバク鳴っていた。まぶたはもう半分閉じかけていた。くちびるもちょっとだけ突き出ていたかも。だが……、


「オレが、開発してやる。オマエの……、セ・イ・カ・ン・タ・イ」


 王子はポイッとゴミでも捨てるように私の顎を放す。私の後頭部からコツッとネジがはずれるような音がした。ファーストキスへの期待が冷めやらぬ私をその場に残し、悠々と坂道を降りて行く王子。

 

「な、なによ、中坊のくせして、女の子の何を知っていると思って……」


 怒りにかられたお姉さんは私をキッと睨みつけた。


「アンタ、不感症呼ばわりってオンナとして最大の屈辱なんだよ。もっと怒りなよ!」


 不感症と決めつけられたのは私のほうなのに、怒りはお姉さんのほうが数十倍激しい。


 はらはらと、花びらがお姉さんを避けて散り落ちる。


 ここで、読者の皆さんに告白しておきます。あらかじめ私がどういう女の子なのか知っておいた方が物語の進行がつかみやすいと思うから。


 高校生になろうというのに、私は恋愛とか性に無関心で無知だったのです。男の子にモテることだけを鼻にかけて、その実、彼らが何を私に最終的に求めているのかなんて考えたことすらないのです。女の子どうしの、男子にはちょっと聞かせられない際どい話には、私は全然ついて行けてない。進んだ女子たちがヒソヒソ声で気持ちいいと言っている行為を、やったことも、やろうと思ったこともないし。そうか……、不感症だからか。恋に対する不感症。性に対する不感症……。


 それにしても……。


詰め襟の王子には花吹雪がよく似合っていると思った。首を右ななめ7度ぐらいに傾け、ポケットに両手を突っ込んで悠々と桜坂を下っていく後ろ姿にぼうっとしてしまう。そこにはもうオジサンチックな印象は跡形も残っていなかった。


 私たちの視線を感じたのか、彼は振り返って、


「ああ、そうそう、そのザルは学校で会った時返してくださいね」


 と片手を上げた。「必ず」と言い添えて。


 私も朝子姉さんも坂を下っていく彼の後姿をぼんやりと見送った。ピンク色の吹雪の溶け込むように、彼は次第に輪郭を薄めていった。


「あ……、ちょっと‥‥‥」


 何か言いたいことがあったような気がして手を差し出した。もう視界から消え去った彼に向かって。輪郭がつかめないけど何かキラリとした一言を。フワフワとした一言を。そして小さくてコロコロと桜坂を転がっていくような一言を。しかしそれは言葉の輪郭をまとうにはあまりにもつかみどころがなかった。


「生意気な下級生……」

「でも、私のこと、モテそうだって……」

「バッカね、アンタって!」


 お姉さんは口汚くののしった。


「不感症って言われたんだよ、アンタ。オンナを侮辱されたんだよ。悔しくないの?」


 不感症──私は否定しない。侮辱されたのかもしれないけど、なぜか侮辱とは受け止められなかった。それが今の私の現住所だと知った。不感症が自分の現住所だなんておかしいけど。


 現在位置の確認──それは高校生活をナビゲートする第一段階だ。


 それはだ。そして、ストーリーのなのだ。不感症の女の子の目指すところは……。そんなの決まってるじゃん! 今は恥ずかしくて言えないけど。





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