第36話 由美の思い
緑川由美は水上翔太とともに彦根駅前の近江ちゃんぽん屋のすみで遅い昼食をとっていた。近江ちゃんぽんはあっさりした和風のスープに肉や野菜がたくさん入った麵である。空腹で冷え切った体にその温かさがしみる。翔太は懸命に食べていた。その様子を眺めながら由美が尋ねた。
「どう? おいしい?」
「おいしいよ」
翔太は口に回りに汁をつけていた。
「ちょっとついているわよ」
由美はそれを拭いてやった。はたから見ると旅行に来た母子としか見えない。
この数日、緊張感の中で由美は幸せを感じていた。追われているとはいえ、翔太と2人でいられることに・・・。
(こんな日が来るとは想像できなかった・・・)
由美は思い出していた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
赤木竜二と結婚して1年後に楓太が生まれた。それは由美にとって人生で一番幸せな日々だった。だがあの日、彼女は地獄に突き落とされたのだ。
2カ月の楓太が急に熱を出した。それで由美はかかりつけの近江病院を受診した。その待合は風邪の患者で混雑してベビーカーでは身動きができないほどだった。彼女は受付をするために少し目を離した。するとそのちょっとした間に楓太はぐったりとなっていた。熱はあったもののあれほど元気だったのに・・・。
すぐに楓太は救急室に運ばれ蘇生処置を受けた。だが息は戻らなかった。しばらくして救急室の外に待つ由美の前に救急の医師が出てきた。
「先生! 楓太は?」
「・・・残念ですが・・・助けられませんでした・・・乳児突然死症候群というもので・・・」
「そんな・・・」
由美はすぐに救急室に駆け込んだ。ベッドの上に動かなくなった楓太がいた。彼女はすぐに「楓太! 楓太!」と呼び続けて抱きしめた。だがその時、違和感を覚えた。
「この子、楓太じゃない!」
由美はその遺体から離れた。
「楓太君です。あなたのお子さんです」
「いえ、違うわ! 楓太じゃない! 違うのよ! 本当の楓太を返して!」
由美は半狂乱となって周りに訴えた。自分の子供が何者かに連れさられた。この亡くなった子供の代わりに・・・彼女はそう直感していた。
だが周囲にいる人たちは、由美は自分の子供の死を受け入れられず、そう叫んでいると思っていた。やがて夫の竜二がそこに呼ばれた。由美は竜二にも訴えた。
「この子は楓太じゃない! どこかに連れていかれたのよ!」
だが竜二も由美の言うことを信じようとしなかった。彼もまた由美が子供の死を受け入れられないだけだと思ったのだ。だから時間をかければそれを受け入れると思っていた。
だがお葬式が済み、しばらくしても由美は同じ状態だった。「楓太はどこかで生きている」と竜二に常に訴え続けた。そのことで夫婦の間に溝が生まれ、けんかが絶えなくなった。そしてやがて離婚することになった。
その後、由美は教職に復帰した。はたからみると落ち着きを取り戻し、子供を亡くした悲しみを乗り越えたように見えた。だが心の中ではまだ楓太がどこかで生きていると信じていた。そうして数年が過ぎた。
それが今年、神水学園に赴任し5年1組の担任になった。そこで由美は水上翔太という生徒に出会った。
(この子は楓太だわ!)
彼女にはすぐにわかった。それは論理的には説明できない母親の勘というものかもしれない。彼女はそれを確かめようとした。
ちょうどその時、叔父の奥山平治が水上家で仕事をしていた。これは好都合だった。彼女は奥山に会って訴えた。
「水上翔太君は楓太に間違いないわ」
「まさか。そんなことがあるわけがない」
奥山はあまりにも突飛な由美の言葉を信じられなかった。だが由美は何度も訴えた。
「お願いです。どうしてもあきらめきれないんです! 楓太が連れ去られて翔太となったのです。調べてください!」
由美があまりにも熱心に頼むので、奥山は彼女がかわいそうになった。その心を少しでも落ち着かせるためだけに一応、調べることにした。
すると調べていくうちに奥山もそれが本当であると信じるようになった。翔太に対する雅雄の冷たさ、11年前の近江病院のことなど・・・。一番決定的だったのは、貴子が密かにDNA鑑定を行って雅雄と翔太が親子関係にないと雅雄に告げたのを盗み聞きした時だった。その鑑定書のコピーも雅雄がすぐにごみ箱に捨てたのを拾って手に入れた。
奥山はそのことを由美に話した。彼はてっきり由美が翔太、いや楓太を取り戻そうと警察に訴えたり、法的手段を取るなどあらゆることをすると考えていたようだ。だが由美はそうしなかった。
「私はこのまま見守るだけでいいの。あの子が急に水上家の子じゃないと言われたら傷つくわ。それに裁判にでもなったら多くの人の目に触れて好奇の目で見られるしね・・・」
由美は母と名乗れなくてもそれでいいと思っていた。だからそれ以上の動きをしなかった。
だが奥山は他に気になることもつかんでいた。貴子は翔太をかなり嫌っていたが、彼女や秘書の大塚が翔太を亡き者にしようと計画しているようなのだ。雅雄はそれを知っているようだが止めようとしない。それにある警察官もその計画に加担しているという。その計画がはっきりわかったのはあの「うみのこ」に翔太が乗船した時刻だった。彼はすぐに由美に電話で連絡した。警察も安心できない。すぐに下船して、話を通している永源寺の知り合いのところに身を隠せと。
由美はすぐに翔太と2人きりになって話をした。
「翔太君、すぐに先生と『うみのこ』を降りるのよ。あなたは悪い人に狙われているのよ。私は君を守りたいの」
「でも先生。僕は・・・」
「お願い。信じて!」
由美は真剣な顔で翔太をじっと見つめた。
(詳しくは説明できない。でもこのままでは命が危ない。わかって!)
彼女は祈るような気持で翔太の返事を待った。すると彼は大きくうなずいた。由美の懸命な思いが通じたのだ。
「わかったよ。先生」
「ありがとう。これから怖い思いや嫌な思いをするかもしれないけど、先生がきっと守るからね。行きましょう」
由美は翔太を連れて下船した。もう自分しか守れないと必死な覚悟で・・・。だがあまりに慌てたものだから自分のスマホを忘れてしまった。もう取りに帰る時間はなく、自分のスマホを大崎に預かってもらって、彼の仕事用のスマホを借りることになった。それに身を隠すために大崎にも協力してもらうことにした。その代わり翔太の無事を知らせるためにその姿が写った画像を大崎のもう一つの私用のスマホに定期的に送ることになった。
由美は下船した後、京阪びわ湖浜大津駅からJR膳所駅に乗り継ぐつもりだった。だがその前に思わぬ人物に会った。それは運命のいたずらか、前夫の赤木竜二だった。彼は何と誘拐犯の一味だったのだ。翔太が自分の実の子供とも気付くこともなく、由美を仲間だと勘違いして2人を車に乗せた。
赤木は翔太を車に乗せて引き渡すだけの役目だった。このままでは翔太の身が危ないと比叡山ドライブウエイの夢見が丘で休憩を取っているとき、由美は赤木を欺いて翔太とともにその車で逃げた。
それから途中で車を隠し、ケーブルカーで下山して日吉大社で翔太の安全をお祈りした。そしてJR湖西線で山科まで行き、そこからJR琵琶湖線でJR近江八幡駅まで出てバスで永源寺までたどり着いた。
由美は大崎と連絡は取っていたが、奥山とは連絡を取らなかった。これ以上、巻き込みたくないからだった。自分と連絡をとっているのがわかったら奥山まで誘拐罪で逮捕されると。だが大崎からの連絡が途絶えた。それで仕方なく奥山に電話すると、そこで思わぬことを聞いた。身代金を奪おうとした者がいたのだ。由美は大崎が信用できなくなり画像を送るのをやめた。
その後、奥山が迎えに来ると電話してきたが、1日待っても宿舎に現れなかった。もしかしたら捕まってしまったのではないか。このままでは自分たちも危ない・・・由美はそう考えて宿舎から出て観光客に紛れて湖東三山を回り、やっと彦根駅にたどり着いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(これからどうしようか・・・)
翔太は狙われている。安全を確認するまでどこかに身を隠すしかない。信用できる人がいれば・・・由美はため息をついた。そして奥山から連絡がなかったかとスマホの電源を入れた。すると彼からのメールが届いていた。発信時間はついさっきだった。
【私は大丈夫だ。事件は解決した。県警の片山警部補に迎えに行ってもらう。彼は信用できる。私のスマホを預けてある。玄宮園で待っていなさい】
由美はそれを見てほっとした。
(多分、警察の捜査が水上貴子や大塚武志に及んだのだろう。手を貸した警察官も逮捕されたに違いない。もう安心だ)
由美はスマホをしまって翔太に言った。
「もう大丈夫よ。家に帰れるわ」
「本当!」
由美の安心した表情から翔太も危機が過ぎ去ったことを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます