第35話 湖東三山

 荒木警部は湖東三山の一つ、百済寺に向かった。聖徳太子により創建されたこの寺は日本の紅葉百選や近畿五大紅葉にも選ばれている。樹齢400年余のスギやツバキの常緑樹を背景に、赤く染まったカエデの石垣参道は、ルイス・フロイスが「地上の天国一千坊」と絶賛した光景でもある。ここもこの季節にはこの素晴らしい景色を眺めようと観光客が押し寄せていた。

 そこではすでに捜査員が聞き込みに回っていた。荒木警部が到着したころにやっと2人を知る男性が見つかった。藤木刑事がその男性を荒木警部のもとに連れて来た。

 荒木警部がその男性に写真を見せながら尋ねた。

「この2人を見たのですね」

「ああ。永源寺近くの山道を歩いていたんだ。停まって聞いてみたら百済寺に行くと言うんだ。さすがに歩きではかわいそうだから車でここまで乗せたよ。俺もここに用事があったから」

「彼女たちはどこに行きましたか?」

「さあ、観光客には見えなかったけど・・・この紅葉でも見ているんじゃないかな」

 確かに緑川由美と翔太君はここに来た。だが捜査員が探してみてもその姿は見つからない。

「ここから移動したか・・・」

 荒木警部は辺りを見渡した。周囲は真っ赤に紅葉した景色が広がっていた。

「この百済寺は湖東三山の一つ。紅葉の名所で多くの人が訪れている。それならここからは観光客のためのバスが出ているかもしれない。おい! 藤木!」

 荒木警部は藤木刑事を呼んだ。

「ここから観光客のためのバスが出ているはず。わかるか?」

「はい。シャトルバスが出ています。湖東三山の金剛輪寺、西明寺です」

「わかった。捜査員を2手に分けてそれぞれを捜索する。みんなを集めてくれ」

 荒木警部はそう言って自分のスマホを開いた。そこには捜査本部の山口刑事から情報が入れられている。

「水上貴子の秘書の大塚武志のことか。子供をベビーシッターに任せて高島の別荘から姿を消したか。やはりな。あと何かわかったのか? ん? 偽名か。本名は紅林利勝。こいつは・・・」

 荒木警部はその名前に覚えがあった。恐喝や詐欺などの前科があるが・・・。

「確か、ヤクザ崩れの凶悪な奴だ。証拠はつかめていないが5件の殺人の関与が疑われている。それに相手が警察官でも脅迫してくる奴だ。こんな奴が関わっているのか!」

 荒木警部は顎に手を当ててため息をついた。


 ◇


 佐川刑事は赤色灯を回し、サイレン音を響かせて名神高速道路を飛ばしていた。彼が「ジープ」と呼ぶ水陸両用4輪駆動車ではあるが、そこいらの車以上にスピードが出せる。彼は運転しながら緑川由美のことを考えていた。

(彼女は翔太君の命を狙う者たちに追われている。いや、そればかりではない。警察からも逃げなければならない。奥山が逮捕された今、彼女はどうしようというのか・・・)

 このままあてもなく永遠に逃げるわけにはいかない。いつかは出て来なければならない。

(翔太君を狙う水上貴子と大塚武志が逮捕されるのを待っているのか・・・。『うみのこ』をシージャックした犯人は逮捕されている。その指示したメールは専用アプリのために消えているが、科捜研が復元している。すべてが明るみに出るのは時間の問題だ。きっと指示役のエヴァが捕まり、その背後にいる貴子たちが逮捕されれば安心して出て来られるだろう。だが・・・)

 見つからなければ公開捜査になるかもしれない。それなら由美に行き場はない。彼女は逮捕され、家に戻った翔太は最悪の場合、別の方法で殺されるかもしれない。それにもし公開捜査になる前に貴子たちが逮捕されて翔太が安全になったとしても、由美が誘拐した事実は消えない。翔太君を守ろうとしていたとしても・・・。

(彼女はすべて覚悟の上だ。多分、翔太君を傷つけまいと自分が母親だということは言うまい。ただ誘拐の罪をかぶって翔太君を守るだけだろう)

 佐川刑事には彼女の心情を思いやるとやるせなかった。事実が公表されれば翔太にとって残酷なことが待ち受ける。由美はそれだけは避けようとしているのだろう。だが刑事であるからには真実から目をそらすことはできない。それと向かい合わねばならない。

 その時、無線で梅原刑事が連絡してきた。

「どうした?」

「緑川由美は永源寺にはいません。荒木警部たちが百済寺を捜索しましたが、そこも出ているようです。捜査員は金剛輪寺や西明寺に向かっています。佐川さんはどこへ?」

 荒木警部は紅葉に名所である湖東三山のどこかに緑川由美が隠れていると踏んでいるようだ。だが佐川刑事は違った考えを持っていた。

(いや、もっと先だ。彼女は必死に逃げ回っているんだ!)

 佐川刑事は無線で梅原刑事に返事をした。

「俺はもっと先に行く。彦根だ! 荒木警部に伝えてくれ!」

「その荒木警部から佐川さんに伝言です。水上貴子の秘書の大塚武志の正体がわかりました。脅迫などの前科がある紅林利勝です。荒木警部の話だと殺人の疑いがある凶悪な奴だそうです。十分、気を付けるようにとのことでした」

「わかった」

「それにですね・・・」

 梅原刑事の話は続いていた。その間も佐川刑事はスピードを上げて彦根に向かっていた。


 ◇


 金剛輪寺は湖東三山の真ん中に位置する。その雄大な本堂と三重塔が山上に建ち、晩秋の深紅に染まる色鮮やかな紅葉は「血染めのもみじ」と広く知られている。ここも鮮やかな紅葉を見ようと観光客が多く訪れていた。

 堀野刑事たち捜査員が到着して、すぐに緑川由美と水上翔太を捜索すべく聞き込みを開始した。ここには百済寺からのシャトルバスが運行している。そのバスに彼女たちが乗ったのならここに来ているはずであった。

 だがいくら探しても目撃者にも当たらない。堀野刑事は思った。

(こんなに多く観光客が来ているから、もし緑川由美や翔太君がいたとしても覚えていないかもしれない)


 一方、西明寺には荒木警部が率いる捜査員が到着していた。この時期には千本を越えるモミジが紅葉し、境内を真っ赤に染める。ここには樹齢250年の不断桜があり、この時期に満開になって紅葉の中にその花びらを散らす。

 ここにも緑川由美や水上翔太の姿はなかった。だが彼女たちを見かけた目撃者はいた。それは観光客の高齢の女性だった。

「確かにいました。金剛輪寺からのバスに。席を譲ってくれたのですよ」

「どこにいきました?」

「いっしょにバスを降りたと思ったのだけど・・・。お礼を言おうと思ったらいなくなって」

 緑川由美と翔太君は多くの観光客に間に紛れて行ってしまったようだ。

「どんな様子でした?」

「何か思い詰めているかのように・・・。子供さんも表情が暗かったように思います」

「そうでしたか」

 荒木警部は、緑川由美が追い詰められた気持ちになっていると思った。彼女は警察官の中に犯人に通じている者がいることを知っている。それで警察からも逃げ回っているのだ。それを子供ながらに翔太君も感じている。

(早く2人を保護しなければ・・・。ここにいなければ、あとは・・・)

 荒木警部は彦根の方角を見た。

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