第21話 森野の心配

 水上家では火が消えたように静かだった。だがいつもより人がいないわけではない。誘拐事件を受けて雅雄は自宅で仕事をすることになり、ずっと家で待機することになった。他には秘書の奥山、家政婦の南江順子、そして捜査1課の捜査員が常に家に張り付いていた。

(こんなに家の中が暗いのは翔太様がいらっしゃらないからだ・・・)

 食卓の後片づけをしながら森野はそう思った。奥様や次男の和雄様もいないのもあるが、それはよくあることであり、やはり翔太様がこの家を明るくしていたと彼はつくづく思った。亡き前の奥様、千翔様の血を引く翔太様は彼にとって大事な存在だった。病弱だった千翔様に比べ翔太様は元気にすくすくと育っていることが心からうれしかった。だがその翔太様は誘拐されている。

(どうかご無事で・・・)

 森野は神に祈るしかない。彼にとって不満に感じられるのは旦那様がこんな状況でも他人事のようにしていることだった。自分の子供を誘拐されて心を乱さない親はいないだろう。だが旦那様にはそんな様子はない。

(弟の和雄様が生まれてから・・・、いや千翔様が亡くなられてから・・・いやその前だったか・・・それまではかわいがっていたのに・・・)

 旦那様はまるで翔太様に対しては愛情がないように森野には見えた。それに今の奥様に至っては翔太様を邪魔者だといわんばかりの目で見ている。両親の愛を得られない乗田様を守るのは自分しかないと森野は勝手に思っていた。

(身代金の1億は本当に出していただけるのか・・・)

 それが森野の一番の心配ごとだった。雅雄の態度を見るとまだ信じられないでいた。

 そこに秘書の奥山が2階から下りてきた。

「奥山さん。旦那様は?」

「旦那様はお金の準備をされています。銀行への手続きが済みましたので、もうすぐ銀行の方が現金をもっていらっしゃると思います」

「そうでしたか」

 森野はほっと胸をなでおろした。

「旦那様はまだお部屋に?」

「ええ、まだお仕事があります。お茶を持ってきてほしいとのことでしたので取りに来ました」

「それなら私がお持ちします。奥山さんはどうぞ旦那様のお仕事に」

「そうですか。ではお願いします」

 奥山はそのまままた2階に上がって行った。森野の見るところ奥山には水上家の秘書としての資質はなく、上品なふるまいは期待できない。だがあの年にしてはパソコンやスマホが自由に使え、事務仕事にも堪能なため旦那様の仕事に何かと便利のようだった。だからわざわざ学園の職員からこの家の秘書として雇ったいきさつがあった。だから旦那様が学園に行けなくても仕事に支障は出ないはずだった。

 家政婦の南江がお茶を準備した。心配のあまり、何も手につかない様子ではあったが・・・。

「さてお茶を入れて持っていくか」

 森野はお茶を部屋に持っていき、旦那様に身代金を作っていただいたお礼を言おうと思った。

 階段を上って行くと廊下の隅で奥山が電話をかけていた。何か急に連絡することがあるのかもしれない。だがつながらないようで何か深刻な様子にも見えた。森野は邪魔しないようにそっと部屋の前に来た。

(今なら旦那様は部屋でお一人だ・・・)

 森野はノックをして雅雄が執務している部屋に入った。部屋の中では雅雄はパソコンの画面をのぞき込んでいた。

「奥山。ちょっと教えてくれ。これはどうなっている?」

 雅雄は部屋に入ってきたのを奥山だと勘違いしていた。

「旦那様。森野でございます。お茶を持ってまいりました。一息入れられましたらいかがでしょうか」

 雅雄はパソコン画面から目を外して森野を見た。

「そうだな。奥山は帰ってこないし、お茶でも飲んで待つか」

 雅雄はソファに座った。そのテーブルに森野はコーヒーを置いていった。

「かなわんよ。最近は紙じゃなくてパソコンだからな」

 雅雄はため息交じりに言った。雅雄は森野と同じように機械に弱かった。だからパソコンが使える奥山が重宝する。

「旦那様。翔太様のためにお金を用意していただきまして、この森野、お礼を申し上げます」

「いや、私がどうかしていた。こんなことは当然だった」

 雅雄はそう言ったが、なぜか他人事という感じはあった。それが森野には気がかりだった。

「旦那様。私が申しあげることではないかもしれませんが・・・」

「どうした?」

「旦那様は翔太様に少し冷たく見えます。和雄様のことがかわいいのはわかりますが、翔太様も旦那様の子供です。普段からもう少し気にかけていただけましたら・・・。」

 こんな時にでも旦那様に申し上げなければ翔太様がかわいそうだ・・・それが森野の気持ちだった。

「わかっている。でも翔太はもう5年生だ。いつまでも私がかまっている年じゃない」

 雅雄は冷ややかに言った。

(旦那様は翔太様のことを言われるのがやはり嫌のようだ。このまま話しても悪い方に行く)

 森野はそう感じて話題を変えることにした。

「そういえば奥様は和雄様と別荘にいつまでいらっしゃるのですか? 帰ってこられないのですか?」

「ああ、帰ってきても何もならないし、和雄もここにいない方がいい。貴子もそう思ってしばらく別荘にいるそうだ」

「そうでございますか」

 それは森野には予想した答えだった。

(継母の貴子にとって翔太様は目障りにしかないのだろう。この家にいても翔太様に当たるだけだ。それならいない方がいい。翔太様のお世話なら自分がする)

 と森野はいつも思っていた。だから翔太様が誘拐されても気にしないし、いなくなった方がいいとも思っているに違いない・・・・と。

 話しているうちにノックの音がして奥山が戻ってきた。

「すいません。親戚の者が危篤で様子が気になるものですから」

「そうなら休みを取っていいんだ。駆けつけたいんだろう」

「いえ、今すぐにというわけではないようですから。でももしかのときは失礼するかもしれません。それに申しわけありませんが、スマホに連絡が来るかもしれませんので・・・」

「ああ、いい。構わない。ところで・・・」

 雅雄と奥山は仕事の話をし始めた。そうなったら森野は邪魔にならないように下がらねばならない・・・それが森野にしみついた礼儀だった。

「では失礼します」

 森野はそう言って部屋を出た。雅雄と話してみたが、彼の不安が大きくなるばかりだった。

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