第5話 源次郎に抱かれる

 やばい。


 腰を痛めた。


 いつものようにユニフォームに着替えバックヤードから店舗に出ると、アルバイトのおばさんがしゃがんで商品を棚に陳列していた。パン用の小さなコンテナーが空になって脇に置いてあった。本当に小さくて軽いものなのに。女の子でも片手で易々持てるくらいなのに。それを腰を折って床から持ち上げたとたんに、


「あたっ!」


 痛みが腰から脳天に突き抜け、たたらを踏んだ。とっさに近くの陳列台につかまった。


「だ、大丈夫、キミ?」


 私の異変にいち早く気付き駆けつけてきたのが、うちの高校の制服を着た男子生徒だった。持っていたカゴが手から滑り落ち、缶コーラが五、六本床に散らばった。


「大丈夫ですから……」


 腰から首筋を伝わって頭皮にまでピリピリくる痛みにもかかわらず精いっぱいの笑顔をつくる。本当は大丈夫なんかじゃなかったから、彼が支えてくれたことはタイムリーだったのだけど。がっしりした男子の身体に支えられる。


「キミ、美浜さんでしょ? 一年生の」

「あ、はい……」


 知らない男子が私の名前を知っているのは、特に高校入学以降よくあることだ。


「オレにつかまって」

「あ、でも……」


 ためらっていると、腰に手が回された。がっしりと支えられる。ふだんなら男の人に腰を触らせるなんてことは絶対しないのだが非常事態だからしょうがない。もう一方の手で痛みに震える私の手を握ってくれる。ざらっとした感触。汗の匂い。


「美浜さん働きすぎだよ。学校終わってからずっと立ちっぱなしだろ」


 彼はオーバーに語尾を上げた。そのあとすっと声を落とし、


「ダメだよ。女の子は腰が大切なんだから」

「え? こ、腰……?」

「そう、腰。ここ」


 広い手のひらで腰骨のちょっと下をつかまれる。びっくりして声を上げそうになったが、そんなことしたら失礼だ。せっかく助けてくれたのに。


「腰が悪いと、不感症に……」

「ふ、不感症……?」


 目の前を桜の花びらが一枚舞い落ちる。それが「フカンショー、フカンショウー」と、あの王子様の声で呟いているのだった。


 その腰を支えられてゆっくり歩き出す。くびれのちょっと下あたりを広い手にがっしりつかまれると頼もしくもある。ヒップの裾ので恥ずかしいけど、やわな腰骨ががっしりした腰骨に補強されているのが心強い。ああ、男子のからだっていいな、とほんの一瞬思ってしまって、頬が熱くなる。


 おかげで何とかバックヤードまで辿り着く。


「オレ、三年の本村。サッカー部の。今日、見に来てたでしょ。練習。朝の」


 彼は唾を飲み込んだり、頬をひきつらせたり、目をぱちくりさせながら、大変な労力で一つの文を完成させた。話すことがあまり得意でないのかも。いかつい顔には無口の人特有のオーラがあった。うちのクラスの本村くんともなんとなく似ていて、噴き出しそうになるのを我慢する。先祖が同じなんだなあ、と思った。


「あ、はい……」


 パイプ椅子に座ろうと方向転換すると、痛みがぶり返し冷や汗が流れる。本村さんの背中を抱くようにしてパイプ椅子に恐る恐るゆっくりと腰を落としてゆく。椅子の天板がすぐ下に見えるのに、そこまでの距離がどうしても縮められない。あと少し‥‥‥、イタッ! もう少し……、ウッ!


 そのとき、ふたりの頬と頬が触れ合ってしまった。ザラッとした感触は髭が生えかかっているせいだろう。


 直感的に「まずい!」と思った。とっさに不自然に顔をそむけた。それは助けてくれた人を拒否する仕草だとなじられても仕方ないだろう。だからと言ってくちびるがそこに触れるわけにはいかないのだ。


 大切な、大切な私のくちびる。


 そう‥‥‥。くちびる‥‥‥。あ、そうか‥‥‥、あの時も‥‥‥。


 小学六年生の時の出来事がフラッシュバックした。幼い当時はとても印象に残った出来事なのに、ずーっと、何年も思い出すことなかった出来事。


 愛光園から歩いて30分ほどのところにある牧ノ頭まきのこべ神社。地元では大きくて有名な神社だったけど、学区外にあるから行ったことはなかった。その日、私は同級生の佳穂ちゃんに誘われて、そこの夏祭りに行ったのだった。(佳穂ちゃんは中学に上がってすぐ大阪に引っ越して行った。それ以来、音信はない。)りんご飴を頬張った後、二人で金魚すくいをした。でもなかなかすくえない。すると、私たちのことをさっきからニコニコと楽しそうに眺めていた背の高い男の子が隣にしゃがみ、ポイを貸せと言われた。「どれがいい?」と訊かれたから水槽で一番真っ赤で、一番大きくて、一番健康そうな金魚を指差した。(当時から私はすごく欲張りだったのだ。)男の子はお安い御用ですと言わんばかりに「ふん」と鼻息を吐くと、その金魚ともう一匹小さな金魚をすくい上げ、私にくれたのだった。6年生だと言った。同じ学年だ。名前は教えてくれなかった。佳穂ちゃんとその男の子と3人でしばらく遊んだ。何をして遊んだのかは覚えていない。ただ、私は男の子がとても気に入った。とても頼れる感じだったし、私たちが人とぶつかったり転んだりしないように気遣ってくれた。こんなに優しい男の子は私たちのクラスにはいない。男の子の方も私たちと(いや、正確にいうならば、私と)仲良くしたがっていると感じた。帰りたくなかった。だって小学校が違うから今日さようならしたらもう会えないかもしれない。私には携帯電話がなかった。でも、日が傾いてくるし、門限もあるから帰らなきゃいけない。私と佳穂ちゃんは、夏祭りの喧騒に背を向け、男の子の後について神社の階段を下りていた。あと三段くらいになったとき、私が段を踏みはずした。男の子がタイミングよく振り返り、私を胸に抱きとめてくれた。でも、体重を支えきれず、男の子は私を抱いたまま地べたに尻もちをついた。親指の付け根に血をにじませていた。その時だった。男の子は私の頬にキスをした。佳穂ちゃんが見ているにもかかわらずだ。もののはずみで触れ合ってしまったんじゃない。本当にキスされたのだ。当時はやっていたドラマのワンシーンに酷似していた。


 それだけのことだ。もしかしたら男の子はキスなんて考えていなかったのかもしれない。顎にりんご飴の名残がこびり付いていて、それを吸い上げただけなのかもしれない。私が勝手に当時はやっていたドラマと結び付け、妄想に陥っていたのかもしれない。でも、その瞬間のドギマギは心にしっかり刻印されていた。そこには気に入った男の子を巻き込んで尻もちをつかせてしまった良心の呵責も混じっていたと思う。


 それが唯一の「くちびる」の思い出。


「ふー」


 パイプ椅子に落ち着いたとたんに腰の痛みが和らぎ、安堵のため息が漏れた。それは本村さんのため息と同時だったから、二人でちょっとだけ笑った。高校生なのに本村さんの目尻には笑いジワができている。


「ああ、やっちゃったかあ」と、びっくり顔の店長。「よくあるんだよね。ほら、うちほとんど、と言うか、全部立ち仕事だから、腰をやられるスタッフがけっこういてさあ……。ああ、キミ、ありがとう。同じ高校みたいだね。でも、ここスタッフ以外は入れないんだ。だから、悪いけど……」


 本村さんは、店長に、じゃ失礼します、と礼儀正しく頭を下げ出て行こうとした。そして、あ、そうだ、と立ち止まると、素早くメモに何か書いて渡してくれた。


「痛くて動けないようなら、俺、呼んで。送ってあげるから。自転車でよかったら。家まで……」


 切り貼りだらけの一文が完成し、目を落とすとそこには名前と電話番号が書かれていた。


「実はキミがバイトしているの、前からずっと見ていて、それで……」

「え‥‥‥」


 話題の転換について行けなくて、口がポカンと開いてしまった。


「で、今日、オレたちの練習見に来てくれたのが嬉しくてさあ……」


 そこまで言うと、彼は「てへっ」と手を後頭部にやって、「じゃ」と踵を返した。


「へえー、やっぱりモテるんだね、美浜さん。」


 腕を組んで私を見下ろしている店長が、意味ありげにニヤニヤしている。


「オレが高校生なら、もっと過激に出るよ」

「過激に? な、なんか、店長の目つき、ちょっとイヤらしいですヨ」


 私は両腕を胸の前に交差させる。両脚もキュッと閉じる。それでも店長の視線は執拗だ。


「オレならキミをお姫様抱っこしてマンションまでお持ち帰りしちゃうけどねえ」

「て、店長ったら! やめてくださいよ!」

「はははは、冗談、冗談!」


 店長は天井に顔を上げ、大げさに笑った。顎骨と頬骨がいつもより出っ張って見えた。


「美浜さんがここでバイトしている時間、オレは絶対的にキミを守るから!」

「て、店長‥‥‥」


 私の倍以上生きているオジサンでも、好意を示してくれたら嬉しい。ちょっとだけ顔が火照った。店長も、角ばった顔を真っ赤にして頭を掻いていた。


 今日は代わってやるから早退しろと言ってくれたが、断った。だって、時給、ほしいから。なんとか八時までの労働を持ちこたえ、朝子姉さんに自転車で迎えに来てもらった。ちなみにこの自転車は、お姉さんが卒業したら私がもらい受けることになっている。


「へえー、源次郎がねえ……」


 遅い夕食の後、朝子姉さんが私の隣に座り、へたくそな数字と漢字が踊っている紙切れをジーッと見つめていた。


「ゲンジロウって本名なんですか、本村さん?」

「そう。『本村』ってうちのクラスに3人いるのね。だから下の名前で呼ぶわけよ。ゲンジローって。でも名前が長いからみんなめんどくさくなって『ゲンジ』って。眉毛が濃い女子からは『ゲジゲジ』ってからかわれてるし……」


 本村さんの話になってから急に朝子姉さんが饒舌になった。頬も血色がいい。ふだん寡黙な彼女には珍しいことだ。


「で、うちのクラスって男子の名前がちょっといかつくてさあ。源次郎とか、竜童りゅうどうとか、善八ぜんぱちとか。なんか、笑っちゃわない?」


 お姉さんは語尾を急激に上げてクククッと笑った。でも、いつも一緒にいる私にはわかる。今のお姉さんの明るさ、かなり無理してる。


 ショックを隠している。


「でも、個人的にはそういう名前好きですよ」

「えー、それってゲンジのことも好きってこと?」

「それは違いますって。今日会ったばかりなのに。もう、お姉さんったら……」

「でも、ゲンジはサキのことが……」


 お姉さんは紙切れを座卓の上に置いた。それを見つめる目はとても寂しそうだった。


「朝子姉さん……」


 いつもしているようにお姉さんの肩に寄り掛かる。ほんわか温かいはずの肩が今日は何となく冷たい。いや、肩が冷たいんじゃない。饒舌とは裏腹にお姉さんの態度が冷え冷えしているのだ。


「源次郎ってさあ……」


 お姉さんが視線を上げた。壁にかかった額入りの風景写真を見上げながらお姉さんが呟いた。小高い丘から見下ろしたどこかヨーロッパの城塞都市。大金持ちの男つかまえていつか行きたいと言っていたところ。


「名前はいかついけど、心はやわなんだよね……。頭悪いくせに大学目指しててさあ。勉強わからないところがあるとすぐ私のところに来るの。人懐こいところが魅力かなあ……。欠点は人の心がわかりすぎて、いつも気を使ってるところ。……いいヤツだよ……」


「お姉さん……」


 私は顔を上げ、お姉さんを見た。うつむいた顔は青白く寂しそうだった。蛍光灯の加減だろうか。私の大好きな朝子姉さんが、今日また一つのことをあきらめたのか。


「朝子姉さん……、ごめんなさい。私……」

「な、何いってるのよ、サキ! ちょっといいなって思ってただけだよ! つきあいたいなんて思ったことなんてないんだから。ゲンジがサキのこと気に入ってるならそれでいいの……。ほら、また泣く……」


 涙が溢れて止まらない。多くのことを諦めて来たお姉さんが、私なんかのためにもう一つ諦めようとしている。ことあるごとに、恋愛なんかしないなんて大見得おおみえ切ってるけど、お姉さんだって女の子だもん。カッコいい王子様の夢を見ることだってあるはず。それを同じ施設の子のために断念するなんて。


 ダメ! そんなことゼッタイあってはならないこと。諦めないで、お姉さん。私、お姉さんの味方だから!


 モテすぎるのはよくない。周りの人を傷つけてしまう。早くザル王子を探し出し、なくては。よし、明日も早起きして運動部まわりをしよう。

 


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