第26話 水上家
佐川刑事と梅原刑事は水上邸で待機していた。リビングのソファに座っていると森野はお茶を出してくれた。
「どうぞ。お茶です」
「あっ、どうもすいません」
すると森野も自分のお茶をテーブルに置いて向かいのソファに座った。
「翔太様は楽しみにされていたのです。『うみのこ』に乗れるって。それがこんなことになるとは・・・」
「ご心配ですね」
「ええ。小さい頃からお世話していますので・・・」
森野は話し出した。
「この水上家の先々代が神水学園を創立されまして・・・。私は先代からこの家に仕えています。先代の洋三様には千翔様というお嬢様がいらっしゃいました。それはもう美しい方であちこちの名家から嫁入り話が出たほどでございます。しかしお子様は千翔様だけだったので雅雄様、つまり今の旦那様を婿養子にお迎えになりました・・・」
森野の話はまだ続いていた。
「それがなかなかお子様ができなくて・・・結婚7年目でやっとのことでお子を授かり、その年の9月に翔太様がお生まれになりました。水上家の跡取りができたと洋三様と千翔様がどれほどお喜びになったことか・・・それが・・・」
森野はため息をついた。
「千翔様が出産後しばらく入院されました。それからは雅雄様が翔太様の面倒を見て・・・それはもう心から翔太様をかわいがられていました。でも小さい頃からお体が弱くて病院によくかかっておられました。旦那様みずから翔太様を抱きかかえて近江病院に駆け込んだときもあったようです。でも2カ月のころから丈夫になられて病院通いも少なくなってきて・・・」
佐川刑事は森野の話に言葉をはさまずにじっと聞いていた。
「しかし千翔様はそれから間もなく亡くなられた。せっかく念願のお子にも恵まれて幸せに暮らせるというのに・・・。それからすぐに洋三様も亡くなられました。千翔様が亡くなって気落ちされたのでしょう。それに先代の奥様もそれからすぐに後を追うように亡くなられて・・・」
森野の表情は暗くなった。
「すると雅雄様は後妻に今の奥様である貴子様を水上家に入れました。なんでも子供ができたということで・・・それが和雄様です。ホステス上がりでこの水上家にふさわしい方ではありませんが、母を亡くしてお寂しい翔太様に母親の愛情を注いでいただけると期待しておりました。しかし奥様は翔太様をかわいがるどころか、つらく当たる始末です。本当に翔太様がおかわいそう・・・」
森野の目に涙が光っていた。
佐川刑事にはこの家の複雑な事情が分かった。それで確かめることが一つ見つかった。
「この家の翔太君の立場は微妙なのですね。それでつかぬことをお聞きしますが、先代の洋三さんの遺産は雅雄さんがすべて相続したのですか?」
「えっ! まさか! どうしてそんなことを聞くのです?」
「捜査のために・・・念のために確認したいと思いまして」
「まあ、ここまでお話ししたのですからお答えしましょう。財産は千翔様の子供である翔太様が相続することになっています。成人するまで雅雄様が管理するということで。こんなことが捜査に役立つのですか?」
「ええ、まあ。我々はつまらないことまで調べるのが商売でして。ははは」
佐川刑事は笑ってごまかした。犯罪が起きた時、最も得をする者が怪しい・・・これは捜査の鉄則だった。だがそんなことを森野に言うわけにはいかない。
その後も佐川刑事は森野のくどくどした話に付き合わねばならなかった。
水上邸で身代金の受け渡しの状況を佐川刑事が聞いたのは2時頃だった。現場から荒木警部から状況を伝える電話が入った。
「・・・身代金は湖に浮かんでいる。だが犯人は姿を現さない。犯人が別の方法で接触してくるかもしれないから注意しろ・・・」
佐川刑事は何となくそんな気がしていた。誘拐事件の時は身代金の受け渡しが問題となる。そんな簡単に犯人が姿を現すとは思えなかったからだ。電話を切った後、森野が彼のそばに来た。
「受け渡しはどうなったのですか?」
「受け渡しに犯人は現れていません」
「それでは翔太様はどうなるのですか! 翔太様は無事なんですか!」
森野は少し取り乱していた。
「落ち着いてください。受け渡しに犯人が警戒して現れないことはよくあります。今は犯人からの接触を待つしかないのです」
「そ、そうですね。申し訳ありません」
「ここに直接、犯人からの連絡が入るかもしれません。我々はここで待機させていただきます」
佐川刑事は「ふっ」と息を吐いて天井を見つめた。2階には雅雄がいる。下りてくる様子はない。
(心配じゃないのか?)
あらためて雅雄の息子の翔太に対する冷たさを感じていた。
◇
やがて夜になった。空には月がなく、湖は暗闇に包まれていた。佐川刑事と梅原刑事は捜査1課の捜査員と交代して湖上署に戻ってきた。捜査課は上村事務員だけでがらんとしていた。すべての捜査員が出払っているため、こんな時間まで留守番をしてくれているようだ。佐川刑事は彼女に尋ねた。
「状況は?」
「身代金の受け渡し場所にまだ犯人が現れていないようです」
「そうか・・・。荒木警部たちは?」
「まだ現場におられます。そのうち戻ってこられると思いますが・・・」
しばらくして荒木警部たちが戻って来た。その顔には長時間の緊張から来る疲労の色が見てとれた。
「警部。ご苦労様です」
「佐川、おまえの方はどうだ?」
「水上家も特に何もありませんでした」
「そうか・・・」
荒木警部は「ふうっ」と息を吐いてから佐川刑事に尋ねた。
「そういえば忘れていたが、緑川由美の部屋を捜索したのだったな?」
「はい。彼女の部屋を捜索しましたが、これというものは・・・。堀野刑事たちは大阪の赤木竜二の部屋を調べましたが、特に手がかりになるものは見つからなかったと聞いています」
今のところ、2人が重要参考人となるがその足取りも手がかりもつかめていない。
荒木警部は近くのソファに身を投げ出して座った。
「こっちも空振りだった。身代金を詰めたリュックは今だに湖に浮かんでいる。北に流されているようだ。ボートを出して監視を続けさせているが犯人は現れないだろう。明日、あきらめて回収するつもりだ」
「そうですか」
「犯人の指示メールの発信元はやはり緑川由美のスマホだ。発信基地は烏丸半島の近くだが、周辺で彼女を発見できなかった。それから犯人からのメールは来ない。次の指示が来るとは思うのだが・・・」
今はまた犯人からのメールを待つしかない。佐川刑事は頭を下げて自分の机に戻った。
「大変でしたよ」
ずっと現場にいた藤木刑事が話しかけてきた。
「身代金を持った2人をずっと見張っていたのですから」
「そうか。詳しく教えてくれ」
「犯人の指示で琵琶湖博物館から2キロ離れたレイクレンタルボートという貸しボートの待合室まで移動。30分以内だというので先生たちはかなり急ぎました。その待合室で指定の時間まで10分以上待たされて、ようやく貸しボートに乗ったというわけです。しばらく北上した後、湖の上に置けという指示が来たので、そこに置いて先生たちは戻ってもらいました」
「その身代金を取りに犯人が現れないわけだな?」
「はい。我々が張っているのがわかったからでしょうか?」
この受け渡しに警察が出て来ることを犯人は十分承知している。この警戒を潜り抜けて身代金を手に入れようと犯人は考えている・・・佐川刑事はそう思っていた。身代金の入ったリュックは琵琶湖博物館からレイクレンタルボートの待合室、そしてボート・・・彼は立ち上がって夜の琵琶湖を見た。暗闇にいくつかの光が浮かび上がっている。その中に気になるものを見た。
「おやっ?」
営業がとっくに終わっているはずなのに、エンジン付きボートらしいものがレイクレンタルボートの方角に向かっているのがかすかに見えた。
「もしかして・・・」
佐川刑事の中にある仮説が浮かんでいた。
「どうしたのですか?」
その様子を見て梅原刑事が尋ねた。
「もしかすると犯人に遭遇できるかもしれない。行くぞ!」
佐川刑事はすぐに部屋を出て行った。その後を梅原刑事が不可解な顔をして追っていった。
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