第19話 積弊清算
「うちの高校、どうなっちゃうんだろう……」
「気味悪いわ。私たちの周りで一体何が起こってるの?」
「バレー部が男女とも廃部だって」
「傷害事件って本当?」
「レイプだって」
「え? 16HRの女子バレー部が三人とも入院? ウッソー!」
「保健室の血みどろのシーツ? それって養護の先生の血なのかしら?」
「血液鑑定してるらしいけど」
「きれいで優しい人だったのに、どこ連れて行かれちゃったんだろ?」
「乳首切断されたのが保健室じゃないかって……」
「私、怖いよ。早く家に帰りたい……」
県立湖南高校は不気味な噂と憶測で膨れ上がっている。あちこちでヒソヒソと、あるいは聞こえよがしにおおっぴらに、こんな会話が飛び交っているのだった。
今日はクリスマスイブ。
本来なら二学期の終業式を終え、成績表が配られたあと、生徒たちは浮き浮き顔で帰途に就くはずだった。わたしもそのはずだった。だが、体育会系の男子のいかつい顔にも、非合理的なことは信じないと豪語していた女子の顔にも、一様に不安と恐怖が滲んでいる。親に止められて二学期最後の日を欠席する生徒までいる始末だ。
「都市伝説のようなものだ!」
担任の大原先生がガハハハと天井に向けて大笑いしてから続けた。
「なんだって? 保健室の先生が拉致されただと? バカタレ! じゃあ、ここにいる美女は誰なんだ? さあ、先生……」
半開きになっていた引き戸に真っ白い指が4本かかった。一番前の席の女子生徒が「きゃっ!」と恐怖におののいた声を上げた。引き戸がいっぱいに開いたかと思ったら「ハーイ」と、輝くような笑顔のフミカが入ってきた。
フミカはいつに増して血色がいい。いや、化粧が濃いだけか。
氷のようだった教室の緊張がゆるむと同時に、うおーっと、男たちが一斉に吠えた。一人の美女の無事に安堵するというよりは、躰の深いところから湧き上がってくる欲望が、一点に向かってゴーっと流れ出す音だった。
鳥肌が立った女子は、きっと私だけではない。
「みんな、私のこと心配してくれたんだねぇー。ありがとうー」
緊張感が抜けた顔でヒラヒラと手を振っている。
今日の彼女はロングスカートが上品だ。ブラウンのニットに形のいい大きな乳房が浮き出ている。教壇に上る時それがたぷっと揺れて、男子生徒の視線が集中する。
「だあれ、保健室のベッドが血だらけになってたとか、私が誘拐されたとか言いふらしている子ぉ?」
フミカが指の関節で教壇をコツコツコツと叩き、身体を
斜め前の席から振り向いた美丘と目が合った。体育会系男子が固まって座っているあたりを顎でしゃくり「バッカじゃない?」と言っている。
「もう、困っちゃうのよ、そういうのってぇ! 誘拐もされてないし、レイプもされてないしぃー!」
しかし何だろう、このギャルトーンは。アンタも一応教育者という立場なんだからもっと大人らしくしゃべれよと突っ込みたくなる。真純も唇の端をゆがめ、これ見よがしにため息をついた。 ため息がわたしにも移った。
「言っとくけどぉー、オレってさあ、レイプされる側じゃなくて、する側だからぁー!」
フミカは時々一人称が「オレ」になる。どういうタイミングでそうなるのか、誰も知らない。予測不可能なのだ。
長くて豊かな髪の毛をサラッと払うと、けばけばしい香水の香りがここまで漂って来た。できれば鼻をつまみたい。
「おい‥‥‥、ポッチ、透けてね?」
「おお、透けてる透けてる」
「たまんねえなぁ‥‥‥」
「うう‥‥‥、フミカセンセー」
後ろからひそひそ声が伝わってくるから、よく目を凝らしてみると、確かに浮いている。乳首が。
「もう!」
一人のバカ女に高校の品格が穢された気がして、私はプクッと頬を膨らませ机の木目を見つめる。
それでもモゾモゾと動く男たちの背中が見えてしまう。ズボンの前をこっそり押さえてる男子の気配を感じてしまう。かっこいい男子もオタク系の男子も性欲がある。男子15名の性欲が、太くて長くて真っ黒な矢印になって一斉にフミカ目指して飛んで行くように見えた。
「ウソだと思ったら、男子諸君、放課後にこっそり保健室に来なさい。証明してあげるよぉ!」
こ、これはレイプ予告宣言じゃないか。「うひょー!」と、M系と思しき男子3、4人が心臓を押さえて椅子から滑り落ちる。
「あ、先生、その発言はちょっと……」
大原先生が慌てて両手を広げ、遮る。その顔はクラスの男子たち同様、緩むだけ緩んでいる。ふやけるだけふやけている。修復不可能なほどに水気を吸ってしまっている。そう、絞ったら顔からたらたらと男汁が垂れてくるほどに。ふやけも緩みもしていないのはきっとズボンの前だけだ。
「フフフフ、ちょっと調子に乗りすぎちゃったみたい。いずれにせよ、私、誘拐されてないからぁ! 元気だからぁ! ちなみに、私の躰で一番元気なところはぁ‥‥‥」
「ち、ち、ちょーっ!」大原先生が慌てふためいて、両腕を振り回す。「フミカ先生、それだけは勘弁を! まだ高校生なんです、彼らは!」
「そっか‥‥‥。キミたちまだ未成年なんだ‥‥‥」
フミカはとても残念そうな顔をしてうつむいた。だが、次の瞬間、
「あ、そうそう……。これ、これ‥‥‥」
フミカがスカートのポケットに手を突っ込んだ。タイトすぎて指がなかなか入らない。何か薄いものを掴んで引き出そうとしているのだが、私の位置からは下半身はほとんど見えない。彼女はもじもじ躰をよじりだした。「うふん、うふん」と息を荒げながら。教卓に隠れた長い脚はすでにX字になっているのかも。
──ま、ま、まさか、教壇上で?
私は美人教師がスカートを降ろそうとしているのかと勘違いした。
「フミカ先生、それ、刺激、強すぎー!」
叫んだのは、私ではない。最前列のオタクくんだ。突然鼻血を吹きあげたのだ。赤い液体が教壇を汚す。床を汚す。もちろん自分自身の制服も。
このとき彼もとんでもない誤解をしていたのだ。あとで話してくれたところによると、このとき彼はフミカが生徒たちの面前でオナニーを始めたと思い込んだらしい。ところがそう思い込んだのは彼一人ではなかった。実は彼のオタク仲間がそろいもそろって同じ勘違いをしたという。
フミカは、ポケットに何かを探していたのだった。
「これ、サービス券ね。男子限定……」
やっと出てきたピンク色の長方形の紙。男たちの昆虫的触覚がピーンと逆立つ。
「あ、3枚しかないから、早い者勝ちってことで……。風邪ひいたり体調悪かったりしたら保健室にいらっしゃーい!」
うううう‥‥‥。女の私にも見えてしまうのだ。美しい彼女の顔からピンク色のハートがぱわーん、ぱわーんと四方に飛び散っているのが。
「ワンドリンク付きだからぁー。オレの男汁入りのドリンクさ! ガッツーンってタテちゃうぞぉ―!」
ぐぐぐぐ‥‥‥。また「オレ」になってるし‥‥‥。「立てちゃう」「建てちゃう」どっちだろう? え、まさか「勃てちゃう」ぅ?
「卒業するまで有効よ!‥‥‥あ、それじゃまずいか‥‥‥。ちょっと待てよ。えーと、えーとぉ‥‥‥うーん……」
フミカは口元に人差し指を添え、瞳をクルリと天井に転がす。この仕草だ! 大きく褐色に澄んだ瞳をくるりと回すこの仕草。──これがたまらなくかわいいのだと、全校の男子たちは口をそろえる。
「やっぱ卒業してからも有効にしちゃおうかなぁ‥‥‥」
ガオーーーーン!(男たちが一斉に天井を見上げ吠えたのだ!)
そ、そんなこと‥‥‥、瞳をくるりと回して考えるようなことかと、私はツッコミを入れたくなる。よっぽどバカなんだ、このオンナ!
ピンク色の、それもつい今しがた迄フミカの下半身に密着していた生暖かいクーポン券をめぐって、オトコたちの熾烈な争奪戦が展開されたのは言うまでもない。
ちなみに、負傷者3名。
バーカ!
男子たちの死闘を脇目に、フミカは腰を振り振り、悠々と教室を出て行った。
極めて軽症の3人。ホームルーム終了後、擦過傷やら捻挫を口実にすぐさま保健室に駆け込んだらしい。考えてみれば、彼らはサービス券なしで保健室に駆け込む権利を得たラッキーガイだ。教室に戻ってきた時、「ワンドリンク付きだったよなあ」と脳天から湯気が立ち上るほど自慢していた。
──ん? ワンドリンクって‥‥‥。
クラスメイトの視線が一斉に3人の下半身に注がれたことは言うまでもないだろう。
彼らの言葉のニュアンスからして、それは明らかに何かを意味していた。女子には想像し難い何か。いや、想像してはいけない何か。男の願望である何か。女の私は想像したくない。
「いいか、オマエら。担任の俺からもいっておく」
フミカの登場で思いっきりふやけていた担任の顔がキュッと音を立てて引き締まる。しかし、どんなに引き締めても、顔の隅々にネジのゆるみが残っているのがなんとも悲しい。シャーペンをグサリと差し込んで、ドライバー代わりにクルクル回してやったら、少しは締まるかしら……。
「女子生徒の乳首が切り落とされただの、3年生男子がペニスを切断されただの、われらが県立湖南高校にそんな怪事件が起こるはずがないだろ。ああ、そうそう。宮田このみがずっと学校に来てないのもそれと無関係だ。ちょっと事情があってな。親御さんとも話し合って、しばらく休ませた方がいいということになってるんだ」
ちがう! 大原先生はウソをついている。まあ、ウソと言っても善意のウソだけど。よかった。担任のウソのお陰でこのみちゃんはいつでも堂々とクラスに戻って来れる。
阿久津先輩との無理な「アソビ」は、何カ月も続いていたらしい。それで大切な部分に深刻な裂傷を負ったのだった。彼がアソコを切られちゃったのはこのみちゃんの報復? いやいや、気の弱い彼女にそんなことができるはずがない。一瞬でもそんなことを考えてしまった自分が恥ずかしい。ごめんね、このみちゃん。
「しかし、一体誰だよ、そんなえげつない噂流す生徒は‥‥‥」
担任が大げさに呆れてみせた。妄念をはらうように頭を振るが、何ともわざとらしい。
「保健室のシーツが血みどろになってただと? みんな自分の目でそれを見たのか? そんなものウソだ! どこにも血みどろのシーツなど存在せん。いいか、よく聞け! バレー部は内部にいろいろな問題があったから、校長と顧問の先生が話し合って廃部になったんだ。それだけだ。傷害だの、麻薬だの、リンチだの、レイプだの、そんなものは噂にすぎん!」
担任が噂の否定に力を注げば注ぐほど、私たちの中に虚無感が広がっていった。だって、乳首が切断されたというのは、被害者本人の言葉だと言われているし、一週間前3年生男子が救急車で搬送されるとき、下半身が真っ赤に血に染まっていたという証言もある。不明瞭ながらもこっそり撮影された動画だって存在するのだから。私は見てないけど‥‥‥。
担任は続けた。
「そうそう、これはキミたちには絶好の勉強の機会だ。都市伝説と言うものが、どういうきっかけで誕生し、どういう経緯で拡散してゆくのか、よく勉強しておくといい」
ちなみに大原先生の専攻は社会心理学だ。
「教科書では学べない、生の教材になるんじゃないかな。じゃ、冬休み中、風邪ひかないように、事故がないように、ちゃんと健康と生活を管理して過ごすんだぞ! 以上!」
とたんに、教室がビッグバンした。
今日から二週間、授業もなし部活もなし。その期待と喜びのエネルギーを、私たち高校生はもてあましている。どこに消費していいのかわからないでいる。
ロッカーに置いてあった文具と衣類、そして成績表と保護者へのプリントをカバンにしまっていると、いつも仲よくしている女子たちに囲まれた。
「ねえ、やっぱりダメなのかなぁ、クリスマスパーティー。みんなサキにも来てほしいって」
「そうだよ、おいでよ。ちょっと顔出してくれるだけでもいいから。みんなサキの事情知ってるし」
私の「事情」──それは養護施設に住んでいるということだ。クリスマスイブは愛光園でも行事がもたれる。地元のボランティア団体も参加して華やかなパーティーが開かれるのだ。それをみんな、特に幼稚園児や小学生たちは楽しみにしている。私も2年後にはもう自立だから、大きなイベントの時はできるだけ参加し、愛光園のみんなとの思い出を増やしたいのだった。
「冬休み中の部活が全面禁止になっているから、木坂君や中川君たちも来れるって。運動部の男子たちと一緒できるなんて、こんな機会めったにないよ」
女子たちはたがいに両手を握り合いピョンピョン飛び上がりながら、教室の後ろに目をやる。そこはクラスでのカースト上位の男子たちが猥談で盛り上がっている最中だった。
「みんなで羽目外しちゃおうよ! 親たちには女子どうしてパジャマパーティーやるって適当にごまかしてさあ‥‥‥」
ああ、つらい。私もできることなら気の合うクラスメイトと思いっきり楽しく過ごしたい。でも、男子も来るというのは警戒しないといけない。だって、男子たちの目的は私だから。その漁夫の利を狙っているのが真純たち。大好きなお友達に「漁夫の利」だなんて、言い方はよくないけど。真純は木坂君が好き。一学期にカレシと別れた美丘は最近中川君に関心を持っている。でも、中川君も木坂君も目的は私。そんなところに行けるはずがない。できれば、真純と木坂君、美丘と中川君ができちゃえばいいと思っている。そう、私は邪魔になるのだ。行かない方がいい。
「本当にごめんね、せっかく誘ってくれたのに」
私は誠意を込めて事情を説明したのだった。真純も美丘もやっぱり親友だ。わかったよ、とうなずいてくれ、頑張るんだよ、と励ましてくれた。
ああ、ジュンくん……。私たち、早く身を固めようよ。ジュンくんがもうちょっと積極的に出てくれたら嬉しいな。それとも、あなたは愛理さんに……? 私はもう決めてるよ。結婚するならジュンくんだって。私たちがカップルとして公認されたら、周りにも幸せなカップルができていくと思うの。
ねえ、ジュンくん。クリスマスイブだよ。
ジュンくん、クリスマスイブなんだってばぁ……。
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