第12話 母のまなざし、そして運命の人
夏休み前の最後の土曜日。
鍼灸治療を終え、リビング兼待合室でミツエさんの入れてくれた高麗人参茶を啜っていた。生薬の生臭さと苦さに顔をしかめた。でも、「からだにとてもいいのよ」と淹れてくれたミツエさんの厚意は無にできない。高価なお茶なのに。私は、ちびちびと啜っていた。
そこへ玄関ドアが開き誰かが入ってくる気配。
きっと患者さんだろう。それにしても呼び鈴も鳴らさずに入ってくるなんてずいぶん失礼な患者さんもあるものだといぶかった。
「じいちゃん、頼むよ」
「おお、来たか。入ってこい」
そっか、お孫さんだ。高校一年生の。
診察室のドアが閉まり、中から老夫婦の嬉しそうな声がくぐもって聞こえる。玄関を入ってすぐ左側が診療室だから、その奥にある居室からは来訪者の姿は見えない。
治療は終わっているからすぐおいとましてもよかったのだが、せっかくお孫さんがいらっしゃったのだ。一言挨拶をしておこう。
しかし……、どうだろう、私のかっこう。ノースリーブにデニムのショートパンツ。全部脱いで鍼さされるんだからすぐ着脱できるものにしようとしたのがこのかっこう。尊敬する鍼灸師さんのお孫さんにお会いするのにはあまりにもラフすぎるかな。
でも念入りにシャワー浴びて来たからいいか。私の躰からはいい香りがしている。
20分ほどして扉の開く音が聞こえた。お孫さんの診療が終わったようだ。どたどたと足音が近づいてくる。
湯飲み茶わんをテーブルに置き、ソファーから立ち上がる。もう腰の痛みもなくすっと立ち上がれた。たしかに、おじいさん鍼灸師の腕はすばらしいんだ。すくっと背を伸ばし手を前に組んでお孫さんの現れるのを待つ。
「おっす、美浜さん!」
「え? ジュ、ジュンくん?」素っ頓狂な声が漏れた。「どうして……、どうしてここに?」
週末の朝にふさわしい輝くような笑顔。彼は私の前を通り過ぎベランダ寄りのカウチに腰を下ろした。すると彼の手が伸びて来て手を引っ張られる。
「な、なに……?」
気づくと私は彼と直角に向かい合って、至近距離に座っていた。ハーフパンツからむき出しになっている膝が私の膝にぶつかる。
スゴイ……。男の子の膝ってこんなにごつごつしているんだ……。
予想だにしなかった展開に胸はドキドキだ。
「ということは……、ジュンくんのおじいさんなの、鍼灸師の先生って?」
診療室の方を指差して訊くと、コクコクとうなずく。
「そうだよ。あれ? だって、表札見なかった?『牧村』って」
「見た見た。でも、『牧村』さんって私たちの町、すっごく多いから……」
ジュンくんは、それもそうだよな、と言って、はにかむようにクククと笑った。子供っぽさにもどこか高貴な雰囲気をまとわせた笑い方。まっ白な歯に見とれてしまう。
「キミの腰痛が深刻そうだから、日本一腕のいい鍼灸師を紹介した。で、どう、調子は?」
慌てて視線を逸らせたが、ちょっと遅かった感がある。彼に見とれていたこと、ばれちゃっただろうか。
「おかげさまで、絶好調。全然痛くないよ。ほら、見て!」
私は立ち上がり腰を右に捻り左に捻り、大きく回したりして健康をアピールする。
「ふーん……」
手で顎を触りニタニタと眺めているジュンくん。視線が私のお尻に集中している。
ああ、また軽はずみなことをしてしまった。彼の登場に有頂天になり、思わずヒップダンスを披露してしまったのだ。あわててソファーに腰を落とす。さっきよりちょっとだけ距離を置いて。そして「いやだ、私ったら」と、熱くなった顔を手であおぐ。
「すぐ赤くなるんだね」
彼の手が腰に回され、またさっきの至近距離に引っ張り戻される。膝と膝がぶつかるのは二度目。彼、わざとぶつけてきてない? けっこうプレイボーイなのかも。
「うん、おっちょこちょいなことばかりやってるから……」
「胸元まで真っ赤だ」
顔だけでなく躰まで観察されていた。羞恥心から私はさらに赤くなる。紅潮した躰を隠すのに腕が4本ぐらいほしい。
「俺は、ここ」
ハーフパンツから剥き出しになった右ひざ。赤い点々が散らばっている。
「膝が悪いの?」
「水がたまるんだ。中学の時から何回も水抜きやってる」
「そうなんだ? かわいそう……」
彼の膝にそっと手を当てた。
無意識の行動だった。幼い頃から躰のどこかが悪い人がいると、そこに手を当ててやらずにはいられないのだ。私の手で少しでも痛みが和らいでくれたらいいと思う。それにしてもなんて長い脚なんだろう。ふくらはぎと太ももの筋肉の比率はきっと黄金比とでも言っていいくらいにバランスが取れている。
「バレーボールのやりすぎじゃない?」
「俺もそう思ってた。でも、じいちゃんに言わせると、内臓からきてるらしい。だからほら……」
シャツを捲り上げるとお灸の痕が点々とほんのりと赤くなっている。お灸の痕より腹部に浮き出た筋肉に形に驚いた。
「腹筋……、すごいね」
私は口元に手を当て思わず魅入ってしまった。膝に当てていた手を伸ばし、腹筋の
「胸の筋肉も……、すっごーい」
私は彼の乳首のちょっと下から肩にかけて、手のひらで筋肉の感触を味わった。男子の胸って、鍛えると女の子のおっぱいよりも盛り上がることを初めて知った。
見上げると、彼のニヤケ顔に出くわした。え? 私、またやらかしてしまったのかしら?
「美浜さんってさあ、きれいで、かわいくて、上品な感じするけど、けっこうエッチだよね」
「エ、エッチ⁈ 私が⁈」
声が裏返った。目がチカチカして何度も瞬きをした。不感症呼ばわりの次は、エッチ呼ばわり。ひどい、あまりにもひどい!
わたくし、あなたに抗議します!
「そう、男の躰平気で触ってくるしさあ……。そこ、けっこうビミョーな部分じゃね? 男の肉体の中では。だって、乳首じゃん。もろに男の性感帯だし」
私は自分の軽はずみが恥ずかしくなり電気に弾かれたように手をはがす。そこが性感帯だとは知らなかった。抗議は……、取り消しということで……。
「この前なんかオレの前でセーラー服はだけちゃったし」
「あ、あれはね、じ、事故だったのよ。自分で脱いだわけじゃないし。宮田さんが転びかけた私を私を支えようとしてそれで……」
むきになって言い返す。話す速度に舌がついてゆかず、噛みそうになった。
「確かにあれは事故だったかも知れない。でも、オレは今こう考えてるんだ。美浜さんが男子にモテるのって、エッチなオーラが引き寄せてるんじゃないのかなって」
「エ、エッチって……。オ、オーラって……」
私、やっぱり抗議します! エッチだなんて‥‥‥。美浜咲にエッチだなんてどの口が言ってるのかしら!断然抗議します!
腕組みして彼にふくれ顔を突き出す。プク顔で「ちょっとぉ」とこぶしで彼の太腿をトントン叩く。くちびるを突き出しムー顔に変身。休み時間に真純と美丘にやっているように。相手が朝子姉さんなら、すかさずアヒル
「んー、んー……」
がっしりつかまれた。「放してヨ」が「んー」となり、「恥ずかしいったら」も「んー」となる。「クワックワッ」としか鳴かないアヒルも本当はいろいろなことを言いたいんだろうなと同情した。私は主人に無理やりリードを引っ張られる小犬のように彼の太腿に手をついてふんばる。さもないと彼の膝元に倒れこみそうだから。行動がすべて動物的になっている。
「んーん、んーん……」
彼の指の力が強くてくちびるがどうしても抜けない。目の前のにやけ顔がなんて憎たらしいんだろう。
「ブラジャーの色はと……」
くちびるをつかまれているせいで前かがみになり、カットソーの緩い襟ぐりから胸がのぞかれている。彼の太腿に両手をついて躰を支えているから隠すすべがない。
「あん時はうっすらピンクだったよなあ。今日は……」
早くくちびるを抜かなければ。だって、もう二年越しで使ってるブラだ。ストラップが緩くなっているし、カップも浮きやすくなっている。でも高校で超かわいいと人気の美浜咲は気品と優美さを保ちたい。ブラジャーは見せるわけにはいかないのだ。
「今日は白か‥‥‥。カップの縁取りはコスモスの刺繍‥‥‥」
克明に見られている。彼の熱い視線がカップの中にまで侵入してきそうだ。
「んー!」
(翻訳:「放してったら!」)
「んぐんんー!」
(翻訳:「乳首が見えちゃうから!」)
幸いなことに彼は人でなしではなかった。
「ごめん、ごめん。あまりにもキミのアヒルのくちびるがかわいくてさあ……。痛かったらゴメン。これでも俺の愛情表現だったりするんだ」
解放されたくちびるをハンカチで拭う。恥ずかしくてちょっとだけ涙が出た。額越しに彼を睨みつけてやった。乳首、見えたでしょ? 見えたよね。ごちそうさまって顔してるじゃない?
眼圧に恨みを込めながらも、心の中ではけっこう尻尾を振ってたりする。だって、彼、「愛情表現」なんて言わなかった? 言った、言った。 私の耳で確かに聞いた……。くちびるをつかまれ乳首をのぞかれた屈辱と甘い言葉がささやかれた喜びで心は大カオスだ。
それから私たちはいろいろなことを話した。彼は口数の少ないイメージがあった。桜坂ではじめて会ったときだって、すっと視線をそらせてしまったし、体育館前で再会したときだって、名前もクラスも教えてくれずに不愛想に階段を昇って行こうとしたし。
おしゃべりは思ったよりはずんだ。
私はクラスの友達のことや、バイト先の仕事のことや、思いやりはあるけど、虎視眈々と私を狙っている店長のことなどを話した。彼は、英語の先生のへたくそな英語をまねしたり、古典の先生の眉毛を掻く癖をまねたりして私を笑わせてくれた。中学の時まで習っていた空手の話もしてくれた。立ち上がって型も見せてくれた。これは太極初段、これは平安二段と。こっちが軸足で、こっちはこうやって捻るんだ、と素人の私にもわかるように説明し、披露してくれるのだった。
嬉しい。
無口で不愛想な彼が私にこんなに心を開いてくれて。こんなに私に興味を持ってくれて。こんなに笑わせてくれて。笑えば笑うほど彼のことが好きになって行く。頼もしさを見せつけられるほど惚れてしまう。
あら、私ったら……。いつの間にか彼の半袖を掴んでいる。あら、いつの間にか彼の手を握っている。あら、無意識にこんなに躰を寄せている。なんて貞操感の乏しい私なの?
「そうか、うちのクラスのバレー部3人がか……」
「すっごく怖かったんだから、もう……」
16ホームのおっかない女子に囲まれた話をすると彼は眉間にしわを寄せた。「アイツらぁー」と腕組みをし天井をにらみつけている。
「どこか
「したした。もう、ほんとうに痛くて……」
あの時の恐怖がよみがえって来て、
「そうか、そっちか?」
「え?」
「やられたんだろ、チ・ク・ビ?」
恥ずかしい部分の名称を言われ、どぎまぎしてしまう。
「あ、いえ……、も、もう大丈夫だし」
胸から手を下ろす。背中を丸めて膝の上で両手をもじもじさせてしまう。
男子の前で胸をいじってしまったことが恥ずかしい。彼の目が見れない。
すると、
「どれどれ……」
さっきまで空手の型を披露していた筋肉質の手が伸びて来た。
「ここか?」
「え‥‥‥」
視線を落とすと、私のかわいそうな乳房が彼の手に覆われていた。
「こっちなんだろ?」
「あ……、んん……」
とても優しく、ふんわりと包み込まれている。彼の愛情といたわりが伝わって来てうっとりとしてしまう。心がとても穏やかになる。 しかし……、
え? ど、どこ触ってんの? それ、女の子のおっぱいなんだけど……。あのぉー、ふつう、そういうところは触っちゃいけないと思うんですけど……。あ、実はわたくし、男の子に触られるのって初めてでして……。あ、イヤ……、そんなにモミモミされると……。
「ん、はぁ……」
吐息に声が混ざってしまった。あわてて口元に手をやる。
「かわいそうなことをした。ごめん……」
「ふっ……、はうん……」
気持ちいい。やっぱり鍼灸術の効果だ。以前は快感なんか感じなかった乳房が、彼の手の動きと体温にこんなに酔っている。
指が食い込んできた。もはや、触られている、包まれている、覆われているといったレベルでは済まない。揉まれているのだ。つかまれているのだ。こねられているのだ。お餅みたいに‥‥‥。
いつのまにか、左右両乳が愛撫されている。快感が二倍になる。
「あっ……、ふっ……」
え? うそ? 乳首が立っている……。すごく敏感になって、乳肉がゆがむたびにブラに擦れて、刺激がビンビン伝わってくる。そればかりではない。下腹部で何かが膨らんで炭酸飲料水のように泡立ってくる。なんだろう。これ、なんだろう。とても……、気持ちいい……。
「常套手段なんだ。アイツらも新人戦で惨めな負け方して、先輩たちから乳首むしられたらしい。かわいそうなヤツらなんだ……」
ジュンくんがぴったり躰を寄せてくる。そして、柔らかく、どこまでも柔らかく胸を揉んでくれる。そういえば桜坂で彼の腕が当たったのが一度目。今日は二度目だ。
あはーん。次第に息が上がってきた。どうしよう。興奮していること、ジュンくんにわかってしまう。
どうしよう。下腹部の毛が生えているところとお尻の穴の間の、あの部分が……、モゾモゾ動いているような……、何か暖かい水が降りてくるような……。
「大類なんかさあ……、ああ、大類っていうのはあの目の細い子ね。一年生チームのキャプテンなんだけど、練習試合に負けるたびに罰として先輩に胸の先むしられてるらしい‥‥‥」
鳥肌が立つようなエグい話が脳みそをすり抜けていく。快感の酔いが回り出した脳はすでに言葉を理解していない。私は喘ぎ声が漏れないように口もとに手を当てる。でも、指と指の間から漏れてしまう。
「んん……、ふんん……、あっ……」
ショーツの中も何かが漏れている……。なんだろう……。両脚をぎゅっと閉めるといい気持ちになってくる。
「ホントかもしれないし誰かの作り話かも知れない。でも、ホントならさあ、もう乳首なんて残ってないかもしれないぞ」
幸せなことに私には乳首がある。ちょっと陥没気味だけど、鍼治療ですっかり感度を上げた乳首がある。ああ、もっと触ってほしい‥‥‥。ブラがじれったい‥‥‥。直接‥‥‥、じかに乳首に触ってほしい。ああ、ジュンくん‥‥‥。ジュンくん‥‥‥。
「……でさあ、そのコワーイ先輩の方も『大類さん』なんだ。類が類を呼んで『大類』になっちゃったんだな、きっと。ハハハハハ!」
仕上げに幼い子供の頭を撫でてあげるように、左右くるりと一回転すると彼の手が離れていく。ハハハハハと笑い声とともに。
ああ、行かないで‥‥‥。もっと触っていてほしいのに。もっとこねてほしいのに‥‥‥。お望みなら、カップの下に侵入してきてほしいのに‥‥‥。
潤みかかった目で彼を見上げる。私のくちびるからはまだ吐息が漏れていて、まともに見ることはできなかったけど、彼の表情には性欲とか下心とかいうものが感じられなかった。スケバンに虐められた私のおっぱいがかわいそうで揉んでくれたのだった。
「ひどいわ‥‥‥」
こんなに私の官能を刺激しておいて、いまさら愛撫を切り上げるなんてひどいわと、ジュンくんに抗議したのだった。もっと触ってい欲しい、と言いたかったのだ。なのに、
「だろ? ひどいだろ? バレー部なんかやってると、将来子ども産めなくなっちゃうぜ‥‥‥」
そうじゃなくて、と私は再抗議したかった。だが、彼には伝わっていないようだ。
「あ、でもね、それ、たぶん都市伝説だと思う。まあ、そういう噂も男子部員の間では徘徊しているってことさ。で……、美浜さんのオッパイはさあ……」
「え? 私のオッパイ?」
彼に揉んでもらった胸を見下ろす。愛撫がもっと欲しい欲張りの乳房を見下ろす。違和感を感じるのは、ブラがちょっとずれているせい。
「オレが守るから……」
子宮の中で炭酸の泡がはじけた。プツプツっと。
「え? 私のオッパイは……ジュンくんが?」
「そう……。守らせてほしい、オレに!」
ジュンくんに後ろ抱きにされた。
「オレじゃ、不満か?」
くちびるが耳にくっつきそうなほど近くで彼がささやく。
「あ、ありがとう……。守って……ほし、い……、ジュンくんに」
「絶対守るから……」
躰の小さな私は、今ジュンくんの大きな躰にすっぽり包まれている。後ろから回された両手に二つのふくらみが包まれたその安心感は圧倒的だった。男の子にオッパイを触られているのに、全くいやらしい感じはしなかった。父なるもの、親なるものの懐に抱かれている、絶対的な安心感だった。
このまま時間が永遠に流れてくれたらどんなにかいいだろう。彼の広い手のひらで乳房が守られながら永遠を漂うことができたらどんなに幸せだろう。
私は自分の乳房を優しく覆い、時々すくい上げたり揉んでくれる彼の手の上に自分の手を重ねた。ジュンくんはオッパイの柔らかさを感じ、私は彼の手のたくましさを感じている。
──ああ、ジュンくんとセックスしたい‥‥‥。
とんでもないことが私の頭にひらめいた。ジュンくんにもっと深く私の女を知ってもらい、私も彼の男をもっと受け入れたいと思ったのだった。そして、そんな思いがやがてはセックスとして結実することを本能的に感じ取ったのだった。
──ジュンくん、セックスしようよ‥‥‥。
私は胸の中でつぶやいた。けっこう正直な、切実なつぶやきだった。本当にこの時私はセックスを望んでいたのだった。
すると、
──キミの中に入りたい‥‥‥。
声ならぬ声の返答があった。ジュンくんの声だった。ちょうど彼の手がブラのカップをずり上げ、指先で乳首をつついた時だったから、よけいびっくりした。
彼の心の中の声が伝わって来たのだろうか、それとも私が勝手に彼の声を偽造したのだろうか。私はうろたえた。ジュンくんの祖父母がいらっしゃるところでセックスなんかできない。断ち切らなくちゃ! 理性で抑制しなくちゃ! ジュンくん、あなたも理性で欲望を押さえて!
私はずれているブラを直し、言葉による疎通を図った。言葉により人間は理性を回復するものだから。言葉の論理性は理性を呼び覚ますものだから。
「まさか、男子にはそんなことはないんでしょ? 試合に負けたらリンチを受けるとか……」
まだ完全に冷却していない呼吸を押さえながら言葉を押し出す。
「な、ないよ」
ジュンくんの手が胸の膨らみから離れていく。惜しかったけど、よかった。ジュンくんはこれで理性を回復したのだから。
「でも精神的圧迫はあるかもなあ……」
女の子がブラを直しているところから視線を逸らせたのは彼なりのマナーなのかもしれない。
彼の視線はベランダの広い窓ガラスを超え、梅雨明けの入道雲に向けられていた。真っ青な空を背景にもくもくとすごい勢いで上へ上へ容積を拡大していく。私の視線は彼の凛々しい横顔にピン止めされる。
あと数日で夏休みか……。
「ただね……。勝つことばかりに固執して全体主義的になっている。本来楽しむべきはずのスポーツが恐怖になっている。最近、否定的な感情にコントロールされてスポーツやっているように思える。もっと自分に投資できる部活はないのかなって思うこともある。自分だけに与えられた資質と 養護施設には特定の宗教はない。でも信仰なら幼い頃からあったような気がする。私をいい方へ、いい方へと導いてくれる神さまを漠然と信じてきたような気がする。
人生、必ずよい方へ向かうという、根拠のない自信があったような気がする。
高校一年生で婚約。
いいじゃないか!
高級ホテルの最上階のレストランでプロポーズされ「Yes」か「No」か選択を迫られるわけではない。「仲良くしようよ」「うん、いいよ」。そんなノリでいい。眉間にしわを寄せて真剣に考えることもないと思う。ジュンくんは悪い人ではないと思う。それで新郎の資格は十分だ。あとは、私とジュンくんが幸せになるように、互いに知り合い、歩み寄り、理解し合い、将来の家庭生活にそなえればいい。結婚相手に必然性はないのだから。
理想の伴侶は見つけるものじゃない。お互いの誠実と努力によりつくるものだと、私は信じている。その過程は机に勉強するより価値があると思う。だって、人生そのものの勉強だから。
高校卒業まですべきことをまとめてみた。
ひとつ。
勉強は、私がジュンくんに魅力的な女性に見えるように教養をつけることが目的。入試のための勉強じゃない。女性として輝きを磨くための勉強をするつもり。本をたくさん読もう。ジュンくんが海外赴任になったら彼をしっかり支えられるように英語も勉強しておこう。
ふたつ。
健康管理。そして、からだ作り。ジュンくんとふたり、いつまで幸せでいられるように健康な躰をつくろう。健康な赤ちゃんを生めるように生理の日は無理しない。排卵日も無理しない。でも、ぐうたらしていてもダメ。悪い男から貞操を守るために、ジュンくんに空手を教えてもらう。
みっつ。
性感帯を開発しよう。だって、夫婦生活のクオリティーを上げるのにセックスは重要ポイントだ。彼が私の不感症を指摘したということは、それを直してほしいということじゃないだろうか。いいよ、ジュンくん。あなたの性欲をしっかり受け入れられる妻になるから。ジュンくんを絶頂に導き、私自身も深いオルガズムに達することができるように、
ということで、今この瞬間から私の新しい人生がスタート!
「ただね……。勝つことばかりに固執して全体主義的になっている。本来楽しむべきはずのスポーツが恐怖になっている。最近、否定的な感情にコントロールされてスポーツやっているように思える。もっと自分に投資できる部活はないのかなって思うこともある。自分だけに与えられた資質とか才能があるような気がする。それを伸ばしたいんだ。いい感情を育てたい。いい感性をはぐくみたい。人間的に成長したいんだ。バレー部にいる限りそれは無理なんだ」
こんなこと話せるのは私が初めてだと言った。「キミになら何でも話せそうだ」と言って爽やかな笑顔を振りまいてくれる。高校生徒は思えない大人っぽい微笑だった。
「夏休みになったら、毎日練習だな……」
彼はまた夏の入道雲を見上げる。自由にあこがれる囚人のような目つきで。囚人でも、やはり彼の横顔は美しい。
整いすぎだ。
高貴すぎだ。
初めて会った時はこんなイケメンには見えなかったけど。やはり髪の毛が伸びたせいか。
私はジュンくんと一つの部屋でふたりきりで、こんなに近くでお話ししている。私になら「何でも話せそうだ」とまで言われた。さっきはオッパイまでもまれたじゃないか。それって、私が彼にとって特別な存在ってことよね。夢じゃなければいい。
念のために頬やショートパンツからむき出しの太腿をつねってみる。何度つねってもどこをつねっても痛い。ということは、これは現実なんだ。本当に現実なんだ! 信じていいんだ。私の目も耳も。
「で、さっきから気になってるんだけどさあ、それ自傷行為なの? 頬っぺた引っ張ったり、脚つねったり……。かわいさで評判の美浜さんって実は精神的に危ない人なのかなって、ちょっと……」
はっと見下ろすと、太腿のあちこちに爪の痕がついている。血が滲んでいるところもある。恥ずかしいくて顔が熱くなる。隠したい。でも隠すものがない。発作的に上体を前に倒し両腕で脚を抱く。男子の前でこんな姿勢を取ったことがない。自分でも彼に甘えているのだということがわかる。
「だって、ジュンくんのこと、ずっと探してたんだよ。なかなか見つからなくて。それが今こんな至近距離で話している。胸にも触ってもらって‥‥‥、も、揉んでもらった‥‥‥。それが夢みたいで……」
自分のくちびるから漏れるいやらしい言葉に自分の官能が高められる。ブラの下で左右の乳首がピリピリ敏感になっている。
「これ、本当に現実なのかなって‥‥‥。こんな幸せでいいのかなって‥‥‥。だから……」
恥ずかしくて顔を真っ赤にしてうつむきそうになる。でもジュンくんの表情が見たくて見たくて、視線だけはピッタリと彼の瞳に据えられている。私は上目遣いで彼にレーダー照射していることになる。これは湖南高校の男子から「強力な悩殺武器」として認定されているのだ。
「美浜さん‥‥‥」
レーダー照射から逃げるすべを知らない彼は私の腰におずおず手を回し、思いっきり引きつける。とたんにバランスを崩し、私は彼の胸に倒れ込む。ドミノ式に彼も倒れる。気づくとふたりはカウチ上で横寝になって向かい合っていた。
「え? あ……」
上手く状況が把握できずにいると彼に肩を押された。その結果、私は彼の腕枕で仰向けになり、脚と脚が絡み合う格好になっている。ベランダから差し込む日光が私たちの上半身を照らしている。
イヤだ……、これって……、アレをする時の姿勢だし……。そう、『セックス』。恥ずかしがってはいけないとミツエさんが言っていた、セ・ッ・ク・ス……。
まっすぐ上から見下ろされる。顔と顔の距離は30センチもない。まなざしの熱さに焼きつけられる。彼のレーザーは私の瞳を通し、心の奥深いところまで照らす。そしてそこに眠っていた何かを目覚めさせた。
何だろう。
私の心に眠っていてたった今目覚めたこれは何だろう。遠い日の記憶? それとも意識化されていなかったトラウマ?
まなざしを注がれること。──私はそれにどれほど憧れてきたことか。生まれた時、母は私にまなざしを注いでくれただろうか。当然、記憶にはない。
誕生の瞬間から捨てられる運命だったのだろうか。母に疎まれながらこの世に生まれてきてしまったのだろうか。そうだとしたら、私の中にはまなざしの経験がないことになる。養護施設でも見つめられるなんてことはない。職員さんたちは仕事で施設に出入りしているのだ。それにみんなに気を配っていなければならないのだから、私だけ愛のまなざしを独占できる立場ではないのだ。
しかしジュンくんのまなざしは、確かに今、心の奥底の何かに共鳴している。叩かれてもいないのに、ジュンくんの音叉に共鳴して私の心がピーンと高い音を発しているのだ。
──まなざしの経験があるんだ、私にも!
母は私を見つめてくれたに違いない。慈悲のまなざしで「生まれて来てありがとう」と涙を流したに違いない。記憶はないけど、映像も声も残ってないけど、私の中には確かなものとして、ある、それが。
──愛されたんだ。母に愛されたんだ……。
感動で躰が熱くなってくる。
私もジュンくんに負けず、まなざしを注ぎかえす。赤ん坊の私が母を見つめたように。鼻の奥がジンジンしてくる。涙があふれてくる。
──大好き。愛してる。お母さん……。
たった一つの母との記憶を目覚めさせてくれてありがとう。
ジュンくんって──。
そう、牧村ジュンくんって私にかけがえのない人なんだ。運命の人か、も……。
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